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気づけばそこに立っていた。辺り一面真っ白の世界。
先程と違うのは、私に色が付いている点だけだ。さっきは世界と同じく真っ白だった。
隣を見る。とてつもない大きさのクリスティーナの、プラネタリウムのドームみたいな瞳がすぐ近くにあった。クリスティーナは前回も今回も真っ白だ。
『私、入れたの?』
『うん、できた』
ほっと息をつく。だが本当に重要なのはここからだ。
私は周囲に視線をやって、あっと驚いた。
『これが殿下が今見ている夢なの……?』
そこはまるで、世界一の博物館のような空間だった。
純白の壁みたいなガラス張りのショーケースが整然と並んでいる。中は等間隔に仕切られ、目につく限り様々なものが収められていた。
そんなショーケース一つ一つがどこまでも高くそびえ立っていて、真上を見上げても終わりがない。
数についても同様で、空間はどこまでも向こうに延び続け、それに伴ってショーケースも並び続ける。
『すごい……』
感嘆の吐息を漏らした。しかしクリスティーナは大きな首を左右に揺らした。
『ゆめじゃない。るうぇいんの、いしきのなか』
『え?』
『こっち、れべっか、はやく』
クリスティーナの鼻に背中を押されて、小走りに進む。ショーケースとショーケースの間を直線に進んでは直角に曲がり、別のケースとケースの間を進む。
段々おかしな音がしているのに気がついた。進むにつれて近づいていくそれは、たとえるなら金属をハンマーで力任せに叩くみたいな、耳障りで不快なものだった。
発生源は私と同じ、真っ白な世界でひどく目立つ、色のついた『異物』。
ショーケースを棒状の金属で殴りつける後ろ姿に、にっこり微笑んで声をかけた。
『ごきげんよう。昼間ぶりでしょうか。今日はよくお会いしますね』
サジャッド・マハジャンジガが、武器を取り落として振り返った。
『……な、んで? は? 何が起きてる』
『ここで何をしているのか――いえ、今まで一体何をしたのか、教えていただいても?』
サジャッドが金属で突いていたショーケースに目を移す。突き破られてこそいないが細かい傷やへこみがたくさん入っている。
その部分だけでない。この一帯は一面彼が殴って回ったのだろう形跡が見て取れた。
近づく私を怖がってサジャッドが後ずさる。
『なんだ、お前。どこから来た』
『失礼ですね、お忘れですか? レベッカ・スルタルクですよ』
『いいや、本物なわけない。……精神の防御反応か?』
サジャッドは私の存在を理解しかねているらしい。私本人だとは考えてもいない。きっとこんなことは今まで一度もなかったのだろう。
そもそも自分の能力が私にバレているとも知らないはずだ。
彼の予想に乗ってみたらどうなるのだろう。私はまるでサジャッドの言葉を肯定するかのように、ただ微笑んで沈黙した。
サジャッドが私の背後に控えるクリスティーナに目をやる。
『撤退か、クソ、最悪だ』
『その前に、ここで何をしたのか答えてください』
『見ればわかるだろ。何もできなかったよ。六週間も粘ったってのに……特にお前に関連する記憶や概念は傷一つつかないときた』
サジャッドはもはや私のことは見ておらず、独り言のように言い放った。
『心配ない。時間はある。次はもっとうまくやろう』
そして止める間もなく、転がっていた金属の棒で自分の胸を刺した。
その体がボロボロ崩れ始め、固まりがさらに細かい砂に変わって、ついには目に見えないほどの大きさになって消え去った。
私はただ見ていることしかできなかった。
サジャッドの最後の欠片が消失すると同時、私の足元が突然ぐにゃりと溶けた。反射的に引っ張るが抜けない。取り込まれるみたいにして、足が、下半身が、胴がみるみる沈んでいく。
――まるで、異物を排除するみたいな動き。
『れべっか、るうぇいんがおきる!』
クリスティーナの嬉しそうな声を最後に、私の視界は真っ白な世界に完全に呑み込まれた。
はたと目を開ける。薄暗闇に浮かぶ白いシーツ。手の平に誰かの筋肉質な身体を感じた。
がばりと体を起こす。
仰向けで寝台に肘をついた殿下が、きょとんと私を見ていた。
その顔は憑き物がとれたように晴れやかで、同時に心底不思議そうだった。
「レベッカ…………夜這いか?」
「違いますっ!」
即座に否定してから、その首に思いっきり抱きついた。
私を支えきれず押し倒された殿下が寝台に沈んで、「やっぱり夜這いじゃないか」と私の腰に手を滑らせたので、思いっきりつねってやった。
起き上がって、一連の出来事を捲し立てるように話す。その間グルーが殿下に一生懸命すり寄っていて、殿下は上体を起こして彼を撫でていた。
クリスティーナは早々に近くで丸くなって寝始めた。
一通り聞き終わったとき、殿下は驚くでも怒るでもなく、見たこともないくらい残念そうに眉を寄せた。
「夜這いじゃないのか……」
「夜這いから離れてください」
ぴしゃりと言い放つ。すると何かを考えこむようにした殿下が、「今、何日だ」と尋ねてきたからびっくりしてしまった。
「このニ、三週間の記憶が曖昧だ。寝ている間やつから意識を守っていたせいで慢性的な寝不足だったんだろう。まともに覚えているのはひどい頭痛としつこい吐き気と、あと――」
痛ましい状態に聞いているだけでも胸が苦しくなってくる。殿下がそんなふうに苦しんでいたのに、気づかなかった自分を恥じた。
が、その気持ちは次の瞬間霧散した。
「レベッカの最高の膝枕のことだけだ」
彼はとても重要なことを発表するみたいな、真剣な面持ちで言った。
「殿下、本当にサジャッドに何もされてないんですか? 『破廉恥』とか植え付けられたりしてません?」
「そうかもな。じゃあこれはやつのせいだ」
「きゃあ!」
殿下は開き直り、いきなり私を自分の寝台に転がした。抵抗したら上掛けで包まれた。
布の海からぷはっと顔を出すと、今度は顔中にキスが降ってくる。
「もうっ、この破廉恥殿下! 寝台に引きずりこみ殿下! こういうこと去年もあった!」
「なんとでも言え」
顔を真っ赤にしてじたばたする私を、殿下はくつくつ笑った。自分も横になって私を抱きしめ、首元に顔を埋めてくる。
私はいい加減疲れてため息混じりに呟いた。
「殿下、問題が山積みですよ……」
「分かってる。明日から大忙しだ」
サジャッドは殿下の『夢』に入り込んでいたが、殿下が『昨日の夢がどこで何をしたものか』というその鍵になる情報をサジャッドに教えたわけはない。
『夢』に入り込む条件が間違っている――攻略本が間違っているか、シナリオにはない何かが起きているかどちらかだ。
前提にしていたものが間違っていた今、サジャッドの悪行の証明も、階段突き落とし事件の実行犯調査も、やり直しだ。
そもそも今のサジャッドは『不可解』の一言に尽きる。
私を攻撃したり、キツく当たっていたエミリアを懐柔しようとしたり、殿下を洗脳しようとしたり、言動に筋が通っていなさすぎる。
「ずっと意識が朦朧としていたと言ったな」
殿下が急に話を切り出した。サジャッドの攻撃と戦っていた六週間の、最後の二、三週間の話だろう。
「はい」
「不意に意識が浮上することがあった。レベッカの膝で寝ているときだ。今考えれば、多分まともに寝ていたのはあの一時間だけだった。もう一歩も動けず寝台で寝ようとした日も、レベッカに会いたくて部屋に行った。あれがなかったら――」
殿下は顔を上げ、至近距離で私を見つめた。そしてはにかむように笑った。
「助けてくれてありがとう、レベッカ」
彼の頬を両手で挟んでぐいと引っ張る。その唇に自分のを寄せてから、目を丸くする彼を力いっぱい抱きしめた。
「……助けられて、よかったです」
殿下は起き上がろうとしたが、私がずびと鼻をすすった途端大人しくなって、また私の首元に顔を埋めた。
膝枕をしていたときと同じように金髪を優しく梳かす。すると殿下はすぐに動かなくなった。深い寝息が聞こえてくる。
この温もりを失わなくて本当に良かった。
殿下の頭に鼻を押し付け、私も目を閉じた。




