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じとじとと湿気の高い日が続いたある日。放課後自分の鍵付きロッカーを覗いた私は、扉の隙間から一枚の紙が差し込まれているのを見つけた。
確認してみると、それはある男子生徒からの呼び出し――といっても、胸をどきどきさせるような類ではない。
差出人はよく知っている人物だった。
もう寮に帰ろうとしていたが校舎に戻る。指定された教室を探して中に入ると、既に待ってくれていた彼がこちらを振り返った。
「レベッカさん。わざわざ来てもらって申し訳ない」
「いいえ、メイセン様、どうかなさいましたか?」
そこにいたのは眼鏡の似合う涼やかな雰囲気の男子生徒だ。窓の外のオレンジ色の夕焼けが相まって、まるで一枚の絵のような光景だった。
彼はガッド・メイセン。
エミリアに絶賛片思い中で同じ第二学年。五高の称号を持つ男である。先日の『春』で八位だった彼は、初めて会ったときからかなり身長が伸びたように思う。
「単刀直入に伺います」
ガッドは真面目な顔つきで話を切り出した。
「サジャッド・マハジャンジガ先輩に何かされていますか?」
最近よく考えている相手の名前が登場して、思わず「え」と声に出しそうになる。
私はわざと首を傾げた。
「……いいえ、特には。どうしてそんなことを?」
「いや……ただ、俺は個人的に彼を信用していなくて。前に職員棟で、あなたが彼に話しかけられているのを見かけたので」
ガッドは苦笑いして言う。呼び出された理由はエミリア関係かと思っていたので正直意外だった。
そして、今度こそ「あ」と口に出した。攻略本の一ページが思い当たったのだ。
これ、イベントじゃなかろうか。
何を隠そう、ガッド・メイセンこの男、第二部から攻略対象に昇格したのだ!
去年は『サポートキャラ』だった彼。「イケメンで五高にもなる彼と何故恋ができないのか」というプレイヤーの声が寄せられたとか、裏事情まで書いてあった攻略本の内容を思い出した。
『ガッド・メイセンに空き教室へ呼び出されてサジャッドに注意しろと言われる。『夏』以降サジャッドに洗脳される主人公に対する布石のような一幕』。
内容的にこのイベントで間違いない。でも変だ。
だって、このイベントは『ご褒美イベント』だったはずだ。攻略対象からの好感度がその時点で極めて高い場合にのみ発生する。
第一部の秋頃にあった『風邪看病イベント』も、このご褒美イベントの一種だ。
確かこのあとは『事故チュー』が起こる。
ここで問題がある。私はガッドを前に腕組みをした。
――――『チュー』ってなんだ?
『事故』はわかるが、『チュー』とは。私が無知なのか、『日本語』かのどちらかだ。
後で調べてから読もうと思って結局そのままにしてしまっていた。だって本当なら起こるはずのないイベントである。
そういうわけでこれから起きることの詳細は不明だ。しかし当たり前だがガッド・メイセンとのイベントをこなす気はないので、とりあえずここを出よう。
そこまで考えて口を開いた。腕組みをやめてお辞儀する。
「メイセン様、声をかけてくださってありがとうございます。マハジャンジガ様のことなら特に問題はありませんので、失礼致します」
好意で声をかけてくれたらしい彼にきちんと断ってから、出口に向かおうとした。
私が一歩踏み出したそのときである。
「わ、きゃ!?」
盛大に足が滑った。ツルッッ! と、それはもう豪快に滑った。油でも撒かれてるみたいな滑り心地だ。
「え、レベッカさん!?」
たまらずガッドの制服を掴む。急なことで彼もバランスを崩したらしい。
だがそこはさすが攻略対象と言うべきか、彼は私を庇って下敷きになった。そのまま一緒に倒れ込む。
倒れた拍子に私の唇が彼の唇に重なる――――
なんてことにはならなかった。
なぜなら、あわやキス直前、私は床に手をつきぐりんと首をひねり、間一髪でそれを回避したからだ。
空気が凍る。心臓がバクバクと音を立て、冷や汗が吹き出た。押し倒し、押し倒されている異常事態なのに、二人とも何も言えなかった。
あ、危ない。私今、危うくガッドとキスをしそうになった。
「すみません本当にすみません……」
「い、いや、大丈夫です」
私は近くの壁に手をつきながら慎重に体を起こした。
ガッドは顔が真っ青だ。気持ちはわかる。私なんかとキスをした日には、自分で言うのもなんだが、殿下がどうなるかわかったものじゃない。この国に住めなくなる可能性すらある気がする。
私はさっき滑ったところを踏まないよう細心の注意を払って立ち上がった。ガッドもそうしていた。
しかしその直後、歩いてもいないのに突如勢いよくつんのめったのは、今度はガッドの方だった。
「うわ!?」
ガッドの手が支えを求めて宙を切る。倒れ込むように私の背後の壁にダンと両手をつく。
それでも勢いを殺しきれず、彼の顔が私に近づいた。
「!?」
私は今後こそたまらずギュッと目を瞑り――――
ひょい、としゃがんだ。
真上で派手な音がした。文字にするなら「ゴチン!」だ。ガッドが壁に額か鼻、もしくはその両方をぶつけてしまったのだろう。
「メイセン様! 大丈――」
「待って、レベッカさん! ちょっと一旦お互い動くのをやめよう!」
「は、はいっ!」
立ち上がろうとした私をガッドが制止する。見上げれば、彼は涙目で額を押さえていた。あれはたんこぶになる。
それにしても、と何の変哲もないように見える床を見つめた。
「この教室の床、どうしたんでしょう……。ワックスの量を間違えたんでしょうか?」
「ああ、そうかもしれませんね……。後で俺の方から先生に伝えておきます」
「それがいいですね」
ガッドはとりあえず痛みが治まったようだ。真剣な声色が降ってくる。
「レベッカさん、ここの床は危険です。なんとか力を合わせて、床を踏まずに脱出しましょう」
「ええ、でもどうやって……」
「今日、幻獣は?」
「今も私のポケットにいますが、この狭い教室では身動きが取れずあまりお役に立てないかと」
「そうですか。僕は今日幻獣を連れてきていないし、今は条件が合わない……」
ガッドが教室全体を見回す。出口までの距離を測っているようだ。
「よし。風魔法でここから出口まで一気に跳びましょう」
「風魔法で?」
「はい。でも俺のだけで人一人を持ち上げるのは無理だ。二人の風魔法を合わせるんです」
「なるほど……!」
私はガッドの足元に座り込んだまま神妙に頷いた。
「うまくいくかわかりませんから、まずは俺が行きます」
「そんな、危険では」
「これでも貴族の端くれ。次期王妃に怪我をさせるわけにはいきません。……俺にもしものことがあれば、俺の部屋の金魚に餌をやっていただけますか」
息を呑んだ。
こんなつるっつるの床の部屋で「もしものこと」なんてあったらどうなることか――どうなるんだろう?
わからないが多分危険だ。
だがガッドの声は真剣そのものだった。強い意志をたたえるその瞳を見て、私は狼狽えてはならないと思った。
「……わかりました。必ず成功させましょう」
ガッドが大きく頷く。
目的地を見つめ、魔力を静かに高めれば、自然とガッドと呼吸が合うのがわかった。
「三、二」
「一……っ!」
踏み切って大きく跳ぶガッド。すかさず進行方向へ後押しする横の風を起こす。ガッドは下からの縦の風を起こして着地を遅らせる。
二つの力はぶつかり合うことなく滑らかに調和して、ガットの体を出口へ運んだ。
廊下に着地したガッドが笑顔で振り返った。
「レベッカさん、やりましたね!」
「ええ!」
続けて私も同じようにジャンプし、先程よりさらに滑らかに、軽々と廊下に着地した。
ガッドと向かい合って固い握手を交わす。危機を共に乗り越えた私たちの心に、確かな友情が芽生えた瞬間だった。
互いの健闘を讃えてから別れた。しかしこの出来事をエミリアに話したのは失敗だった。
エミリアは一連の流れに全く感動してくれなかったし、何ならちょっと引いていた。
ガッドの恋路はまた一歩遠のいた。去年に引き続き恋が実らない辺りがどこか不憫な男というか、なんというか、ごめん。
ともかく上機嫌で帰った私は、部屋で攻略本を確認し、一気に青くなった。ちゃんと最後まで目を通すべきだった。
このことは死んでも殿下に秘密にする所存だ。
次の日の朝、窓の外に手紙が届いていた。なんだろうと思って開いたら、殿下から「近いうちに会って少し話がしたい」という旨だった。
まさかガッドとの出来事がバレているわけではないと信じている。
頼むから、本当に、信じている。




