踏み込み
今のサノは邪教の信徒や妖術師と同じだ、とチッカは言った。シェイアは別の世界から力を引っ張って来ているとも言っていた。
けれどそれだって普通、あそこまでにはならないだろう。だって両方とも人族の枠は抜け出せないはずで、ちゃんと殺せば死ぬものだ。
だからなにかカラクリがあるはずで。それがサノという名に関するものであると、マシェリは知っていたのだろう。
―――だから、そなたはサノを名乗るな。たとえただの言葉遊びであろうとな。
シェイアの魔術に追われてあの滝壺に落ちた後、そう言われた。アレの本当の意味は、そういうことだったのではないか。
もしかしたら人間の僕でもあんなふうになってしまうかもしれないから、サノを名乗ってはいけないと、そう言ってくれたのではないか。
じゃあラミルンはもっと名乗っちゃダメだろ。
放たれた矢が光を纏っていた。砕け散って宙を舞った氷の花弁が吹き飛ばされていく。
駆ける。あんなのきっと、何度も放てないから。
サノの名はかつての英雄のものであり、呪いそのもの。
自由と誇りを戦いによって掴み取った歴史の象徴で、魔物化と滅びゆく運命の原因。
今のサノをああしているのが、兎人族が受け継いできた名にあるのであれば。……同じ兎人族であるラミルンにも継承権はあるはずで、彼女は迷わずそれを実行した。
新たに名乗る者が現れれば、その名の意味は薄れるのではないか。
なんなら奪えるのではないか。
それでなくても、ほんの少しだけでも邪魔くらいはできないか。
理屈は分かる。けれど。
「正気じゃない」
名の継承に割り込みをかけ、今のサノを弱体化させる。……だけじゃなく、あの矢になんらかの力が宿っていることを見れば、彼が使っている力を引っ張っているのだろう。名の継承は承認されたのだ。
そんなの、一矢だけ放って倒れるならいい方だ。そのまま死ぬのでもまだマシで、今度はラミルンがああなる可能性すらあるのではないか。少なくともそれをマシェリは危惧して止めようとしていたし、ラミルンも覚悟の上の言い方だった。
ああ、もう。そうなったら最悪だ。本当にもう手立てはない。アレが二人に増えたなら、被害なんて倍じゃすまないに違いない。歴史上でかつてのサノが起こした叛逆は十の獣人種を滅ぼしたが、今回はすべての人族が滅ぶのではないか。
でもまあ、そうなったらもう仕方がないよね。―――なんて、そんな選択をしたのだ。どこに正気があるんだそんなの。
サノは氷剣で飛来する光輝く矢を叩き落とそうとする。
それはあまりにも迂闊な失敗だった。あんなの避けの一手に決まっている。けれど彼は逃げない。逃げるなんてできない。臆病さから目を逸らし、恐怖から背を向け、怒りで衝動を発動させる種族の兎獣人には、暴走して命を落とす末路が待っている。
安物の酒瓶のようだなって、場違いに思った。暴れケルピーの尾びれ亭でたまに見る、テーブルから落ちて床に当たるガラスの瓶。
黒い氷が粉々に砕け散る。氷剣を砕き、腕を貫き、胴を突き抜いて背から出る。
けれど分かる。あれでは殺せない。それでもサノは死なない。この程度で死んでしまうワケがない。だから駆ける。
―――なら、さすがに頭を潰せば殺せるサ。
狙うは代替ができない頭部。
初めて持つ里長の槍は手に吸い付くように馴染んでいた。魔獣の素材だからだろうか、いつもの槍よりもずっと魔力が通りやすいのだと感覚で分かる。
使う技は決まっていた。アンサルクロストフの錬金術師に禁じられたもの。そしてたぶん、アンサルクロストフの錬金術師が……理想の果ての幻想に手を伸ばす者たちが、ずっと追い求め続けているもの。
ウェインに斬られ、鎌のように湾曲した剣と化した脚がしなる。僕の命など易々と刈り取る蹴りが放たれる。
あの矢に貫かれてすぐ動けるなんて誤算だった。避けられるタイミングじゃない。僕が知ってる最低の悪態を吐こうとして、視界の端でなにかが動いて、だから胸部を貫くそれは無視した。
黒い氷剣が革鎧を貫き、服を裂き、肉と骨を断って、刃先が心臓に触れる。剣と槍が砕く。
一歩進む。槍先の狙いを定める。自分でも驚くほどに魔力の集中が上手くいった。
敵の残った右腕の剣が突き出される。狙いは首……いや、あの切れ味ならば急所など狙う必要がないし、顔面からそのまま頭部を穿つつもりか。僕とまったく同じ狙いだ。相打ちなら大金星。そのまま真っ直ぐ行く。
三重の防御壁と魔術の光縄が阻む。剣が鼻先でビタリと止まる。そのまま前へ、頬骨を削りながら氷剣を横切る。
危険を感じて最後の左脚でサノが跳ぶ。大きく後ろへ退く。
けれどその脚は大地を蹴れていなかった。爪先は吸い付くように地面から離れない。兎獣人の移動力はまったく発揮されず、一歩の距離すら動けてなかった。
サノの左目と僕の視線が交錯する。
踏み込みが、世界を震わせるほどに響く。




