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恋人の部屋を訪ねる頻度というのはどれくらいが一般的なんだろう。
世の恋人たちの平均は分からないが、私が殿下の部屋にいるのは、今日で今週三回目だ。
私は殿下の机で今日授業で教わった範囲の復習をしている。
冬のテストはまだ先だが、今回は必ずやガッドを下して、「恋人ができて浮かれてるのでは?」的なことを言いたい衝動を持て余しているからだ。
殿下はそんな私の隣に座って、私の髪の毛を弄っている。
「なあ、レベッカ」
「はい」
「結婚しようか」
「はい――――え?」
殿下が「明日デートに行こうか」くらいのノリでいうものだから、普通に返事をしてしまった。
ノートを見返す手を止め、机に肘をついて私を見つめる殿下に向き直る。
「いつです?」
「春季休暇中はどうだ?」
頭の中でカレンダーをめくる。今が十一月だから、
「五ヶ月あるかないかくらいですね」
「間に合うだろう?」
「ええ」
春なら殿下は十九になる歳、私は十八になる年だ。早いは早いが片方が学園を卒業しているならまだセーフかもしれない。
再び殿下を見つめる。
『私には殿下しかいない』というのは前から重々わかっていたことだ。
だがそこに、『殿下にも私しかいないらしい』が加わったのは、ごく最近のことだった。
「しましょうか、結婚」
たとえば、殿下を狙う傾国の美女が現れたとしても私は引かない。なんなら殿下が惹かれても惚れ直させて取り返そうという気概すらある。
殿下が私の頬に手を添えた。親指が感触を確かめるように肌を撫でる。
彼があんまり幸せそうな顔で私を見るから、今更恥ずかしくなってきた。驚かないところを見ると断られないのは分かっていたらしい。
じわじわ赤く染まる頬をごまかすように口を開く。
「公爵家には私から連絡しますね」
「頼む。日取りはそちらの予定に合わせよう」
これから結婚する男女らしいやり取りにさらに羞恥心が高まったのは秘密だ。
その日の夜のことだ。窓の外に美しい鷲が現れた。言わずもがな、グルーである。こんな時間に珍しいと思いつつメッセージカードを受け取った。
『母上が結婚指輪の参考に王都で指輪を見てこいと仰せだ。次の休日を俺にくれないか』
「デートだ!」
思わず声を上げる。ちゃんとデートしようと決めて行くのは夏季休暇ぶりだろうか。
私は親友二人の部屋を訪れた。初デートのときからずっと今でも、デートの服装には彼女たちのアドバイスが必要だ。
だが。
「ずるいです、私は最近レベッカ様とお出かけしてないのに……」
メリンダとともに私の部屋に来たエミリアが、突然はらはらと涙を流し始めたではないか。
「え、な、泣かないでちょうだいエミリア。三人でもお出かけしましょう」
「今週のお休みの日ですか……?」
「いえ、その日は殿下となの、だからその次の――」
「うぅ……」
「一緒に! 一緒に行きましょう! 今週末に、四人で! メリンダもそれでいいわよね!」
私はこのとき、たいそう慌てていた。エミリアは一体何をそんなに思い悩んでしまったのか。私は何かしてしまったのだろうか。
メリンダが呆れたように口を開く。
「私はそれで構わないけど。友人の騙されやすさと、もう一人の友人の演技力にはちょっと引いてるわ」
「え」
エミリアが銀髪を揺らしばっと顔を上げた。目からボロボロ涙が出ているのに笑っている。それはもうニコニコしている。
「これ最近できるようになったんですぅ! すごくないですか! 秘技、お天気雨っ!」
屈託無く笑うエミリアを呆然と見つめた。
次いで「今週末でいいんですよね」と確認されたとき、私は手近にあった枕で渾身の攻撃をお見舞いし、応戦したエミリアと面白がったメリンダによってただの枕投げ大会に早変わり、その後軽く一時間は続いた。
日曜日の朝、早くに目が覚めた。先日の突発的枕投げ大会のあと選んでもらった服に袖を通す。
首が詰まった柔らかい白色のニットと、ふわっと広がるミントグリーンの膝丈スカート。ニットの裾はスカートの中に入れて、髪はハーフアップにする。
ビジューのイヤリングをつけ、羽織も持って、軽くお化粧をすれば完成だ。
鏡の中の自分を見て、やっぱりエミリア(とメリンダ)に任せて正解だったと確信する。
エミリアは「何でも似合うんですけどね!」と謎の念を押しつつ、なんだかんだ真剣に服を選んでくれるが、メリンダは「去年の舞踏会のときの殿下は面白かったわね。今回も攻めましょう」と意図的に暴走を始めるので、『エミリア(とメリンダ)』である。
待ち合わせは学園の門だ。休日の朝早く、生徒どころか職員もいない静かな道をてくてくと歩いて行った。
殿下は四人で行くことを意外とあっさりと了承してくれた。メッセージカードには『レベッカと結婚できるなら大体のことはなんでもいい』と書いてあった。
不意に足を止める。あと一歩踏み出してこの角を曲がれば、門が見える。今は待ち合わせの三十分前だ。でも殿下はもういる気がした。
顔は変じゃないだろうか。髪は。服装は。会ったらまずなんと声をかけようか。
――なんか、緊張してる。
結婚すると決めたからだろうか。改めて顔を合わせるのが恥ずかしい。でも嫌な緊張ではない。早く会いたいのと半々だ。
最後にもう一度だけ髪を軽く整えようと思ったとき、近くで「ジャリ」と音がした。はっと顔を上げる。
すぐ前の角から顔を出した殿下が、とびきり優しく微笑んで私を見ていた。
「なあレベッカ、そのままでもう十分可愛い」
ぶわっと顔が赤くなる。薄手の黒いコートにタートルネック、細身のパンツに身を包んだ殿下が、私に向かって腕を広げる。
ちょっとしたいたずらを思いついて、彼の腕の中に飛び込む振りをして寸前で顔を上げた。その上着の裾を掴んで軽く引き寄せ、出来る限りの伸びをする。
顔を離して目を開けたら、手の甲で口元を押さえた殿下がいた。
「殿下、今日も好きです」
「俺も好きだ……」
力いっぱいぎゅうぎゅう抱きしめられた。髪にキスが降ってくる。
「レベッカは釣った魚に餌を与えるタイプだな……」
「もちろんです。フルコースでもてなします」
離れようとしたらより強い力で抱きしめられた。その拍子に近くにある殿下の耳が赤いのがわかって、わっと声を上げる。
「殿下、殿下! もしかして照れてますか!? 顔が見たいです!」
「自分だって顔が赤いくせに……」
「それはそれです!」
私たちの攻防はその後も続いて、近くを法学科のストーンズ先生が通るまで続いた。
エミリアとメリンダが来てから王都に向かう。久しぶりのそこは以前と変わらず賑わっていて、たくさんの人の笑顔で溢れているように思う。
ちなみに殿下は町を歩くとき、護衛も付けないし変装の類も一切しない。
護衛がいらないのはわかる。彼はほぼ最強だ。
だが変装をしないことに関しては、初めてのデートで「意外と大丈夫だ」と言われてもかなり訝しんだ。
だが意外にも本当に大丈夫なのだ、これが。
道行く人はみな一度殿下を見てギョッとするのだが、「いやこんなところにこんな普通に王子がいるわけないな」と思い直す。それか美形すぎて目の錯覚か何かだと思う。
斜め四十五度の「大丈夫」だが、慣れてしまえばこっちのものだ。
「ごめんなさい、あれ買ってきてもいい?」
途中でそう口にしたのはメリンダだった。フリードに似合いそうな何かを見つけたのだろう。
メリンダはよく「あれはフリード様に似合う」と言ってはちょっとしたものを買っているが、それはあのローブに似合うということなのだろうか。それとも素顔に似合うということなのだろうか。地味に気になっている。
一人で行こうとする彼女を止め、エミリアについていくように頼む。
殿下と二人でベンチに座った。
「レベッカ」
「はい、殿下」
「尾けられているな」
「はい」
人が多すぎて正直自信はなかったが、殿下が言うなら間違いない。
殿下がふうと息を吐いた。何事もないような自然な様子で立ち上がる。
「レベッカ、今日は王都に『あの男』が来ているらしい。すぐにでも気づいてこっちに来るだろう。俺は不審者と話をつけてくるから、それまでそいつと待っていてくれるか」
「? はい」
「あの男」とは誰だろう。よくわからないが頷くと、殿下は私の頭を一撫でしてから歩いて行った。
王都のベンチで一人座って待つ。
こういうとき、もしも私が乙女ゲームの主人公なら、すぐにでも複数の男に声を掛けられるのだろう。
どこからか湧いたタチの悪い男たちに、妙にしつこく誘われたりするのだ。
たとえばこんな風に。
「驚いた、君、とても美人だな!」
背後からかけられた声。しかしその口説き文句は、私が想像していたものと幾分違った。
何よりその声は、私のよく知る人のものだった。
「それも、俺の妹によく似た美人だ!」
勢いよく振り返る。満面の笑みの彼に思い切り抱きついた。
「兄さま!」
私の兄、ヴァンダレイ・スルタルクはそんな私を力強く受け止め、子どもにするみたいにふわりと一周回してくれる。
「やあレベッカ、久しぶりだな! こんなところで会えてとても嬉しい!」
「私もです!」
最後に会ったのは夏季休暇だ。何も変わりなくて安心した。殿下か親友たちが戻ってくるまで、今度は兄さまと並んで座る。
「なるほど、殿下は曲者を見つけに行ったのか! レベッカを一人にしてどこかに行くものだから正直焦ったぞ!」
「兄さまが殿下に信頼されている証拠ですね」
笑顔で言った。他愛もない話で心が和む。
「ところでレベッカ、結婚するのか?」
「っ、けほ」
「大丈夫か!」
和んでいた最中なのに自分の唾でむせてしまった。まだ公爵家には手紙を書いている途中なのだが。
背中をさすってくれた兄さまは、何故かそのまま私を抱え上げた。
「レベッカ、結婚前に逃避行といこう! どこに行きたい? 何でも叶えるぞ! このヴァンダレイ・スルタルク、三年連続三強は伊達じゃない!」
「兄さま!? 私別に逃げたいとは――」
「レベッカよ、それ自体はまあ口実というやつなのだ! 俺は基本いつでも殿下に苦難を与えたい! 妹を奪われる恨み、『はらさでおくべきか』!」
「母さまの口癖――!」
慌てて身をよじるが、兄さまの手は優しいのに全く抜け出せない。抵抗虚しく炎のたてがみを持つ馬が颯爽と現れた。兄さまの幻獣である。
私を乗せて走り去る幻獣、その主人は三強。ここに近年類を見ない最強の誘拐犯が誕生した。私はその間、舌を噛まないよう心の中だけで殿下とエミリアとメリンダに謝っていた。




