19
群衆をかき分け進もうとしたら誰かに手を掴まれた。無遠慮に引っ張られる。バランスを崩し、中心に戻される。
「やめ……っ」
「スルタルク公爵令嬢!」
「握手して!」
「こっちを見て!」
恐怖を感じるほどの勢いだった。一人ではどうにもならない。
ポケットの中でクリスティーナが怒っているのを感じるが、彼らはおそらく洗脳されただけで罪はない。間違っても怪我をさせてはいけない。
助けを求めて辺りを見回す。
珍しい濃紫の髪を見つけたのはそのときだ。
「メリンダ!」
人だかりの隙間から視線が交錯した。
「手を貸して!」
逃がさないとでも言うように周囲の喧騒が激しさを増している。負けじと一生懸命叫んだ。
しかしメリンダは怪訝な顔をして、自分の耳を示してから、二本の指でバツを作った。「何を言っているのか聞こえない」と言いたいんだろう。
だがその隣にいた男は、私の必死な表情から何か察したようだ。
その肩に乗っていた、通常の何倍という大きさのカラスがぶわりと浮き上がる。羽ばたいて私の真上に飛んでくる。
太い足に両手で掴まれば、カラスは私をぶら下げたまま軽々と上昇した。人の頭を飛び越えるようにして脱出に成功する。
それでも彼らはまだ追いかけてくる。私は着地と同時に人混みを縫うように駆け出した。
「どうした」
カラスの幻獣の主人――フリード・ネヘルが私に並走し始めた。
「殿下はどこですか」
「わから――あそこだ」
フリードが上を指差す。上空に巨大な鷲が滞空していた。見上げた途端、その背で私を探していたらしい殿下と目が合った。
「レベッカ!」
「殿下! 私も乗せてください!」
グルーが急降下して真上まで降りてくる。差し出された手に掴まって乗り込む。
「ネヘル様、助かりました!」
遠ざかっていくフリードに取り急ぎ礼を言い、高度が上昇する中殿下に向き直った。
「サジャッドが姿を消しました」
殿下が目を瞠る。そして口を開く。
「シナリオ通りならどこにいるはずだ」
「第一校舎です」
それを聞くなりグルーが進路を変えた。校舎は『幻獣祭』の間立ち入り禁止。暗躍するならもってこいの場所だ。
「でもシナリオとは違う可能性が」
「たしかに現実は攻略本と食い違っている。だが同じ部分もある。やつの居場所が後者であることに期待しよう」
殿下は冷静に言うと、グルーの高度を下げた。第一校舎はすぐだ。
続けて魔法で校舎全体の気配を探り始めた。殿下以外に学園で使えるものはいない高等魔法である。
「――いるな。二人だ。もう一人は――」
その唇が紡いだ名前に、私は目を見開いた。
***
校舎の屋上でグルーから降りた。魔法で足音と衣擦れを消して、その二人がいる場所を目指して上から下に降りていく。
二人は十階のある教室にいた。教室のすぐ外で話し声に聞き耳を立てる。
「何度同じことを言えば気が済むんですか? 『怪我人がいる』なんて嘘をついて人を呼び出した時点で、あなたは何一つ信用できないんです。もう戻っても?」
「エミリア嬢、待ちなさい」
中の状況は予想と食い違っていた。サジャッドが思ったより落ち着いている。
むしろ興奮しているのは連れてこられたエミリアだ。基本的に温和な彼女が、声に明らかな苛立ちを滲ませているのは珍しい。
理由はすぐに分かった。サジャッドが、物分かりの悪い子供に言い聞かせるみたいな口調で語った内容が、全てを表していた。
「今は同じ学園の生徒でも、君には穢らわしい血が流れているんだ。平民は貴族に仕えて初めて息を吸うのを許されるんだぞ? どうして『人間』みたいに振る舞うんだ? 何を勘違いしてしまったんだ? 可哀想に……でも大丈夫さ。劣等種でもその治癒の力があるなら、私と我が子爵家がちゃんと使ってあげよう」
吐き気がする。あまりにも傲慢で愚かだ。聞いていられない。
だが立ち上がろうとした私を殿下が押さえた。彼はごく小さな声で私を説得した。
「今出ていけば現実とシナリオの乖離がさらに進む。九尾がいるから、やつはエミリアに敵わない。なら情報の優位を少しでも無くさないよう動いた方がいい」
私はガツンと頭を殴られたような気持ちで殿下を見つめた。たしかにその通りで、正論だ。
「でも……」
あんな言われようをして、ただ耐えろと? エミリアが何を言い返してもサジャッドは気にも留めていない。「平民」だからだ。
親友が悪様に言われるのをただ見ているなんて、私にはできない。
「殿下、私――」
「ああ、わかってる」
殿下は頷いた。そして顎で廊下の反対側を指した。
「だから、『彼』に任せよう」
そのとき、エミリアとサジャッドがいる教室に、突如気配を現して入った男がいた。
その強烈な怒気を一体今までどう隠していたのか。彼の体を中心に暴風が起こる。窓という窓が軋み、校舎全体が小刻みに揺れ、その場の全員を鋭い耳鳴りが襲う。
「――口を閉じろ、サジャッド・マハジャンジガ」
あまりの怒りに魔力を煮えたぎらせながら、その男は立っていた。
攻略対象の一人にして五高の一角。そして何より、第一部からエミリアに好意を寄せてきた。
ガッド・メイセンは、大事な少女を侮辱する人間を決して許さない。




