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「わー! 久しぶりっ!」
夏季休暇も折り返しに差し掛かったころ、私は上空で夜の飛行を楽しんでいた。
すぐ上には今にも降ってきそうな無限の星空。下には道標の役割も果たしてくれる街の輝き。
そして今見えているのは、私が生まれ育った故郷だ。ついつい身を乗り出して覗き込んでしまう。
ジオラマみたいな街の至る所に明かりが灯っていて、綺麗なおもちゃを見ているようだった。
「レベッカ、落ちるなよ」
そう言って背後から私を抱え直したのは殿下だ。嗜めるような口ぶりだがひどく穏やかな声で、きっとこの旅を楽しんでくれていた。
「殿下、見てください! あそこがうちの領自慢の観光地街です!」
「そうか、明日行こう。名物は何だ?」
「『モチマンジュウ』ですね、母が考案したものです! あっ、あそこの特に明るいのは美術館で、なぜか私が三歳の頃父のために書いた絵が大トリで飾られてます!」
「さすがは公爵だ」
観光大使にでもなった気分で殿下に領地を宣伝する。彼はそれにいちいち返事をくれて、誰も見ていないのをいいことに頬に唇も寄せてくる。
嬉しいけどくすぐったくて、私はたまに軽く身を捩って笑った。
今日は以前殿下と約束した、二人で公爵家領を訪ねる日である。
公務とは別で、ただのちょっとした里帰り、というかデートだ。だからなのか兄さまには「愛馬に蹴られてはたまらない」と遠慮されてしまった。
移動手段はクリスティーナとグルー。片方に二人で乗ってその間片方は休憩を繰り返し、ついでに私と殿下も交代で風魔法の追い風を吹かせれば、なんと一日で到着してしまった。すごい。
公爵邸の前に降り立つと、叔父がわざわざ出迎えてくれた。人の良さそうな顔に万年消えないクマ。変わりなさそうで何よりだ。
「遠いところお疲れ様でした……見るものもあんまりないとこですが、どうぞごゆっくり満喫していただいて……」
彼は王都で働く私の父に代わって領地を任されている。
見た目と態度に反してやり手だ。私は『吹けば飛んでいきそうなのは頭髪だけの叔父』と呼んでいる。
私からその呼び名を聞かされている殿下は、些か通常より上の方を見ながら叔父に挨拶していて、笑いを堪えるのが大変だった。
今日はもう遅いので、観光は明日ゆっくりする予定になっている。明日も泊まって、明後日王都に戻る。
殿下は公爵邸を興味深そうに見ていた。私が言うのもなんだが、屋敷は結構大きくて、正直あんまり行ったことがない場所さえある。
夕食をとったあと、私は殿下の手を引いて母のお墓に向かった。
裏庭に出ると夏の虫の声が私たちを出迎えた。昼間より気温が下がったとはいえ、籠るような蒸し暑さがいくらか残っている。
点々と置かれているオレンジ色のランプを追いかけるように奥に進んでいく。
最奥が母の墓地だ。公爵家の先祖代々が眠る墓地に埋めるはずだったのを、父が拒否した。
墓標の前に座り込む。周りには私が植えた花がたくさん生えているから、花畑の中みたいなお墓だ。
殿下も私の隣に腰を下ろした。
「ただ今帰りました、母さま」
そう話しかけながら墓標に刻まれた文字をなぞった。今は暗いからわからないが、『ソフィア・スルタルクここに眠る』と書いてあるはずだ。
顔の前で手を組み、黙祷を捧げる。
ゆっくり目を開け隣を見れば、殿下はまだ目を瞑ったままだった。
虫の声以外何も聞こえない暗闇の中で、私は短くない時間、飽きもせずその横顔を見ていた。
殿下が目を開ける。立ち上がって、また殿下の手を取る。
来た道を戻る途中、殿下が足を止めた。
「ああ、ここ」
吐息みたいに小さく呟いた彼は、軽く周りを見回してから、花壇の一つを指さした。
「レベッカ、その花壇の近くに立ってくれないか?」
不思議に思いながら言う通りにする。花壇の傍で殿下を振り返ったら、殿下は右手を筒のようにして目に当て、私を見ていた。
被写体にされているような感覚だ。
「これだ」
「何がです?」
「俺が初めて見た、レベッカの姿」
思い出を愛おしむように殿下が言った。
私が初めて殿下に会ったのは一年と少し前だが、見たのはもっと前だ。殿下は魔法で『窓』を作れるから。
殿下は今、私を通して小さな私を見ているのだろう。
「ならここは、思い出の場所ですね」
「そうだな」
殿下に近づいて、胸板に頬をくっつける。殿下は私に優しく腕を回した。
「レベッカ、地下室に案内してくれないか?」
顔を上げ、薄暗い中でもはっきりわかる群青と目を合わせる。
「構いませんが、何もありませんよ?」
「ああ」
スルタルク公爵家には確かに地下室がある。だが何があるわけでもなく、一部屋分の空洞みたいなものだ。そんなところに何の用だろう。
殿下を連れ、屋敷の外壁に沿って歩いていった。少しすると錆びついた両開きの扉があった。
小さい頃は意味もなく開けて入りたくなったものだが、重くてびくともしなかったのが懐かしい。
今、力を入れて持ち上げるようにして開けば、下りの階段が続いているのがわかる。殿下が魔法で明かりを灯した。二人でゆっくり降りていく。
「本当に何もないですが……」
扉はなく、降りきったらそのままそこが地下室だ。
中は外よりもひんやりしていた。真っ暗で何も見えない空間に私の声が反響する。
しかし殿下は一歩踏み出した。手を軽く掲げて、天井に光源をいくつも出現させる。
何をしているんだろう。天井から前方に視線を戻して、私は息を呑んだ。
地下室の真ん中に人がいたのだ。
だが彼は生きているわけではなく、透明な結晶の塊の中で、固く目を閉じ、ただそこにいた。
私はそれが永遠の眠りだと知っている。
信じられない気持ちでその名を呼んだ。
「オウカ」
――――去年一年間、恋した女性の娘である私に手を貸してくれた男の名前だった。
ずっと昔に罪を犯したとされている人だから、また封印されたのは知っていた。でも。
「いつからここに……?」
声が震えるのを抑えられないまま尋ねる。殿下は力が抜けて倒れそうな私に気づいたのか、私の腰に手を回した。
「三月頃だ。レベッカから彼の話を聞いた後、学園長と義叔父上の許可を取って移した。公爵夫人の近くの方がいいと思った」
胸を衝かれた。鼻の奥がツンと痛くなって、視界が滲みだす。
私がオウカと言葉を交わしたのは三回だけだ。最初はただ恐ろしいと思った。次は不思議だと、私の知らない何かがある人だと思った。
最後には感謝と、父のような思慕を抱いた。
今にも目を開けて動き出して、笑顔でひょいと手を上げそうな顔をしている癖に、しかしもう話すことはできない人。
またその声が聞けたら、赤い瞳が見られたら、どんなにいいか。
「殿下、ありがとうございます」
ぼろぼろ溢れる涙を止められなくても、代わりに拭ってくれる人がいる。それだって母さまとオウカのおかげなのだ。
一目だけでも会えてよかったと心の底から思った。
願わくば、母と同じ地で、安らかに眠れますように。




