足跡
その光景には、恐怖を覚えるに十分なおぞましさがあった。
足跡が地面に残されていた。小さく、多く、そして荒々しさを感じさせるそれは、蹂躙するように森を横切っている。ゴブリンの足が向かう先には、茂みにベシャリと血の飛び散った跡が残っていた。
小さい足跡の中に、普通の大きさの足跡も見つけることができた。小さな足跡に踏まれてほとんど消えかけているそれがムジナ爺さんのものであると、チッカに説明されるまでもなく理解できる。
たくさんのゴブリンに、追われている光景。それが容易に想像できて、唇を噛みしめる。
「んー……おかしいね。爺ちゃんはゴブリンを二匹殺したって最期に言い遺してたけど、死骸が見当たらない」
この光景を前にしても、チッカは冷静に周囲を見回し、分析している。
「シェイア、ゴブリンって共食いとかするの?」
思い浮かべてしまって、思わず吐きそうになった。
「読んだ書物に記載はなかった」
「いや……共食いしたとしても骨は残るだろうがよ」
シェイアが大真面目に答えると、ウェインが顔をしかめてまっとうな指摘をする。たしかに、ゴブリンの骨らしきものは見当たらない。
「そうだね。うーん、爺ちゃんの見栄っ張りじゃないとして、やっぱり遭遇したのはここじゃなくてこの足跡が来た方向ってことなんでしょうね。来た方向にも血の跡が点々とあるし」
チッカはゴブリンに踏み消されかけたムジナ爺さんの足跡を、同じ歩幅で追い辿る。
「怪我をかばっているけれど、可能な限り早く走ってる。足跡は消してない血の垂れた後もあるね。……ここまでは」
そう言って立ち止まったのは、ゴブリンが向かった先……ちょうど、血しぶきが飛び散った場所の前だった。
「……昔の冒険者の知恵なのかな。こんなのマネする状況に追い込まれたくないけど、一応覚えとこ」
うへぇ、とそう呟きを漏らしてから、チッカは読み取った情報を口にする。
「刺された傷から流れ出る血。それを手に溜めておいて、この先へ投げたんだと思う」
チッカは右手の指を閉じて作った手のひらの器を、自分のお腹のところに当てる。そして空想の血がこぼれないように右手をお腹から離すと、勢いを付けて投げる動作をした。
「ゴブリンみたいな邪悪な魔物は血の臭いに敏感だし、目にすれば興奮するからね。これで向こうへ行ったと思わせて、自分は傷口を押さえつつ足跡も消して別方向へ逃げたってとこかな。間違いないと思う」
……自分の血を囮にしたのか。
深手を負って追われてる状況で、そんな知恵を回して追っ手を撒き、この森から逃げおおせたのか。
すごい、と思った。僕では絶対にできない発想だ。ムジナ爺さんはすごい。腰抜け、なんて二つ名は馬鹿にした呼び名だと思っていたけれど、そんな二つ名で呼ばれるくらい逃げの引き出しがあったということなのだと、今やっと分かった。
もっといろんなことを教えてもらいたかった。……そう、心から惜しんだ。
「けど……ちょっと変なんだよ。こんなことをするってことは、ここにいる時点でムジナ爺さんはゴブリンから見える範囲にいないってことだ。遭遇して、傷を負ったけれどどうにか逃げ出して、追われてる状況……なんだけれど」
足跡が来た道を振り返って、斥候のハーフリングはどうにも腑に落ちない顔をする。
「ここに来るまで、爺ちゃんは足跡を消していない……というか、わざわざ柔らかいところを踏んで跡を残している感じもする。血も垂れ流しだし。さっさと姿をくらませばいいのに、なんだか―――こっちにゴブリンを誘導しているような」
―――足跡が来た方向を、方角を、見た。
分かってしまった。心当たりがあった。なにがあったのか、どうしてこんなことになったのか、直感で思い当たった。
「―――……マナ溜まりの方向だ」
呆然とした。頭の中が真っ白だった。フラつきそうになって、槍で支えてもダメで、膝から崩れ落ちた。
「昨日、僕が一人で採取しに行った場所だ」
無意識に口から漏れたそれは、懺悔のようで。
ムジナ爺さんは僕のせいで死んだのだ。
「へぇ、そいつは。マシな死に方したな、爺さん」
場違いに明るい声がした。ウェインが感心したような声音に、偽りの色はなかった。
「なるほどねー。……腰抜けムジナが二匹殺したって、おかしいと思ったんだよね」
チッカが得心した様子で腕を組む。ウンウンと頷く。
「報告するべき情報はだいたい揃った。あとは殲滅だけ」
シェイアはもう足跡が向かった先を見据えている。
……この三人は、どうしてこんなに平静でいられるのだろうか。ムジナ爺さんが命を失った事件の真相が分かって、その死の責任がある僕がここにいるというのに。
「いや、べつにガキんちょのせいじゃねぇし」
僕の顔を見たウェインが、頭の中を見通したかのようにそう否定した。
自分がどんな顔をしているのか分からないけれど、きっと酷い顔をしているのだろう。
「爺ちゃんの判断でやったことだしね。ま、でもチビの気持ちは分かるから、帰ってから気にしなよ」
チッカが無茶を言う。この気持ちを一旦しまっておけと言うのか。
そんなことができるはずがない。できる人間になりたいとも思わない。
「冒険者の死はだいたい無駄死に。けれど仲間をかばった死には意義がある」
人の死に無駄とか意義とか、そんなものを見出して優劣をつける価値観に吐き気がする。
「だから、かばわれた方は生き様で価値を示さないといけない」
シェイアの言葉は、励ましのようで……呪いのようで。
否が応でも前を向かなければならないのだと、強制する呪縛に違いなくて。
物語に出てくる怖い怖い魔法使いを思い出した。
「立ち直れず酒浸りになった者がいた。自棄で後遺症が残るほど腕を自傷した者もいた。危険な依頼を請けて後を追うように死んだ者もいた。……かばったのがそんな者たちだったら、無駄死に」
酷い言い様だ。どうかと思う。
けれど下手に衣を着せていない分、言葉の刃は鋭く喉元に突きつけられた。
「あなたは立ち上がりなさい」
氷のように冷たい、残酷な目と声。地面に着いた膝が震えた。
「なあウェイン、爺ちゃんはかなり深手だったはずだけど、人間って腹に短剣生やしながらこんなに移動できるものなの?」
「刺された箇所にもよるが、どうだかな。よっぽど気合いと根性入れねぇと普通に力尽きるだろうし……控えめに言っても奇跡じゃね?」
「だ、そうだよ。チビ」
呼びかけられて、心臓が跳ねた。
「奇跡を為してまでゴブリンをここまで誘導したムジナは誇っていい。……けれど、それを無駄にするのはやめておきなよ」
「………………」
震える膝を手で押さえて止めた。槍の柄を握りしめ、石突きを地面に突き立てる。
ここで立てなかったら、ムジナ爺さんに悪い。
だから、立った。本当は泣きたかったけれど、崩れ落ちたかったけれど、槍で自分を支えてなんとか立ち上がった。
「よし、じゃあ行こうか。多分ゴブリンはここからすぐだよ」
チッカの先導で、僕らはまた進み出す。




