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次に目を開けると、目の前に煉瓦造りの壁と洒落た黒いランプがあった。男子寮は2キロ以内だったらしい。これを3回叩けばゴール、『春』終了だ。
ホッとしたのも束の間。左手から諍うような声がした。目をやって、男子生徒が三人、一人の女子生徒を囲んで何やら声を荒げていると気づいた時はギョッとした。
「さっきはよくも、間違った道を教えたうえに置いていってくれたな!」
「だから知りません!偽物に騙されたのでしょう!」
短いやり取りだけで状況は理解できた。どうするか。
女子生徒はとても華奢だ。肩までの銀の髪、可憐な顔立ち。10人いれば10人が可愛いと言うだろう。
でもそれだけではないことに、あの男子生徒たちは気づいているのだろうか。男三人で迫っているのに押されていない。むしろいつでも反撃に転じられそうですらある。立ち回りを知っているからだ。姿勢や引き締まった手足から見ても、おそらく彼女は武の心得がある。
目の前のランプに視線を戻した。ゴールは目の前だ。
…はあ。
私はそっとランプから距離をとった。
「もし、そちらのお方。今は行事の最中です。おやめになってください」
突然介入した第三者である私に4人の視線が一斉に集まる。
「…見ない顔だな。俺はパサイ伯爵家の長男だ。それでも口を挟むか?」
男子生徒は多少は冷静さを取り戻したらしいが呆れたものだ。こちらに値踏みするような視線を向けてきている。
女子生徒はといえば、彼らに気づかれない程度に後ずさりしたうえで成り行きを見守る構えだ。賢明である。
「ええ。パサイ家のルードルフ様におかれましては、ご健勝のこと何よりです……お元気すぎるのは、いただけませんが」
相手は目を瞠った。表情をコントロールできていない未熟な男に、終始薄く微笑んで対峙する。
そもそも貴族令嬢とは。
一挙一動は柳のごとくたおやかに、指先まで美しく。優美な微笑みの裏で毒を以って毒を制す。そのような戦い方を幼い頃から叩き込まれてきた、言うなれば腹芸の達人である。
私とて交友関係こそ狭かったが、貴族の素養は抜かりなく身につけている。当然、主な貴族の名前や役職、特徴も。
貴族同士の戦いは、隙を見せた方が負け。
ルードルフは私から少しも目を離さないまま言った。
「…申し訳ないが、お名前を、お聞きしても?」
私を見たことがないのは当たり前。その上で、下手に出たのは加点。私の態度や外見の特徴から答えを導き出せなかったのは減点。
そんな彼に、頭の先から爪先まで美しい淑女の礼を一つ。
「レベッカ・スルタルクと申します。以後お見知り置きを」
ルードルフは今度こそ震え、よろめくばかりの狼狽ぶりだった。
「スルタルク公爵家の宝石令嬢…!」
完全勝利を確信した私だが、自分にそんな恥ずかしい二つ名がついているとは思いもしなかった。
***
何やら取り繕って去っていった男子学生たちを眺め、ふうと息をつく。
この学園は身分の壁を取り払うことを原則としているが、それでもスルタルク家は王家も繋ぎ止めようと必死になる国内随一の公爵家。ルードルフは勉強不足という他ない。
私はそこで、こちらへ近づいて来ていた件の女子生徒に手の平を向けて制止した。
「近づかないでいただけますか」
私にお礼を言うつもりだったのだろう。ショックを受けているように見える。
「わ、私、偽物じゃありません。彼らを騙してもいません」
「あなたが偽物か本物かは重要ではないです。こうして目の前にゴールがある以上は。…ではまた後で」
無理やり会話を終わらせた。実はさっきからずっと、他の生徒が来やしないかとヒヤヒヤしているのだ。
女子生徒が何か言う前にランプを3回叩いた。
コン、コン、コン。
その瞬間私は大きな広間にいた。本校舎の中だろう。いい加減転送にも慣れてきた。
そこには既に7、8人の生徒がいて、新たな達成者である私を一様に見つめている。いつにも増して背筋を伸ばした。この人数を少ないと思うべきか、多いと思うべきか。当たり前だが殿下はいない。
間を空けず先程の女子生徒が隣に現れた。偽物ではないというのは本当だったようだ。
「…なぜ私を助けてくださったのか、お聞きしても?」
先程とは違い慎重に尋ねる瞳はあくまで理知的。
…初めて見た時も思ったのだ。侮らない方が良い、と。
「そうですね…あのとき、パサイ様たちはランプを一瞥もしませんでしたが、あなただけはじりじりとランプに向かおうとしているのがわかりました。
あなたはゴールをご存知だった。それだけの実力があり、加えてパサイ様たちにゴールを知られないようにするため、彼らを振り切ってゴールすることもできず困っていらっしゃるのだと察しがつきました。
…ここまであなたが本物というていでお話ししていますが、私にとってあなたが本物か偽物かは重要ではありませんでした。目の前にゴールがある以上、あなたが本物であった場合に私の順位を抜かそうと攻撃してきさえしなければ、どちらでもいいからです」
「だから『近づくな』、ですか…」
「ええ、ただ」
私はそこで壁際にあった椅子に腰掛け静かに靴を片方脱いだ。なんてことはない、ただの靴擦れである。あれだけ森を走ればしょうがない。
傷にそっと手を触れ、状態を見つつ続けた。
「本物であろうと偽物であろうと。女性が複数の男に囲まれ困っているのを放置するのは、純粋に気分が悪かったのです」
女子生徒が息を呑む声が聞こえた。
そして何を思ったのか、突然その手が私の傷口に触れた。
「つまりあなたは、何の損得勘定もなく私を助けてくださったのですね」
何をするのだという抗議は出る前に消えた。私は目の前の光景に限界まで目を見開いた。
聖を体現したかのように神々しく美しい光。彼女の指先から惜しみなく漏れ出て、私の傷を温める。その指は傷を優しくなぞって跡形もなく消し去った。ほんの数秒のことだった。
「感謝します、レベッカ様。私はエミリア。平民ですので、ただのエミリアです」
女子生徒は私に微笑んだ。主人公が悪役令嬢に微笑んでいた。
続きは順次上げていきます。
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