26
『秋』の次の日のことだ。私はメリンダと二人で校舎の廊下を歩いていた。フリード様がこうだったああだったと話す彼女を遮って声をかける。
「ねぇメリンダ、私が落ちた階段行ってもいい?」
「えっいいけど……また落ちないでよ」
メリンダは階段までの道のりでまたフリードの話を始めた。もう結婚式の日程を決めたらしい。
階段に着いて、その全体を見下ろした。
今は授業の空き時間で生徒によっては授業がある場合も多いから、例の階段はあの日と同じようにひと気がなかった。
直線状にまず八段、踊り場を挟んでまた八段。これを全て転げ落ちたのかと思うとぞっとする。
「レベッカ、手すりに掴まってよね」
メリンダが階段を降り始めた。追いかけて後に続いた私だが、踊り場で立ち止まった。
濃紫の絹糸のような髪が美しい親友の後ろ姿を、見送るような気持ちで見つめる。
「メリンダ、フリード・ネヘルのこと、好き?」
「ええ、大好き」
彼女は階段を降りていきながら答えた。
「かっこいいと思う?」
「ええ、とても」
振り返りもせず、止まりもしない。
「世界で一番?」
「ええ、もちろん」
「――――そう、それよ」
やっとこちらを向いたメリンダに、噛んで含めるように告げる。
「メリンダ・キューイはね、男性の好みが変なの」
「えっなに? 急に喧嘩売ってる?」
メリンダは「受けて立つぞ」と言わんばかりに袖を捲るような動作をしたが、私が笑わないのを見て変に思ったらしい。
蜜を塗り固めたみたいな瞳が瞬きをしながらこちらを見ている。
夜空を思わせる色合いの彼女が、私は昔から大好きだ。
初めて会ったのは王都の劇場だった。メリンダがそのとき、美形で有名な俳優のことを「六十二点」と切り捨てて、大笑いしたのを覚えている。
――――なのにメリンダは、あの日私が階段から落ちる少し前、サジャッド・マハジャンジガは「見た目が良い」と口にした。
「最初は漠然とした違和感だった」
私が階段から『落ちた』とき、「誰もいなかったわよね」と、『突き落とされた』ことが前提の第一声を発したり。
彼女の幻獣は耳がいいのが特徴で、小さな音も沢山の音も聞き分けられるはずなのに、『夏』で人だかりに阻まれた私の声を拾ってくれなかったり。
『夏』でサジャッドが、まるで私に見られていることを誰かに知らせてもらったかのような振る舞いをしたり。
目の前のメリンダは訳がわからないという顔だった。そこに嘘はない。
私は私で、一人で答え合わせをするように話し続ける。
「ずっと考えてたの。なんでフリード・ネヘルは、私が階段から突き落とされたとき、助けるどころか安否の確認にも来なかったのか」
フリードは真面目な男だ。殿下に心の底からの忠誠を捧げているのを知っている。
――だから考えなかった。
フリードの、「誰もレベッカ嬢の背中を押したりしていない」というあの証言が、嘘である可能性。
「私は最近知ったんだけれど、メリンダ、あなたの恋人はとても愛情深い人なのね」
ついこの前、男子寮の食堂で見たフリードの姿を思い出す。メリンダへの愛は揺るぎなかった。
でも同時に、確かに何かに迷っていた。
彼は優秀だ。殿下の婚約者に危険があれば何をおいても助けに来るはずだ。
一歩も動けなくなるような衝撃的な出来事が、彼の身に起きさえしなければ。
――――たとえば。
愛してやまない自分の恋人が、その親友を階段から突き落とすのを目撃する、とか。
「と、いうわけで――私の親友の頭の中から出ていってもらうわよ、サジャッド・マハジャンジガッ!」
私が叫ぶと同時、階段の下側の角から銀髪の少女が姿を現した。両手にみなぎらせているのは輝くばかりの救いの光――エミリアの十八番、治癒魔法だ。
メリンダが振り返った。近づいてくるエミリアに気づいた。その瞳に浮かんだのは『恐怖』だった。
『アレから逃げなければ消される』という生存本能だった。
メリンダが脱兎の如く逃げ出す。私に向かって走ってくる。私はそれを止めようと思った。
しかしそれより先に、私とメリンダの間に影が割り込んできた。
上の階から飛び降りてきたその男は、黒いローブをひるがえして、今度こそ私を庇って立った。
すかさずエミリアがメリンダの手を両手で握る。強い光が染み込むようにメリンダの体全体に広がっていく。
彼女に巻きついていた魔力の鎖が今、治癒魔法によって可視化した。
それが全て光に溶けて塵となり消えた瞬間、メリンダ・キューイが目にしたのは、今にも泣き出しそうに自分を覗き込む恋人だった。
「……あれ? やだフリード様、どうしたの?」
メリンダがフリードの頬に手を伸ばし、たった今流れ落ちた雫を指で掬い取る。
フリードはメリンダを抱きすくめた。彼女の背骨が折れるのではと心配になるほどの力だった。そしてくぐもった嗚咽を漏らした。
私はその広く黒い背中に声をかけた。
「男子寮の食堂で会ったとき、あなたが何を考えているのかも知らず、色々言ってごめんなさい」
フリードが振り返り、澄んだ水色が私に向けられる。瞳が少しずつ溶け出して雫になっているみたいな泣き方だった。
サジャッドの能力のことをフリードは知らない。だからこの数ヶ月間、彼はメリンダが主人の婚約者を害する罪人である疑惑を持ち続けた。
彼女と恋人である自分もただでは済まないと思っていただろう。
しかし二人は恋人のままだった。メリンダが『肝試し』を怖がれば抱きしめ、『夏』は二人で回って、休日はデートに行った。
それだけではない。フリードはあの日、メリンダと正式な関係を結ぶことを、婚約どころか結婚することを決めた。
「メリンダと一緒になる覚悟がない」というフリードの言葉を思い出す。
あの日フリードが決めた覚悟とは、メリンダのために全てを捨て、地獄まで添い遂げる覚悟だったのだ。
フリードはメリンダを離すと、私の前に跪いてこうべを垂れた。
「俺は、殿下を、裏切った。恋人と主人を、天秤にかけ、恋人を取った。許されることではない」
ぽたぽたと床に彼の涙が落ちていく。
メリンダが訳もわからないままその側に寄ろうとするのを、エミリアが止めた。
第一王子の婚約者は次期王妃。それを攻撃するのは国家への反逆で、その犯人を庇い立てするのもまた然り。たしかにこれは大きな問題なのだ。
私は判断を仰ぐため、振り返って上の階を見上げた。第一王子ルウェイン・フアバードンは、そこで全てを見ていた。
「フリード・ネヘル。『恋人と主人を天秤にかけて恋人を取った』と、そう言ったな」
「はっ」
フリードは跪いていたところからさらに頭を下げた。額が床につきそうだ。釈明も何もせず、ただ主人の言うままの罰を受け入れようとしている。
そんな腹心を見下ろして、第一王子は――私の恋人は、口を開いた。
「俺は、自分にできないことを人に求めない」
一拍置いてフリードが顔を上げる。「信じられない」とその顔に書いてあった。ローブのフードで顔を隠すのが常の彼は、感情を抑えるのに慣れていないらしい。
殿下は階段を降りてきて私の手を取った。
「特例だ。次はない」
「はっ……」
フリードが再び頭を下げる。私は安堵しながらメリンダに向き直った。
「メリンダ、信じられないかもしれないけど、あなたはサジャッド・マハジャンジガに洗脳されてたの」
「えっまじ? 嫌だ、あんな男に?」
メリンダは飄々と現実を受け入れた。話が早くて助かる。
「それで、五月ごろ彼に話しかけられたって言ってたじゃない? 何を話したか覚えてない?」
「うーん、何かしてあげようか的なこと言われたけど、レベッカに断れって教わってたから――」
首を捻るメリンダ。だが聡明な彼女は、自分が言ったことをちゃんと覚えていた。
「『夢』なら間に合ってるので結構です、って言って逃げたわね」
エミリアが吹き出した。セールスを断るノリで拒否されるサジャッドを想像したのだろう。
殿下と顔を見合わせる。殿下が二ヶ月ほど前、サジャッドに話しかけられたときに言ったのは、「俺に『夢』を見せようとするのはやめろ」だった。
これではっきりした。
サジャッドは相手に『夢』と言わせることをトリガーにしている。
「みんな、サジャッドの前で『夢』と口にしてはだめ」
私の言葉にエミリアとメリンダとフリードが神妙に頷く。
エミリアとフリードには、攻略本のことなどは伝えず、サジャッドのことだけを伝えてここに連れてきた。
「エミリア、申し訳ないのだけれど、しばらく生徒に無差別治癒魔法をかけてくれない? あとメイセン様にもサジャッド・マハジャンジガのことを伝えてほしいの」
「レベッカ様のためなら!」
エミリアが頷く。彼女の治癒魔法が効いたのは僥倖だった。
洗脳はつまり『状態異常』。『夏』で私の大ファンにされた人たちは、エミリアが実験的にすれ違いざまに行った治癒で元に戻すことができた。
だが、それは既に洗脳されている状態の話。この六週間の殿下のように今まさに頭に入り込まれている時点では『攻撃』だから、治癒魔法で取り除くのは難しいだろう。
殿下がメリンダを見ながら私に耳打ちした。
「レベッカ、被害者を探し直そう」
「そうですね……」
サジャッドの洗脳を受けて良からぬことをした最初の人間はよりにもよって私の親友で、内容は第一王子の婚約者への攻撃。
もし引き合いに出して、サジャッドのせいだと証明できなければメリンダがまずい立場になる。この件では泣き寝入りするしかないだろう。
「でもトリガーと対処法はわかりました。次彼がアクションを起こしたら、今度こそ追い詰めましょう」
「ああ」
尻尾を掴んでも本体はしゅるりと逃げていくトカゲのような男。いつか必ず捕まえてやろうと決めて拳を握った。




