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第三校舎にある程度近づいたところでクリスティーナから降りた。ゴールの場所を他の生徒に知られないためだ。
クリスティーナがしゅるしゅると小さく縮んでいき、白くてちっちゃな蛇に戻る。
「無理をさせてごめんね。ゆっくり休んで」
ぎゅっと抱きしめてから定位置である制服のポケットの中に入れる。
すぐに駆け出して、素早く校舎に入った。人の気配はない。それでもなるべく音を立てないように気をつけながら、五階まで階段を一気に駆け上がっていく。
このままいけばなかなかの好タイムだ。体感は開始から三十分と少しといったところ。
息が切れて軽く上下する胸を押さえながら、最後の数段を跳ぶようにして上り切った。
真横から人の手が伸びてきたのはそのときだ。
突然のことに目を見開く。一瞬心臓が止まった。
咄嗟にしゃがむように膝を折りながら、その手の向こうにいる誰かを見ようとする。
視線が交差して、またさらに肝が冷えた。そこにいた人物を私は知っていた。
ちゃんと顔と名前が一致したのは、彼が去年『五高』に選ばれた時だったか。
――彼こそ第二部の『敵キャラ』。
何をするつもりなのか彼は私に手を伸ばしていた。数秒が何分にも感じられる奇妙な感覚の中、その指が私の前髪を割った。
なす術もなく額に触れられそうになって、たまらずぎゅっと目をつぶった、その瞬間。
「――――触るな」
はっと目を見開いた。
大好きな人の声がした。
***
レベッカが何者かに襲われた十五分ほど前のこと。
ルウェイン・フアバードンは『501号教室の扉』に寄りかかり、何をするでもなく、ただ扉に背を預けていた。
そこはまさしく『春』のゴールだから、コンコンコンと三回小突けば、ルウェインは間違いなく一位で『春』終了だ。
だが彼はまだそうしない。彼の優秀な婚約者が到着するのはそう後のことではないはずだ。彼女が来たら同時に入るか先に通すかするつもりだった。
ルウェインの行動にはある理由がある。
『おおお……!』
先日、卒業生の送別会で行われた飲み比べ。レベッカがかの大酒豪オリヴィエ・マークを下した瞬間、会場は沸いた。
しかしルウェインが気になったのは婚約者の様子だ。
大盛り上がりの人だかりの中心で美しい笑みを浮かべている彼女に、漠然とした違和感があった。周りからの賞賛の言葉に返事をするわけでもなく、ただにっこりと笑い続けている表情。
近づいて声をかけた。
『そろそろ引き上げないか。部屋まで送る』
『分かりました』
レベッカは危なげなく立ち上がった。ルウェインと共に会場を出る。
寮までのしんとした道を二人で歩いた。多くの生徒はまだ無礼講を楽しんでいるかそもそも出席していないかだから、世界がルウェインとレベッカの二人だけになったかのような夜だった。
ここまでしっかりした足取りのレベッカに、ルウェインが気のせいだったかと思い直した頃だ。
レベッカが不意に歩みを止めた。
『ところで、殿下は今日四人いらっしゃるのですね』
『――は?』
『そう言うことは先に仰ってください。びっくりしてしまいます』
あくまでしっかりした口調。
しかし『どうしましょう、私は今日も一人しかいないんです』などと続ける彼女の顔を覗き込んでみて、ルウェインは珍しく驚きをあらわにした。
『レベッカ、酔ってるな?』
先ほどまでの完璧な令嬢は一体どこに行ったのか。頰は赤く上気し、息は熱く、視線は覚束ない。
『いいえでんか、わたしよってません。だってでんかのこいびとですから』
彼の婚約者はそこで何故かふふんと胸を張った。「どうだすごいだろ」と言わんばかりだった。
ルウェインは彼女を横向きに抱き上げた。運んだほうが早いと思ったのだ。
驚いたレベッカがルウェインの首に腕を回してぎゅっと掴まる。ふわりと甘い香りがしてルウェインの鼻腔をくすぐった。
『気分は悪くないか? 少しどこかで休んでもいい』
『でんか、わたしよってないです。だからおもかったらおろしてください』
『大丈夫だ。むしろ一生このままでいい』
レベッカが楽しそうに笑った。至極真面目な顔で冗談を言ったルウェインが面白かったらしい。ルウェインは別に冗談など言っていないがそれは置いておく。
レベッカはそのままご機嫌で、『セクティアラ様が相変わらず可愛らしかった』だの『兄さまが羨ましい』だの話し始めた。
だがそれも少しすると控えめな寝息に変わった。ルウェインの肩口に頭を預けて、すよすよと眠っている。
それを確認すると、ルウェインは早足に切り替えて女子寮に向かった。寮監に事情を説明して入室許可をもらう。
レベッカの部屋に行くまでにたくさんの女子生徒とすれ違ったから、明日以降レベッカが頭を抱えそうだ。
部屋に入ると白蛇が近づいて来た。主人をベッドに寝かせると白蛇もやっと安心できたのか、枕元に丸くなった。
もう窓の外は真っ暗だ。ルウェインはカーテンを閉め、レベッカの頭を一撫でした。そして立ち去ろうとした。
だが何かが彼の上着の裾を掴んだ。
『起きたのか?』
振り返って、横たわったままの彼女の顔を覗き込む。その前髪を横に流してから頭を撫でてやる。
レベッカはルウェインの質問に答えなかった。
『でんか、もうよるですね』
『ああ』
『そとはまっくらだし、きっとすごくさむいですよ』
『……』
もう春だし、夜でもそんなに寒くはない。
ルウェインは自分の婚約者を見つめた。彼女も彼女でじっとルウェインを見ていた。
そのときルウェインは急に、昔よく『窓』を作って盗み見た、小さい頃のレベッカを思い出した。
夜になるとベッドの中で寂しさに泣いていた女の子。すっかり大きくなって、今こうしてルウェインの前にいる。
口を閉ざすルウェインに何を思ったのか、レベッカはか細い声を絞り出した。
『……あの、でんか、かえらないでください……』
沈黙が室内を包む。ルウェインはたっぷり三秒ほど思考を停止した。
そしてため息をついた。身体中の空気を全て吐ききるかのような、深い深いため息である。
――――何の試練だ、これは。
『……帰らないほうがいいのか』
額を押さえながら聞けば、逡巡のあと『はい』と小さな声が返ってくる。
『寝台は一つしかない』
『わたしゆかでねられます。だってでんかのこいびとですから』
『レベッカ、その文脈では使わないでくれ。誤解を生む』
彼女はまたもやふふんと胸を張っていた。
ルウェインの婚約者は、彼にだけは酔った姿を見せてくれる。抱き上げたら腕の中で寝るし、家まで送れば「帰らないでほしい」とお願いする。
それと何故さっきから『恋人だ』と当のルウェインに自慢してくるのか。それはもう幸せそうに、よそ行きの微笑みとは違う、満面の笑みで。
『…………あり得ない』
ルウェインは呻いた。
あり得ないほど、愛しい。
ルウェインは諸々を諦めて上着を脱いだ。寝台に入ると、レベッカが奥に詰めてスペースを空ける。普段の彼女ならしない行動だ。
寝るに限ると思い目を瞑ったルウェインだったが、
『殿下、『乙女ゲーム』の第二部が始まりますね』
すぐにまた開いた。彼の婚約者の声は、夜の闇に溶けてなくなりそうなほど頼りない響きだった。
『不安なのか?』
そう問えば、レベッカは『少しだけ』と苦笑する。
ルウェインは全ての真実をレベッカから聞いていた。『冬』のあと、舞踏会でのことだ。
主人公や攻略対象たちのこと、レベッカが悪役令嬢になるはずだったこと、国外追放されるというシナリオに抗ってきたこと――。
そして、これから始まる第二部のこと。
『私は主人公でもエミリアでもないですから』
ルウェインは考える。レベッカはこれからエミリアに代わって学園を守ろうとしている。それは第一部のシナリオを変えたことへの責任感だけが理由ではない。
レベッカは大事な親友を守りたいのだ。自分が代わりに危険や苦労を引き受けようとしている。
『大丈夫だ。今年は俺がいる』
その瞳が不安に揺れなくて済むよう、一人でいたくない心細い夜も安心して眠れるよう、ひんやりした手を包み込んでやる。自分の体温を移すように握り込む。
『今までよく一人で頑張った。俺はレベッカを誇りに思う。今年は俺がいる。何も心配しなくていい』
噛んで含めるように言えば、レベッカはやっと力が抜けた表情を見せてくれた。その手に温度が戻ってくる。
ルウェインが、レベッカの不安を取り除けたかと安堵しかけたときだ。
『誰かに殿下を取られないよう、頑張りますね』
その瞬間のレベッカのことを、ルウェインはひどく不自然に思った。
彼女がわざと茶化したような言い方をするのは珍しいし、何よりその笑顔が強張って見えた。
『結婚しよう』
口をついてその言葉が出た。
『卒業を待たず、すぐにでも』
レベッカが口をぽっかり開けてルウェインを見る。
『『すぐにでも』……?』
『ああ。招待状の送付とドレスの採寸が急務か? 場所は王宮以外選べないが、他はレベッカが決めていい。近いうちに一緒に指輪を買いに行こう。ああ、お前の兄が自分がヴァージンロードを歩くと言って公爵と揉めるかもな』
『で、殿下、ストップ』
いまだかつてなく饒舌なルウェインに、レベッカは今度こそ心の底から安心したような、綻ぶような笑顔を見せた。
ルウェインはやっと満足した。レベッカを抱きしめ目を閉じる。すると腕の中の体温が距離をつめるように少しだけ動いた。
レベッカの頬にキスを落としてから、ルウェインは満ち足りた気持ちで目を閉じた。
翌朝のレベッカはこんな話をしたことをすっかり忘れていた。それで良いとルウェインは思う。
あの夜彼女の口からこぼれたのは、きっと彼女自身も気づいていない、心の奥底の不安だった。
気づかないままならそれで良い。ルウェインが勝手に解決すればいい話だからだ。
つまるところ、ルウェインが『春』でレベッカに持ちかけた勝負の本質は、ルウェインの揺るぎない気持ちをレベッカに伝えることにある。
真剣に考えたレベッカがどうしても「まだ早い」と思うのならそれはそれでいい。
だからルウェインはゴールせずレベッカを待った。まあ多少気合が入ってしまって、早く到着しすぎたことは認める。歴代最速の可能性すらある。
少ししてレベッカが第三校舎に足を踏み入れたのをルウェインは知っていた。自身の幻獣である鷲のグルーに、空から第三校舎を見張らせていたからだ。
異変が起きたのはその直後だ。
レベッカのあとを尾けてもう一人入ってきた。その人間はヤモリのように外壁をつたって、階段を駆け上がるレベッカを途中で抜かした。
そのまま『501号教室の扉』に向かってくるならどうだってよかった。
だがその気配は突然進むのをやめた。
場所は五階。階段のすぐそば。
そこで息を潜めて――――レベッカを、待っている。
確信に変わった瞬間転送魔法を使った。急に魔力を最大まで引き出したせいで、全身がカッと熱くなる。
体が軋み、沸騰した魔力が渦を巻き、四肢に鋭い痛みが走る。
それでも、周りの景色が一変したその瞬間、ルウェインは地面に足がつくよりも先にレベッカに向かって手を伸ばした。
そこにいた男が『敵キャラ』と呼ばれる存在であることすら、今のルウェインにはどうだってよかった。
最大かつ唯一の問題は、その男がレベッカに触れようと手を伸ばしていた事実、これだけだ。
愛しい彼女を後ろから抱きしめるように引き寄せる。
「――――触るな」
彼女は、俺の婚約者だ。
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