史詩の記録
槍を向けられていた。
斧を向けられていた。
弓を向けられていた。
剣を向けられていた。
拳と、視線が向けられていた。
「止まってください、サノ」
再度の呼びかけ。
どうしてだろう。自分はあまりにも目に余る兎人族を躾けているだけなのに。
彼らには危害を加えていないのに。
寒い。
冷たい。
身体が凍えるようだ。
熱い。
灼ける。
心が焦げ付いていくようだ。
胸の下でなにかが渦巻いている。冷たくて熱くて、なにも考えることができない。
ただ、湧き上がってくるものがあった。
「カラトア神官」
どうしてか涙が流れる。熱いそれはすぐに凍り付いた。
どこからくるのか分からない涙。けれど次の自分の言葉で、その意味が分かった。
「―――今まで、ありがとうございました」
心からの感謝だった。
彼女にはよくしてもらった。ゴブリンのときも迷宮蟻の件も彼女に助けてもらっているし、戦い方を教えてもらったし、反感を持たれても粘り強く兎人族のために貢献してくれた。
だから、つらい。
きっともう無理なのだろう。
兎人族は彼らの信用を取り返しがつかないほど損なってしまったのだ。自分がここにいる全員を処刑して詫びたところでもはや戻るまい。
本当にごめんなさい。許してほしい。自分はあなたたちと共に在りたかった。
でも、どうしても、呆れるほどに愚かな者たちでも。
自分はやはり、兎人族の里長だから。
里の仲間たちの方が、あなたたちより大切だから。
剣を振り上げる。氷雪の華がさらに咲き、月明かりを受けて輝く。
戦士たちが突撃してくる。弓が引き絞られる。神聖魔術の呪文が耳に届いてくる。
もう彼らの信用は取り戻せない。
けれど……この場は森の奥。それも得体の知れない遺跡を通り抜けた先、山脈の向こう側。
「すまない……」
涙が止まらなかった。もっと上手くやりたかった。こんなことはしたくなかった。
けれどしかたがない。
全員を殺して、すべて無かったことにしなければ。
氷の剣を振るう。
最悪が産まれる。悪態を吐く。警告などしている場合かと舌打ちする。
実際に見てもそれがなにか分からないのか。それがまだ戻ると思っているのか。早く殺せ。
氷雪の剣が振るわれる。
前に出たドワーフが戦斧で止める。受けた戦斧が一瞬で凍り付く。手甲まで凍り付くのも構わず力で押し返す。右の剣が弾かれる。
その彼の後ろから、槍が突き出される。
「大丈夫でしょうか? よろしければ治癒魔術を使わせていただきますが」
声を掛けられて振り向いた。痩せぎすの中年の男がいた。
人間だから、あの冒険者たちの仲間だろう。聖衣も聖印も見たことはないが、立ち姿と顔つきだけで神職だと分かる。
この男、この状況でこちらへ来たのか?
「神官のコルクブリズです。兎人族の里長サノと虎獣人の戦士ワプナンの決闘、アーマナ神の名の下に見届けました」
「……そうか。ワプナンを頼む」
敵か味方か定かではない……というか、間違いなく敵側の人間に戦士を任せる。今は他に優先すべきことがある。
アレを殺さなければならない。もはや死活問題なのは黄虎族だけではない。
パチ、と指先に小さな紫電を奔らせる。自身があとどれだけ戦えるか確認する。
疲弊はしていた。元よりそう長く使い続けていいものではない。タイミングは考えなければならない。
だが、まだ戦える。
「マシェリ……オレは大丈夫だ。一緒に行くぜ」
「手負いで戦える相手か。来るならそいつに治療してもらってから来い」
「アンタから貰った怪我が一番重いんだよなぁ!」
「文句があるなら来るな」
女王として戦士に命令する。槍に貫かれた手も、電熱で無理矢理塞いだ胸の矢傷も決して軽くはなかろうに。
どうせ死地だが、今の彼の身体で行っても無駄死にするだけだ。せめて役立ってくれなければ、死後に天上で誇れまい。
「加勢いただけるので?」
暴走した兎人族の両腕を凍らせる氷剣が、明らかに巨大化していた。
最初は長剣ほどだったが、今や彼の身長ほどもある幅広の大剣になっている。それなのに軽々と、その男は踊るように両の剣を振り回す。
前衛は二人がかりで防戦一方。女の方の神官も防御と治療にかかりきりのようで、兎獣人の弓使いが放つ矢は氷の花弁がすべて弾き飛ばしていた。
「元より妾の敵だ」
事態は一刻の猶予もないが、神官は治癒の呪文を唱え始めない。だが悠長だと指摘する必要はないだろう。
おそらく彼がここに来たのは、あちらでもっともアレの危険さを察したからだろう。あれがなにであるのか、それを知るのをなによりも優先すべきだと分かっているだけだ。
「……先に聞いておきますが、あなた方も怒らせたらああなるのですか?」
「我らをあんな化け物と一緒にするな」
吐き捨てるように答えてやる。黄虎族の戦士も魔物化はするが、それでもあんなものと同列だとは思われたくない。
あれはこの世の最悪だ。自分たちではあそこまで届くことはできないし、絶対に届くべきではない。
「先ほど、アレをサノと言ったな。兎人族の里長サノだと。もしかしてだが、奴らはその名を長の称号のように使っているのか?」
「そのようですな。それが?」
「真なる愚者だ。あるいは魔物に近づきすぎたが故に、魂にそう書き込まれてしまったのだかな。あれほどの力を発揮できるのは個人の資質も大きいだろうが、それでも因果が縁で結ばれなければもう少しマシだっただろう」
受け継いできた、ということは、縁は一度も切られていないはず。少しずつ積み上げるように、その導線は繋がっていた。
まったく、ここまでとは考えもしなかったぞ。
「サノは英雄の名ではない」
その名が、そんな輝かしいもののはずがない。むしろまったくの逆だ。
それは、この世界を創造せし神々に弓引く者の名なのだから。
世界を破壊しかけた存在なのだから。
「サノとは―――かつて怒りにより暴走し、同種たちを暴走させ、十の獣人種を滅ぼした大悪の根源。首刈り兎と呼ばれ恐れられた魔物どもの頭領だ。……故にその名は、魔物を率いて神々の子たる人族と敵対し、屍の山をつくりあげた者として史詩にも記録されているだろう」
「……それは」
コルクブリズの細い目が険しく開かれる。驚愕の視線は、大きな翼のような氷の剣を振るうサノの方へ向けられる。
うすうすは気づいていたのかもしれない。あれを見れば、そうではないかと感じてしまうのはむしろ自然か。
この身には魔物に近しい兎獣人の血と、あれに滅ぼされた虎獣人の血が流れている。だから明確に、あれはそうなのだと分かる。
「―――サノとは、魔王の名なのだ」




