魔物の首魁
キリの目的はもう、ある程度分かった。
彼は兎獣人の危うさを知っている。また、虎獣人との因縁を知っている。
女王に連れ去られ黄虎族の国に囚われた彼は、そこで暮らす者たちを目の当たりにしたのだろう。その中には虎獣人以外の戦えない種族もいたはずで、彼らを避難させて自らは囮となり、大規模な戦闘を避けようとした。
どうせそんなところだ。彼ならば、そういうことをする気がする。
正しい。
あの兎人族の前里長と老人衆を見れば、そう思う。彼らはきっと、どんな形だったとしても戦いを選ぶ。
「風上から来たか。我らの鼻の利きを知らぬと見える」
「知ってるよ。そこまでバカじゃない」
「そっちこそ、気づいていながら逃げないなら囮で確定だな」
前方で会話が聞こえた。チッカとラミルンと、黄虎族の女王―――マシェリ。
反射的に駆ける。夜の森はほとんどなにも見えなくて、段差で足を滑らせて悲鳴が出た。ほとんど転びながら前に出る。
「ちょ、大丈夫リルエッタっ?」
キリの声。顔を上げると、木々が避けるようにぽっかりと拓けた、月明かり差し込む森の隙間に無事な彼の姿があった。どこも怪我などしていない、憔悴した様子もない、いつもの彼だ。なぜ川に落ちたかのようにびしょ濡れなのかは気になったが、とっさにわたしの心配が出るあたり、やっぱり彼は操られていない。
「……大丈夫よ。すこし滑っただけ」
「け、怪我していたら言ってくださいねー。無理はいけませんよー」
パンパンと、スカートについた土埃を払う。追いついてきたユーネが心配して来るけれど、手で押しとどめた。
足を捻ったりもしていないし、今はこの程度のことで時間を使いたくない。
改めて状況を確認する。
周囲は大樹だらけのかなり深い森。彼らの周囲だけぽっかりと木々が避けていて月明かりが差し込んでいるが、その周囲は暗い。
普段は日光が遮られるからだろう、藪や低木、低い位置の枝などはあまりない。暗ささえなければ歩くこと自体は問題ない環境だが、獣人の感覚と土地鑑をもってすれば平地と同じようにどこでも駆けることができるだろう。
魔術は利きにくい。あの抗魔の外套に生半な魔術など打ち消される。兎獣人ほどではないだろうけれど耳もいいだろうから、矢も風切り音を頼りに避けるくらいはするのではないか。
厄介だ。逃げに徹されたら止めようがない。
「よう、黄虎族の女王さん。たしか名はマシェリだったか? 逃げ回るのも飽きただろ。俺と一騎打ちしろよ」
「…………」
最後尾だったウェインが姿を見せる。続いてやって来たシェイアはスッと近くの木の根っこに腰を下ろした。
……手を出す気はないという意思表示なのか、単に疲れたから休みたいだけか。この女だと後者のような気がする。
「人間の戦士か。あいにく、今は暇ではない。我が国の命運がかかっているのでな」
目論見が外れているじゃないの。
獣人なら決闘にのってくるはず、という作戦にもなっていない作戦は、やはり外れたようだ。
そもそも身分が違う。事情が違う。守るために民を避難させ、自ら囮を引き受けた女王が雑兵の申し出に耳を貸すわけがない。一時でもなるほどと思ってしまったわたしがバカだった。
悪態を吐きたくなるが、けれどマシェリは逃げようとしなかった。
首を巡らせて……周囲を警戒している? すでに囲まれていることを警戒しているのだろうか。特に風下の方に目線を向けている。
もっともその仕草に隙らしきものはない。ピリ、とヒリつきそうな緊張感があった。……単純に慣れているのだろう。こんな辺境に暮らすのならば、警戒も戦闘も日常なのだろう。
「ところでそなたら、人数はそれだけか?」
「他の人たちはどうしたの?」
二人が聞いてくる。
ああ、そうか。囮なのだから、こちらを引き付けなければならない。なのに他の者たちがいないのは問題だ。
「あいつらならアンタらが逃がした奴らの方へ向かったよ」
ピリ、と。
チッカの言葉に、空気がさらに張り詰めたような気がした。キリの顔が蒼白になる。
「―――そうか。どうやら、囮作戦は失敗したらしいな、童」
「そんな。は……早く助けに行かなきゃ!」
やっぱり相手に肩入れしていた。本当にお人好し。
「安心してキリ。あっちにはカラトア神官も、海猫の旋風団もいるわ。ニグとヒルティースは頼りないけれど、無抵抗な人たちに危害を加えるなんてこと、許さないはずよ」
「囮作戦が意味を成さなくなった以上、逃げ回る理由はない。投降をおすすめする」
わたしがキリに向けて状況を説明し、シェイアが座ったままの姿勢でマシェリに提案する。
そうだ。もう彼らの役割はない。ならば、逃げられることは考えなくていい。
決闘とか、魔術とか、そんなものは必要なかった。まるで相手の非戦闘員を人質にとったかのような形なのは嫌だが、これで終わりだ。
「―――たしかに、降伏が正しい。こちらは戦士の頭数が足りぬうえ、武器を知らぬ」
敵方の女王であるマシェリは、小考の後そう頷いた。
武器を知らない……ということは、古い獣人の風習を未だに続けているということだろうか。なら、たとえ戦える者の数が同等でも滅ぶだろう。
理解がさらに深まっていく。負けるのが目に見えて理解できたから、彼は向こうについたのだ。
「しかし残念ながら、我らはそれでもそなたらと戦うことができる」
トン、と。キリの背中が押された。わたしたちの方へ。
三歩ほどたたらを踏んで彼は振り返るけれど、虎獣人の女王はもう彼を見なかった。
「兎人族の戦士よ。堕ちた血を引く同朋よ。よく覚えておくがいい。怒りの炎とはむやみやたらに撒き散らすものではない」
ピリ、とさらに空気が張り詰める。
……いや。今、たしかにその音がした?
「憤怒の炎は敵を灼くかもしれぬ。しかし炎は見境無く周囲のすべて燃やし尽くすものであり、果ては己までも灰にするであろう。兎獣人の歴史がそうであるように、だ」
ラミルンへ語りかける口調は静かで、けれどたしかに深い深い怒気が含まれていて。
「心せよ、怒りは内に秘めて御すものである。―――我らはすでに、魔物に近いのだから」
闇に紫電が舞う。
堕ちた血。怒り。魔物。
まさか。
「魔術ではない、魔力の現象変換? 貴女……魔法が使えるの?」
「術士どもの定義など知らぬ。だが魔物とは、理不尽に強力な力を持つものだろう?」
黄虎族の女王……魔物の首魁が纏う雷が、夜を裂いて迸る。




