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残り2話です!

 殿下の体を呑み込んだ時の歪みが少しずつまとまって小さくなっていくのを茫然と見ていた。

 吸い込むような風は止んで、殿下の魔法で作られた木の根も、役目を終えたみたいにぼろぼろと崩れた。


 誰かが駆け寄ってきても、焦った声で何かを言われても、体を揺さぶられても、私はただ涙を流してそこに座っていた。



 でもひどく懐かしい声が聞こえた気がして、そのときだけは顔を上げた。 



「あー、おちおち昼寝もできやしねぇ」




 真っ赤な髪に真っ赤な瞳の男が当たり前のようにそこにいた。私の隣に立って黒い球体を眺めていた。

 その後ろにナマケモノを抱えるエミリアもいたが、気にする余裕はなかった。


 男が私の顔を覗き込む。しゃがみ込んで、袖でぐしぐし頬を擦ってくる。


「そんなに泣くなよレベッカ。せっかく可愛い顔に産んでもらえたんだからさ。な?」

「オウカ……?」


 夢でも見ている気持ちで呟いた。


 彼は「おー」と返事をしたあと、泣きぼくろを撫でるようにして私の涙を拭うと、急速に縮んでいく黒い穴に再び目をやった。


「ルウェインのやつさすがだな。治癒魔法使いでもないくせに、鎮めやがった」


 満足そうに頷いて立ち上がる。呆然と見上げる私の頭を一撫でして、消えかかっている穴に向かってすたすた歩き始める。


「あいつは何とかして連れ戻してやるから。俺はここ以外の全部の世界で時魔法を研究してたんだぞ。もうプロだ、プロ」


 彼は黒い穴に触れる直前、私を振り返って、ひらりと手を挙げた。


「じゃあ、いってくるな」

「オウカ、待……っ」


 止める間も無くオウカの体がぐにゃりと曲がる。小さな穴に水が入るみたいに吸い込まれていく。

 それを最後に、時の歪みが完全に閉じた。綺麗に塞がり跡形もなくなる。


 一時間経って、二時間経って、夜が明けても二人は戻ってこなかった。



 ――――この日、フアバードン王国の第一王子が世界から姿を消した。


 ***


 翌日以降学園や王都に変わりはなかった。大広間での出来事や殿下が消息を絶ったことには箝口令が敷かれたから、一部の上級貴族を除き、ほとんどの生徒は何が起きたかを知らない。

 ただ舞踏会が中止になり、それに伴って今年の称号の授与がなかったことを不思議に思うのみだ。


 大広間から離れようとしなかった私は、二日後倒れて王都の父の家へ運び込まれた。

 起きても学園に行くことは許されなかった。


 それからは日がな一日、窓の外を見つめて過ごすようになった。


 たまに人が訪ねてきた。兄さま、メリンダとフリード、キャラン、オリヴィエとブライアン、ガッド、オズワルドとジュディス。

 声をかけられた気もするし、肩を叩かれた気もする。みんな気づけばやってきて気づけばいなくなった。


 時間の感覚がひどく曖昧だ。何日くらいこうして過ごしているのか自分でもよくわからない。

 二週間のような気もするし、一ヶ月のような気もする。


 ただ、窓から眺める景色が徐々に変わっていったから、それなりに長い時間が経ったのだろう。

 寒さと霜の残っていた庭に草木が覗くようになって、蕾を見つけて点々と花が咲いて、庭に緑の方が多くなった。


 ――殿下がいなくなっても、季節は移ろうのか。


 当たり前のことをぼんやり考えていたときだった。部屋の扉が空いた。空気が動いた。

 誰かが入ってきたのだ。


「レベッカ様」


 久しぶりに名前を呼ばれたような気がした。それかさっきぶりかもしれなかった。


「レベッカ様」


 肩に手が置かれる。嫌とも心地よいとも思わない。ただ頭がぼーっとして、深く考えずに受け入れた。 


「レベッカ様――クリスティーナが死にそうです」


 ひゅ、と喉が鳴った。振り返ったら、親友が見たこともないくらい険しい顔で立っていた。


 ――――エミリア。


 声を出したつもりだった。はく、と口が動いて呼気が漏れ出ただけだった。

 立ち上がろうとしたのに足に力が入らない。椅子から崩れ落ちるように床に座り込んだ私をエミリアが支えようとする。


 それに構わず部屋の中に視線を彷徨わせた。私の白蛇はどこだ。

 最後に撫でたのは、名前を呼んだのは、見たのはいつだ?


「ご存知ですよね、幻獣は主人の鏡。レベッカ様、あなたは少しずつ衰弱死に向かっています。私がこれ以上クリスティーナを治癒しても意味がない。あなたが変わらないと」


 彼女は私を正面から見つめた。頭を殴られたみたいな衝撃だった。

 クリスティーナが弱っていることも、エミリアがそれを治癒してくれていたことも、気づいていなかった。

 でも頭が回らない。深い思考ができないまま、クリスティーナを探して辺りを見回す。


「レベッカ様、しっかりしてください。殿下は――」

「言わないで!」


 半ば叫ぶ。喉が痛んだ。声を出すのが久しぶりだった。

 とっくに枯れたはずの涙が、湧き上がる井戸水みたいにまだ出てくる。


「言わないで。殿下、きっと生きてるわ」


 幼児みたいに首を振る。


 誰が諦めても私だけは信じている。たとえそれが現実を認めていないことと等しかろうと、自分自身に言い聞かせるように信じ続ければ、私はまだ生きていける。

 むしろそうでなければ生きていけない。



 だけどエミリアは私の両手首を掴んで押さえた。


「いいえ、言います。レベッカ様、いい加減にしてください――」


 語気を強くした彼女は、私に耳を塞ぐことを許さず現実を突きつける――。



――のではなかった。


「そんなんじゃ、殿下が帰ってきたとき悲しみますよ」



 打って変わってゆったりと言われた内容を理解するのに少々時間がかかった。数秒かけてやっと脳に届いてそれを噛み砕いて理解する。

 ぽかんと見上げた。エミリアはいつもみたいに柔らかい表情に戻っていた。


 でもひどく辛そうだった。


「レベッカ様、今ひどい顔されてますよ。あの男が帰ってきたとき、いつものとびきり美しいレベッカ様で出迎えられるように、しっかりしなきゃ」


 クマを作って髪に艶を失って、自分も十分やつれている癖に私を『ひどい顔』と形容する、彼女の顔がぼやけて見える。


 エミリアは私を叱咤しにきたのでも励ましにきたのでもないと初めて気づいた。


 彼女は罪悪感と闘っていた。


 それはきっと、自分の代わりに殿下が時の歪みを直したことの罪悪感。

 責任感があり賢い彼女にとってそれが重い負担になることは予測できたはずなのに、自分のことばかりの私は今の今まで思い至らなかった。


 しかもエミリアはその上で、殿下の「帰ってくる」という言葉を信じることを選んだ。


 信じると言いながら塞ぎ込んでいた私と真反対だ。心から信じているからこそ、背筋を伸ばして生きようとしている。

 希望を胸に、殿下に救ってもらった生を無駄にせず全うしている。きちんと生きようとしている。私にもそうするよう求めている。


 ――そうだ。エミリアはいつもそうだ。折れたところを見たことがない、正真正銘強い人間。



 そんな彼女に比べて、今の私はなんだ。


「……たしかに、こんなんじゃ幻滅されちゃうわね」


 ぽつりと呟けばエミリアが微笑む。久しぶりに上を向いた気がした。


 彼女の手を借りて、私は足に力を込め、やっとのことで立ち上がった。


 そしてはたとあることに気づいた。


「……ごめんなさいエミリア、今日は何日?」

「三月十五日です」

「あれから二ヶ月も経ったの? じゃああと一週間しかないのね」


 大事な約束があった。


 今までなぜ忘れていたのか不思議になるほど大切な、殿下との約束だった。


「エミリア、兄さまを呼んできてくれる? 許されれば明日にでも王宮に行くわ。できたらエミリアにもついてきてほしい」

「構いませんが……何を?」

「まずは会場を押さえなきゃ。その次は招待状ね。この際ドレスは既成品でいいわ」


 急に生気を取り戻した私を見て、エミリアはキョトンとしていた。


 涙をぐいと拭って笑ってみせる。


「決まってるじゃない。結婚式の準備よ」



 ――――『式の準備を進めておいてくれ』。



 彼は最後に私にそう言ったではないか。なら私が今やるべきことは、一日中外を眺めていることなんかではない。


「殿下が約束を破ったことなんて一度もないんだから。ちゃんとやらないとむしろ私が怒られるわ」


 脳にかかっていた霧が晴れて、雲間から日差しが差し込んでいるような気分だ。頭の中で予定を組み立てる。


 規模は縮小せざるを得ないから、ぜひ来て欲しい人たちだけ集めよう。今すぐメリンダに声をかけて諸々手伝ってもらえるよう頼んでみよう。

 日取りは以前から決まっていたけど、父さまや国王陛下が別の予定を入れてしまっていないか確認しなければ。


 エミリアが顔を輝かせて動き出した。すぐに兄さまが走ってすっ飛んで来て、間もなくメリンダも馬車を飛ばしてやって来た。


 父さまが連絡を入れると、王宮の使用許可は異例の早さで降りた。むしろ元々使う予定だった巨大ホールの使用の予定がそのままになっていたくらいだった。


 すっかり元気になったクリスティーナに乗って高速で招待状を出して回れば、急すぎる誘いにも関わらず、セクティアラ様を始めセデン兄妹やガッド、キャランから速達で出席の返信が来た。

 マーク姉弟なんて手渡ししに来た上、会場の警備を買って出てくれた。

 学園長からはあちらのほうから出席したいという連絡が来た。


 フリードは特注のウエディングドレスとアクセサリーを持って現れた。元々準備していたものだった。注文を取り消さずにいてくれたのだ。


 一週間という短すぎる時間で準備は着実に、急速に進んでいった。


 たくさんの、私と殿下の大切な人たちが助けてくれた。私はその都度泣いてしまいそうになりながら殿下を想った。



 結婚式前夜になっても、殿下とオウカは帰ってこなかった。

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