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ただただ目を見開いているブライアンの口から、「は」と空気が抜けるみたいな音がした。
ブライアン・マークは剣聖だった。
三歳で剣を握った。七歳で戦いこそが自分の生きる道だと悟った。九歳で三つ年上の姉と並び立った。
――――数年後には『戦闘神』の名を欲しいままにする姉と、互角だった。
姉弟は毎日日が暮れるまで終わらない勝負を楽しんだ。
だがそんなある日聞いてしまう。ブライアンを次期騎士団長に推す一部の人間の声を。
オリヴィエはその頃から騎士団長になるのが夢だった。周りもブライアンもそれを望んでいた。
ただ一つ立ちはだかった問題が性別だ。女性の騎士団長は前例がない。男であるブライアンを望む声は、少数であっても根強かった。
十歳になる誕生日の前夜、ブライアンは大事な剣を抱えて、一人でゴミ捨て場に向かった。
彼にとって剣は命に等しかった。
でも、それを捨てることができたのだから、オリヴィエは彼にとって命よりも大事な姉だったんだろう。
あの『夏』の日、ほんの一瞬寂しそうに笑ったオリヴィエを思い出す。
『あいつは普段悪ぶってるけど、ほんとは優しくていいやつなんだ。これからも頼むね』
オリヴィエが何かを悔やむような顔をしているのを見たのはあれが初めてだった。
オリヴィエも二人の父である騎士団長も騎士団員たちも、本当はちゃんとわかっている。それでも知らないフリをしているのは、ブライアンの意思を尊重しているからだ。
それが騎士としての彼の誇りを守ることだからだ。
美しいと思った。初めて知ったとき、涙が出そうになった。
「秘密一つ一緒に守れなくて、何が将軍でしょうか」
それに私は、彼の優しい秘密が好きだった。
ブライアンが再び口を開こうとしたそのとき、派手な音がした。ブライアンと同時に扉に目を向ける。
外で何かが起こっている。
冷静に頭を回した。私がオズワルドかキャランなら、次に何をするのが最善か。
「……落とし穴に落ちたスルタルク兵に攻撃魔法で止めを刺している?」
思い当たってまた唇を噛んだ。血が滲む。
「でもエミリアはまだ落ちていない。私の攻撃能力が失われていないから……でも無事でもない。周りに落とし穴に入った仲間がいる以上、九尾は爆破を使えない」
この状況に追い込まれたエミリアが何をしようとするか、手にとるようにわかる。
忠臣の自分が落ちれば私の足を引っ張る、そう考えた彼女は九尾を盾に攻撃を凌ぐはずだ。魔力の続く限り九尾を治癒魔法で癒しながら。
九尾を大切にしているエミリアにとって、それがどれほど辛いことか。
「……王子サマがオズワルド・セデンの旗を取るのはいつです」
ブライアンが低い声で尋ねた。
懐中時計を確認する。私が人質扱いになってから、十分少々が経過している。
殿下の軍がオズワルドの陣に集結するのにかかる時間、殿下が全火力で陣を叩く時間、オズワルドの陣が山を背負っていることも考慮に入れる。
「早ければ――あと十分」
「ちょうどいいんじゃないスか? 行きましょう」
ブライアンが気怠げに立ち上がった。再び剣を抜き、かつかつと音を立てて扉へ進んでいく。
私は焦って立ち上がった。
「無茶です! いくらオリヴィエ・マークに並ぶ実力があっても」
外には少なくとも三百人は敵がいるのだ。扉を開けた瞬間囲まれて集中砲火を浴びて終わりだ。
「それに秘密が――」
「いいです、別に。今ここで戦わなかったら、俺は騎士どころか男ですらなくなる」
ブライアンは私の制止を聞いてくれない。止めたいのに、無能な私にはその方法がない。
彼は勢いよく、わざわざ目立つように扉を開け放った。三百の視線が彼を捉える。たった一人で将軍を背中に守る無謀な青年を認識する。
無数の矢が、剣が、幻獣が、ブライアンめがけて一斉に飛ぶ中、私は往生際悪く手を伸ばした。
でも聞こえたのは楽しそうな声だった。
「何より、姉貴にぶっ叩かれる」
瞬間、突風が巻き起こった。反射的に腕で顔を庇う。なんとか瞼をこじ開けたとき、私は目を疑った。
叩き切った目の前の敵兵を踏み台にした青年が、大きく跳躍して、隕石みたいに敵陣の真ん中へ降っていった。
彼が踏み込む度にバタバタと敵が倒れる。災害みたいな威力の剣が人を薙ぎ倒している。
たとえるなら台風の目だ。無事なのは中心の彼だけで、その周りは更地になっていく。
その辺りに立っているのが彼だけになった時、私はへなへなとその場に座り込んだ。
「――――姉貴に『並ぶ実力があっても』『無茶』だって言いました?」
足の踏み場もなく転がる敵を遠慮なく踏みながらブライアンが戻ってきた。彼はその場に恭しく膝をつき、私に手を差し出し、楽しそうに笑った。
「安心してください。俺の方がつえーから」
に、と笑顔になった彼は幼い少年みたいだった。戦うのが純粋に楽しかっただけの頃の、ある日の少年。
そういえば笑ったのを見たのは初めてだ。
「つーわけで、レベッカさん。ここから先は俺があんたを守ってやるよ」
そう言って彼は私の手の甲に口づけを落とした。
――――騎士だ。
化け物みたいな戦い振りを見せられた後でも、浮かんだのはその言葉だった。




