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青年は飛び込んできた私を危なげなく抱きとめると、私を抱えたまま素早く走り始めた。
「待って…ラリー様と、せんせ、が」
うまく声が出ない。顔を伝う雨が口に入った。思えば両手足にもちゃんと力が入らない。
「大丈夫だ。あれが何なのかは知らないが、お前に魔法をかけるためかなり消耗していた。間も無くあの形を留められなくなって消えるだろう。それよりお前をあれから引き離すことのほうが重要だ」
魔法をかけられていたのか。頭に触れられた時からだろうか。道理で。
右手をぐ、ぱーと動かしてみる。上手くできない。体も先程からぞくぞくしたままで震えが止まらない。
明らかに体が異常を訴えているのに、私はその実ひどく安心していた。抑揚のない低い声がちゃんと全部を説明してくれるからか。それかこの人の体が温かいからかな。
「あったかい…」
青年は私にちらりと目をやった。
「…体温が下がっているな」
少しして彼は止まった。そこは大きな木のうろだった。私を抱えた彼が入るのにぴったりの大きさだ。
彼が私を抱えたまま中に入る。やっと雨から逃れられて嬉しかった。
「ここは学園でも有名だ。『薬草の森の巨大樹のうろ』」
ごおと音がして体が温風に包まれた。みるみる体と服が乾いていく。炎魔法と風魔法の合わせなのだろう、器用なことだ。
それでも寒気は消えない。
「…『魔力当て』を強制的に起こさせられているように見える。俺の魔力で中和する。悪いがもう少しこの体勢で我慢してくれ」
そういうと彼は私を抱え直した。膝の間に私を座らせ、手はゆるく背中をさすってくれる。
すると彼に触れている場所から優しく何がが染み込んできた。それは私の体を包み、じわじわ温めて、冷たい何かを取り払っていく。
しかも彼は何だか落ち着くことができる良い匂いがして、そうなるともう体から力が抜けてしまう。
我慢なんてとんでもない。あったかいしきもちいいしさいこう。
彼は私の様子を見て「魔力の相性が良かったか」と呟いた。私は余裕が出てきて、試しに顔を上げてその顔を正面から覗き込んだ。随分と至近距離だが、相手も目を逸らさない。
先程、うす暗い上に濡れていてよくわからなかった髪は今、輝かんばかりの金だとわかる。恐ろしく整った顔立ち。あまり感情がのらないせいで、ともすれば『無愛想』とも言われるだろう。それでもやはり目にとまるのは群青の瞳。きっと深海よりも深い青だ。そこには確かに私への心配が見て取れる。そのせいなのか、表情の乏しい彼のことを『冷たい』などとは間違っても思わない。仏頂面だとは思うけど。
この美貌に、鷲とくればまず間違いない。
「ルウェイン、殿下?」
「その通りだ、婚約者。初めまして」
私を見つめる目元が、少しだけ柔らかくなるのを見た。
「殿下は…よく、私がわかりましたね」
「お前のことは前からよく見てい…あ。何でもない」
「どういうことですか」
どういうことだ。『初めまして』ではなかったのか。
殿下は口が滑ったみたいな顔をした。実際口が滑ったのだろう。
「そういう魔法がある…それはいい。それより、今まで会いに行かなくて悪かった」
いやよくないと言いかけてやめた。殿下の目が真剣だったからだ。
「王太子の仕事を二週間分先に終わらせられれば会いに行かせてやると父に言われていた。だが式典やらパーティやら、そもそも二週間予定が空くことがなかった」
驚いて息を呑んだ。
殿下には私と婚約を続けようという意志がある?これはシナリオと違う。この人は、シナリオと違う。
「『春』開始から魔法と幻獣を使ってずっとお前を探していた。かなり遠かったが見つけられてよかった」
殿下はそう言って、冷たく見える美貌にまたもや何か柔らかい感情を乗せた。私の心臓がよくわからない音を立てる。
「ありがとう、ございます。助けてくださって。見つけてくださって」
そう伝えたら、殿下が少し嬉しそうな顔をしたように思えるのは、私の気のせいなのか。
それより、と思考を振り払う。今は『春』だ。
「殿下、私はヒントの人間です。あと先ほど偽者を見破ってこれを頂きました」
スカートのポケットから小箱を取り出す。この中に閉じ込めてある魔法が何なのかは、攻略本で知っていた。
「ああ、『転送』か。その様子だとヒントの内容も知っているな」
こくりと頷いた。
殿下もご存知なんですねと口にすると、お前を探す途中で襲ってきた人間を20人程のした、その中にヒントがいた、と返ってきた。三強ともなると、ライバル潰しが激しいらしい。
「そろそろ回復したか。それを使ってもう行け。俺は自分で行く」
殿下は私と今から別行動を取るつもりらしい。「助けてくれたのだから一緒に」と言いかけたところで、ふと疑問を感じた。
「殿下はなぜ私を探されていたのですか?」
そのとき――殿下の手が私の髪に触れた。触り心地を確かめるように撫でられ、毛先を指に巻きつけて弄ばれる。
「――――会いたかった。少しでも早く」
殿下は何だか満足そうに笑って一人で外へ出た。残された私は、ぴしりと硬直したまま、ぎぎぎ、と首だけで殿下の方を振り向いた。
雨は止み始め木々の合間から久しく見なかった日の光が漏れている。
私を背にかばうように立った殿下が全身に魔力を行き渡らせたとき、複数の人間に取り囲まれていることにやっと気がついた。私がヒントの人間であるせいか、殿下が三強であるせいか。
「行け。まだ開始から1時間も経っていない。今ならかなりの高順位が狙える」
否とは言えなかった。私は彼の足手まといにしかならないからだ。もし一緒に行こうと行っても、彼は頷いてくれないに違いない。
「また、会えますか」
すみませんでもありがとうございますでもなく、そんな言葉が口をついて出た。
でも間違いではなかったのだろう。振り返った殿下は今までで一番優しい顔をしていたから。
「当たり前だ、レベッカ」
彼の言葉にしっかり頷いてから箱を開いた。
偽者を見破ったことで教師から得られる魔法、それは『転送』。半径2キロ以内の任意の場所に飛ぶことができる強力な魔法だ。難易度の高さゆえに生徒たちは使えないので、大きなアドバンテージになる。
半径2キロ以内に男子寮があることを祈りつつ、『男子寮の東の外装の飾りに最も近い場所』と念じた。
目まぐるしく世界が変わる感覚がしても今度は最後まで目を瞑らなかった。私を庇って立つ殿下の背中を、少しでも長く目に焼き付けていたいと思ったのだ。