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 エミリアは大広間の入り口で、壁にしがみつくようにして立っていた。

 ふんわりとした明るい黄色のドレスを身に纏い、背後からガッドに抱きしめられ支えられている。たった今二人でこの場に駆けつけたのだ。


 彼女の揺れる瞳と視線が交錯したとき、やっと気づいた。


 サジャッドは一か八かで時魔法を使ったのだと思っていた。だが彼は最後にエミリアの名前を呼んだ。

 彼は治癒魔法使いだけが時魔法に太刀打ちできることを知っていた。



 ――たとえ失敗して死のうとも、エミリアを道連れにできる方法を選んだのだ。



「レベッカ、ルウェイン殿下、もっと下がってください!」


 セクティアラ様が絹を裂くように叫ぶ。時の歪みへ視線を戻して、私は息を呑んだ。



 大きくなるのが早すぎる。 



 先程まで拳大だったそれは、今では民家一個分の大きさに膨らんでいた。

 この成長率で際限なく広がるのだろうか? だとすればもはや災害だ。私たちどころか学園も、王都すら危ない。


 考えている間にもブラックホールのような穴はみるみる広がっていく。


 エミリアを生贄にするのは論外だ。だけど他に方法がない。ここで誰かが止めなかったら、一体何人に被害が及ぶ? 

 何百人、何千人、下手したら何万人――。



 吐きそうな思考に頭が染まった、そのとき。



「早まるなッ!」


 喉が破けそうなほどの大声で吠えた人がいた。


 兄だった。



 私は目を見開いた。兄がその決死の形相を、私に向けているように思えたからだ。



 ――――でも違った。




「ルウェインッ!」




 がむしゃらに、必死に、兄はなぜか私のすぐ後ろの、殿下の名前を呼んだ。



 私を支える彼の腕に一際強い力が入ったとき、察しの悪い私はようやく思い出した。



 ――――第一部での殿下の『秋』。



 天性の素質がなければ無理だと言われていた治癒魔法を、研究によって可能にした、唯一の人間。



「レベッカ」


 私の顔から血の気が引いた瞬間、優しい声が耳元で囁いた。振り返れば彼の唇が私のに重なった。


「でんか――」

「少し留守にする。必ず戻るから待っていろ。式の準備を進めておいてくれ」


 頭が真っ白になった。事もなげに、まるで旅行の用事を伝えるみたいに囁いて、彼はもう一度私にキスをした。


 足だけに巻きついていた魔法の木の根が私の体全体に絡みつく。


 殿下はそのまま私から手を離した。


「殿下ッ!」


 必死に伸ばした手は空を切った。


 いつのまにか大広間の床に深く張り巡らされていた木の根が私を引っ張る。暴れる私を殿下から遠ざけていく。


「殿下、殿下ッ! お願い、待って!」


 暴れて砕いて転ぶように駆けても、追いかけてきたそれに再び地面に縫い付けられる。



「でんかぁ……っ!」



 名前を呼べば、いつだって振り返って優しい視線を向けてくれたのに。

 泣いていたら一番近くで涙を拭ってくれたのに。



 ぐちゃぐちゃの顔で泣き叫んだ私を殿下は振り返らなかった。



 その背中が迷いなく暗闇の中へ向かっていく。彼が姿を消すと同時、球体は表面をさざめかせた。次いでぐにぐにと苦しそうに形を変化させ始めた。



 私は地面にぺちゃりと座り込んだ。とめどなく溢れ落ちる涙を拭いてくれる人がもう居なかった。


 ***


 エミリアはヴァンダレイが吠えたそのとき、ルウェインが何をしようとしているかに気づいた。



 自分がぐずぐずしているせいで、ルウェインが身代わりになる。



 エミリアは駆け出そうとした。だが後ろから回った恋人の腕が彼女をきつく抱きすくめた。そして決して離そうとしなかった。

 結果、エミリアは一歩も動けないまま、黒い穴へ真っ直ぐに歩むルウェインを見送った。


 ――――なんていうのは、言い訳に過ぎない。


 エミリアは覚悟を決められなかった。恋人を無理やり引き剥がすことだってできたはずなのに、指が震えて力が入らなかった。

 自分の命を捨てる決断ができなかった。ただただ怖かった。理不尽に目の前に迫った死に怯えた。



 そのせいで今、エミリアの大事な親友が、最愛を失って泣き叫んでいる。



 ――――私、何やってんだ。


 エミリアは息を吸った。風が収まる中、自分の頬を全力で叩いた。


 二人の会話が聞こえなくてもエミリアには分かる。ルウェインは死ぬ覚悟ではなく生きて戻る覚悟で時の歪みに入っていった。

 ならばエミリアにできる最大の恩返しは、そして贖罪は、少しでもその確率を上げること。


 もしもルウェインが戻らなければ、エミリアの親友は一生笑えなくなってしまう。

 命を燃やすみたいに愛していたルウェインのことを想い続けて、その残り火を大事に守ることに人生を費やしてしまう。


 エミリアは考えた。今何ができるか。誰が自分たちを助けられるか。自分に何があるか。

 自身の幻獣の九尾は隣にいる。恋人とその幻獣もここにいる。


 そもそも、時魔法相手に食い下がることができる人間とは?

 学園長、そしてルウェイン・フアバードン以上の魔法使いとは?



 ――――ある男の名前が、僅かな希望がエミリアの元へ降ってきたのはそのときだった。



「ガッド、幻獣を貸して!」


 恋人の胸ぐらを掴む。


 エミリアは知っていた。恋人であるガッドの幻獣・ナマケモノの能力。

 月に一度、満月の日の間だけ、ある魔法を使うことができる。


「『転送魔法』は時の歪みには使えな――」

「そんなことに使うんじゃありません! いいから早く!」


 ガッドからナマケモノを奪い取る。定員は一人のみ。地面に紫色の魔法陣が広がり、エミリアは浮遊感に目を瞑った。


 そうして目を開けたとき、そこは見たこともない屋敷の目の前だったが、エミリアはナマケモノを置いて駆けずり出した。


 警備の騎士に見つからないよう裏門から入る。よく手入れされた裏庭を抜けて、外壁沿いに扉を探す。

 見つけたそれを力一杯持ち上げて開けて、続いていた階段を飛ぶように降りていった。



 目的の人物は地下室の真ん中にいた。



 駆け寄って手を触れるが早いか、エミリアは全身全霊の治癒魔法を発動した。


 魔力も気力も、ありったけを全てこれでもかと注ぎ込む。それでも到底器を満たしきれない。注げば注ぐほど、中途半端は許さないとでも言うように魔力を持っていかれる。

 エミリアの身体までも引き摺り込まれそうだった。



 魔力が足りない――――それでも。


「今すぐ、起きてください」


 足の震えを気合いで止める。飛びそうになる意識に縋り付いて、白み始めた視界をそのままに、触れた両手に渾身の力を込め直す。


「助けてください……お願い」


 たとえ魔力が全て喰いつくされたって、たとえそのせいで金輪際二度と魔法が使えなくなったっていい。


 たったひとつ、私の大好きな彼女の笑顔が、無事に戻ってくるのなら。



「起きてください――――






 オウカさん」



 夏季休暇のあと、レベッカが口にしていた名前。

 どんな人なのか詳しくは聞かなかったけど、「私を助けてくれたのだ」と、「すごい魔法使いなのだ」と言っていたから。



「レベッカ様を、助けて」



 深い深い眠りについていた真っ赤な瞳の男は、その名前を耳にした瞬間、薄く瞼を開いた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] オウカさん! 殿下の次に素敵です。
[一言] 疑問なんですが、ガッドの幻獣が月1しか転移を使えないならオズワルド・セデンは冬で別の移動方法を使ったんですか? 気になっただけなので別にいいんですけど。
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