魔物の力
「認めぬ」
煮えたぎるような憤怒の声。
視線を巡らせれば前里長が弓を向けていた。……けれど、そこに矢は番えられていなかった。
放った後なのだ、と理解する。ふざけるな、という感情がわき上がってくる。
「兎獣人最強の戦士たるサノが、虎獣人に負けるなど認められぬ」
それも衝動か。彼らが誇りとのたまう、怒りによる呪い。自由を得たことによって刻まれた、自制の鎖に対する傷。兎獣人の宿命である欠陥。
知ったことか。なんなのだそれは。そんなどうでもいい昔話で今を汚すな。
ワプナンの膝が崩れる。
「殺せ!」
前里長が号令する。
冒険者たちが動く。
カラトア神官が駆けつけてくる。
ああ……怒りが炎のようだ。
もはや羨ましくすらある。なぜ自分には、あの後先もなにも考えず行動することができる衝動がないのだ。
この身が動けば、自分が前里長を殺してやるのに。
虎獣人の身体から、紫電が発せられる。
森を全力で駆けながら、ピリ、と頬に紫電を感じた。不思議と誰のものかは分かった。
牙有りが怒りで我を忘れることはままある。今までも何度か経験してきた感覚だ。
堕して改竄された魂にできた隙間から、直接魔力を汲み取る力の解放の気配。
「―――ワプナン」
黄虎族でもっとも若い牙有りであり、故にもっとも衝動による堕落が進んでいない戦士。
最悪戦闘になったとしても、怒りを解放してしまい何人か殺したとしても、奴らが早々に逃げ出しさえすれば、進行が少ないオレなら堕ちきらないかもしれない。……そう志願して警戒役を買って出た勇士。
その気配を感じながら、大地を蹴る。
自分は黄虎族の中でも特殊だ。相性が良すぎるが故に我らの衝動は兎獣人よりも強いはずだが、それを乗りこなせる唯一の虎獣人として自分は特別扱いされた。
黄虎族の女王は、理性をもって魔物の力を引き出せるからこそ与えられた役割なのだ。
だからこそ、自分がそれを感じたということは……。
「我を忘れ、衝動に支配されるのは未熟の証」
ゆえに、戦士たちが望んでその力を使うことはない。たとえ死に瀕したとしても、それが正々堂々とした戦いの末であれば潔い死を選ぶだろう。
おそらくは相応のなにかが起こったのだ。
「待っていろ」
いくら衝動による力を得たとしても、向こうには数があるし練度も高い。早々に逃げ出してくれなかったなら、堕ちきる前に倒されることになるだろう。
理性をすべて無くした魔物になるよりはいい。そのときは戦士として死ね。
けれど死ぬ前に間に合えば、なんとしてでも助ける。
……だがもし奴らの方が不甲斐なく、ワプナンが魔物になっていたときは。
「慈悲として、妾が殺してやる」
閃光と、天を裂くような轟音。
「は?」
ザン、と大地を踏みしめる音。
ズブ、と矢を抜く音。
ジッ、と傷口を紫電が灼いて塞ぐ音。
彼以外の音はなかった。誰もが動きを止めていたし、声すらも発することができなかった。
全員が分かっていた。それがあり得ず、またあってはならないことだと。
人族は神によって創造され、この世界を任された存在だったはず。そんな者たちの中から魔物の力を操る者が現れるだなんてあってはならない。
ああ、でも。
これは自分たちのせいに違いなかった。
「これは獣人同士の決闘だった。いと尊き神々へ捧げられた、神聖なる戦いだった」
負けることばかりを考えて戦った自分も、敗北を認められなくて矢を放った前里長も、神々がおわす天へ唾吐くとんでもない無礼だっただろう。
ならば怒りを買うのは我らだ。とくに戦神ワグンダルは許すまい。
虎獣人の筋肉が盛り上がる。瞳が殺意に支配される。怒りそのもののような紫電を纏う。
けれどその怒鎚の力は、地に倒れた自分を避けた。
自分の身体は紫電の範囲に入っているはずだ。なのに痛みは襲ってこない。
顔のすぐ横にあった地面に転がる小石が砕ける。手のそばのひび割れた床材が穿たれる。なのに自分にはまったく当たらない。
少しでも理性がある? それで自分には当たらないようにしてくれる?
なら、これはまだ通常状態に戻るのではないか―――
「こ、殺せ! アレを、魔物に堕した虎獣人を滅ぼせ!」
前里長の悲鳴に近い怒声に、兎獣人の勇士たちが再度弓を構えて。
変貌したワプナンが大地を蹴る。前里長のいる方向へ。
やめろ。それはダメだ。どちらもやめろ。
殺すな。
追いかけようとしても鳩尾の痛みが意思を拒絶した。息ができなくて、力を入れようとした足が滑って。
「おおっ!」
豪快な野太い声。
金属鎧のドワーフが横から飛び出し、雷纏う虎獣人を正面から止める。
「はっ!」
よく通る美しい声。
ドワーフと背中合わせになって槍を回転させ、飛来した矢のすべてを弾き落とす。
「サノ、すぐに治癒します」
駆けつけてくれたカラトア神官が治癒魔術を使ってくれる。呪文詠唱が酷く長く感じて、時間がゆっくり流れているのかと思うくらいにもどかしい。
若い冒険者の二人が上級冒険者たちの加勢に入る。その彼らの周りに光の壁ができる。―――コルクブリズ神官の神聖魔術。
そして。
「少しは! 恥を知るっスよっ!」
上空から冒険者の最後の一人が飛来して、ダガーで前里長の右腕を切り落とす。




