わずかな間 2
憤怒が自分を支配していた。すべてなぎ倒せと湧き上がる衝動が身体を突き動かす。
産まれて初めての衝動に身を任せるのは快感だった。全力で殺意に委ねるのは愉快だった。自分のものじゃない禍々しい力は最悪に気持ち悪いけれど、全身が歪んでいく感覚は吐きそうだけれど、最高に昂揚していた。
このまま全部殺せばいい。
けれど。
小さな、子供の兎獣人だった。黒の耳と体毛、つぶらな瞳が特徴的で、必死の表情で両腕を広げていた。それが虎獣人の女王をかばっていた。
なんでこんなところに子供がいるのか。なぜ敵をかばうのか。兎人族の里の者なら全員知っているはずなのに、どうして彼を見た覚えがないのか。
それらの疑問が頭の中で形になる前に、剣が止まる。
どれだけ変貌しても、どれだけ歪んでも、自分は兎人族の長だった。であれば、兎獣人の未来である子供を手に掛けるわけにはいかない。それだけはやってはならないと、霞がかった意識が全力で抗う。
その拮抗は、まだ少しだけ残っている人族としての誇りが生んだ、ほんのわずかな時間。
怒りに塗り潰され再度氷剣を振るうまでの、数秒。黄虎族の女王と諸共に子供を手に掛ける直前。
「―――クンク!」
人間の子供の声がして、背中に衝撃がはしる。
「着いたよ、みんないる!」
森を一足先を進んでいたチッカが声をあげる。
だいたいの事情は道中ですでに話していた。後で絶対にシメられるけれど、とにかく今はそれどころじゃないと分かってくれた。
そうしてやっと追いついた。でも、追いつけた、なんて思ったのはほんの束の間だった。
「……こりゃ、間に合ってないね」
続いた言葉に、嫌な予感が増幅する。
来る途中から大きな音や、夜の空に咲く氷の華、冬のような寒気などは察知していた。だから明らかにおかしいことが起こっている。それは分かっていて、嫌な予感は湧き上がるばかりで、とにかく走ってここまで来た。
でも、人間の脚でどれだけ急いだとしても、マシェリよりだいぶん遅いだろう。彼女は獣人の脚に加え、雷の魔力を使って普通では考えられない速度で駆けていった。土地勘もある。
かなり時間が空いてしまったはずだ。その間にどうなったのだろうか。
「おいおい、どうなってんだあれ。ヤバくないか?」
「今すぐ逃げるべき」
ウェインとシェイアが顔を引きつらせて足を止める。
「なによアレ、サノなのっ?」
「みんな倒れてますよぅっ」
リルエッタとユーネが驚きの声をあげる。
僕は最後尾。パーティに他に斥候がいるときはいつも、僕は最後尾で後方警戒を任される。
だから一番最後にそれを見た。
みんな倒れていた。兎獣人も、虎獣人も、冒険者たちもほとんど全員。
かろうじて立っているのはテテニーとコルクブリズ、そして神官さんくらい。けれどそれも満身創痍で、満足に動けそうな人はいない。
そんな彼らが相対しているのは、黒い氷を身に纏った……かなり変貌した、サノだった。
予想していた状況ではない。明らかに想定外。なんだアレは。
理解はできなくて、けれどなにが起こっているかはなんとなく分かる。彼は簡単に衝動に身を任せるタイプではないと思っていたけれど、サノが暴走したのだろう。
その証拠に明らかに殺意をもって、闇のように黒い剣ををマシェリに向けて振り下ろそうとしていたのだから。
マシェリが殺される。その光景を見たときにはもう、森から全力で跳びだしていた。駆けていた。制止する声が聞こえた気がしたけれど、止まることはなかった。
彼女と僕は決して仲間じゃない。それは分かっている。マシェリは僕に助けてほしいだなんて思っていない。それも分かっていた。
でも、マシェリはただ黄虎族の民のために動いていただけなことを、もう僕は知っていた。こんなところで死んでいい人だとは思わない。そんな思いが自分の身体を突き動かす。
けれど間に合わない。僕が辿り着く前にあの氷の剣はマシェリの首を刈るだろう。それほどの絶望的な距離があって。
「―――ダメ!」
遺跡の壁の影から跳びだした小さな兎獣人が、立ちはだかるのを見た。
「クンク!」
知った顔だった。小さな兎獣人だった。戦いなんて絶対にできない子だった。君はダメだろと本気で思った。
サノの剣が止まる。ほとんど転びそうになりながら駆けた。僕の手にはまだ槍代わりの棒があった。
一撃。―――自然、それを意識した。本来なら気が遠くなる修練を経て習得するのだろう神官さんの技を、擬似的に使用する術。
以前ブリザードウォレスを倒したそれは、アンサルクロストフの錬金術師であるグミさんに禁じられた技。……槍ではなく棒であればそれくらい使わなければ、今のサノは止められないと直感で分かる。
たぶん、僕はもう分かっていた。もうサノが普通ではないことを。
彼が魔物になってしまったことを理解していて、そして躊躇などできる状況ではないと理解していて。
サノの剣が再度振りかぶられる。よく見れば腕が凍り付いてできた氷の剣。
クンクがつくったのはほんのわずかな間でしかなかった。けれど間に合う。
踏み込む。




