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この世界が『乙女ゲーム』だと知ったのはもう一昨年のことになる。去年一年間は『悪役令嬢』の運命である国外追放を回避するべく必死だった。
しかし『ゲーム』には第二部がある。母さまが生前私にくれた『攻略本』には、引き続きその内容が記してある。
主人公は変わらずエミリアだ。第一部で晴れて三強の称号を勝ち取った彼女が、再び学園で『イケメン』たちと恋をする。
第一部の恋愛はリセットらしい。
重要なのは、第二部には悪役令嬢レベッカが登場しないということだ。
代わりに新たな『敵キャラ』が出張る。
春季休暇の間、私は考えた。シナリオに登場しない私はもう国外追放されない。なら攻略本で『行事』の内容を知ってしまうのはただの不正だ。
だから決めた。攻略本は読む。第一部の内容を変えてしまった私は、主人公のエミリアに代わって第二部のシナリオに対応し、この一年間を無事に終わらせる義務がある。
だが『行事』の細部は読まない。
今年は去年とは違い、自分の力で勝負がしたい!
そして今私の前に、攻略対象が一人、ブライアン・マークが立ちはだかっている。
彼は切れ長の目をすっと細めて口を開いた。
「俺をご存知ならこの噂もお聞きになってます? 『騎士団長の子息は、姉に戦闘の才能を全てもっていかれた』って」
「ええ、存じ上げております。そしてあなたはその分頭の良い方だとも伺っております」
にわかには信じ難いが、王都に住む者なら一度は耳にしたことがある有名な話だ。
フアバードン王国を守る誇り高き騎士団で育った彼は、十歳のときから『負け続き』。
最近は剣を取ることすらないとか。今も腰に剣をぶら下げてはいるが、手にする様子が全くない。
「ですからブライアン様、私と取引しましょう」
意識して意味ありげに微笑みかけた。
戦わない彼相手でも油断は禁物だ。彼は姉のオリヴィエとは違い頭脳派。おめおめと正面から近づいたのは、一応は算段があるからなのだ。
「内容は簡単です。私はあなたを信じますから、あなたも私を信じてください」
言うと同時、魔力で縄を一本を形成する。クリスティーナに離れてもらい、縄で自分の両手首を縛ってみせた。
自分でやるから一周しか回せなかったが、それでも簡単には動かせない。
さらには地面に膝をつき、駄目押しとばかりに目も閉じた。ブライアンの訝しげな声が聞こえる。
「……何のつもりです?」
「私は決して動きませんから、攻撃したければどうぞされてください」
は、と呟いた彼に、たたみかけるように続ける。
「私はあなたのヒントの魔法を調べたい。近づいても危害を加えないと、あなたに信じてもらいたい。そのためにまず私があなたを信じます」
歌うように説明すると沈黙が降りた。
わずかに衣擦れの音が聞こえる。ブライアンが私の目と鼻の先まで近づいてきたのを感じ取った。
それでも目を開けない。
私にはこの作戦が成功する自信があった。案の定、聞こえたのは呆れたような声だ。
「……クソ、わかりましたよ」
ゆっくり目を開き、正面の彼を見据えた。
さも面倒だというように頭をガシガシと掻いているブライアンは見た目が不良だし、言動は粗野だ。
しかしブライアン・マークは、攻略対象、オリヴィエの弟。
そしてそれ以上に――――『一人の騎士』。
王都では有名な、『騎士団長の子息は姉に戦闘の才能を全てもっていかれた』という噂。
それはいつだって続きを伴って語られる。
ある男性はこう続けた。
「でも、王都で暴漢に襲われたとき、助けに入ってくれたのは彼だった。『いいから行け』と叫んで、俺と家族を逃がしてくれた」
ある女性はこう話した。
「でも、小さな子供を庇っているのを見ました。貧民街の孤児を気にする人なんて、私はあのとき初めて見ました」
そして多くの者はこう結んだ。
「でも、たとえ戦えないのだとしても。彼の心はまさしく騎士そのものだ」
今、目の前のブライアンに視線を戻す。彼は三強の姉にも自分の出自にも恥じない、立派な騎士様なのだ。
そうして私は近づくことを許され、彼の体に軽く触れた。
魔力を流して魔法を読む。
「……ブ、ブライアン様」
「はいはい。ヒントを得る方法はわかりました?」
「ええ、あの……」
私は次の言葉を発するのを心底躊躇った。
「三回まわって、『ワン』とお願いします……」
今までで最も重く長い沈黙が私たちを包んだ。私は本気で、「彼に信じてもらうためにまずは私が三回まわってワンというべきか」と悩んだ。
「死ぬほどからかわれるから姉貴にだけは言わないでくれ」と念を押してから三回まわり、「わん」と口にして顔を真っ赤にさせた彼は、申し訳ないが正直可愛かった。
***
『第三校舎501号教室の扉を三回叩け』。
これが私が得たヒントの内容である。
顔どころか首まで赤いブライアンに一緒に行くか聞いたが断わられ、挨拶して別れた。
再びクリスティーナに跨り、単身第三校舎を目指した。位置的には悪くない。五分も飛べば着くはずだ。
しかし事はそう簡単にはいかない。
空にいる私のさらに上空に、突如として矢の雨が出現したのだ。
「キュッ!」
「ッ、クリスティーナ!」
クリスティーナの体の大きさがここで災いした。私が防御魔法で防ぎきれなかった二本の矢がクリスティーナの体に突き刺さる。
はるか下方を確認すれば、クリーム色のポニーテールの女子生徒が女子寮の屋上から私を見上げていた。
「ホートン伯爵家、ハンナです! スルタルク公爵令嬢、降りてきてください!」
その顔を確認して記憶をたぐり寄せた。ホートン伯爵家の一人娘ならたしか新入生だ。
三強の私を討っていち早く名を上げたいのだろうが、「降りろ」と言われて素直に降りてやる必要はない。
「道を急いでおりますので!」
にっこり笑って、少しも止まらずに飛び続けた。
クリスティーナに傷をつけた時点でかなりの実力者だ。ここは無視するのが最善。
もし彼女が次の言葉を叫ばなかったら、だが。
「王妃の座、譲ってもらえませんかー!」
正直ぎょっとした。顔に出さないのが大変だった。
しかし振り返ってみてそれ以上に意外だったのは、彼女が覚悟を決めた人間の目をしていたことである。そこには少しの悪意も欲もないような気がした。
「……クリスティーナ、まだ頑張れる?」
「キュイキュイ!」
「そう……ありがとう。大好きよ」
クリスティーナのつるりとした鱗を一撫でして、逆向きに方向転換する。
屋上で仁王立ちする彼女の前に降り立った。近づいてみてわかったが、彼女もヒントの魔法をかけられた新入生のようだ。
「理由を伺っても?」
言いながら、さっきの彼女の矢のように、魔力の短剣を形成する。同時にハンナも魔力の弓矢を手元に作り出した。
「お金です! うちは伝統があっても貧乏なので! 両親に楽をさせたいです!」
「そうでしたか。でもごめんなさい――」
「それにっ!」
ハンナが私の言葉を遮った。小柄な体をぶるぶる震わせ、ビシッと私を指さした。
「ただ顔がよろしいだけならまだしも、そのサラサラ黒髪ロング、泣きぼくろ、極め付けに悩ましボディ……! 羨ましいッ!」
「……」
最後いらない私怨が混じったが、彼女は彼女でその華奢な肩に大事なものを背負っているらしい。
だがそれは私も同じだ。
極限まで集中して魔力を高める。いつでも斬りかかることができるよう、手足に強く力を込める。
顔はいつもと同じで令嬢らしく。見る者を虜にする優雅な微笑みだ。
「私はもう二度と、自分から身を引く気はありません。――私からあの人を奪いたいなら、力ずくでどうぞ」
そう宣言して、互いに一歩踏み込んだ瞬間だった。
私とハンナは同時に息を呑んだ。
お互いのちょうど中間に突然巨大な火柱が上がった。炎は一度天を突いた後、ぎゅっと収縮しまとまって人の形に変わった。
そうして現れたのは、炎をそのまま髪に宿したかのような、苛烈な美しさをもった女性。
ハンナの驚愕に染まった声が響く。
「ゴウデス侯爵令嬢!」
五高にして最高学年、キャラン・ゴウデス――今年度最も三強に近いと言われる女傑。
第一部では殿下に想いを寄せるあまり幻獣の子熊の力が暴走し、私を襲ったことがある。
私はそこで眉を寄せた。キャランが向き直ったのが私ではなく、反対側のハンナだったからだ。
「ごきげんよう。先程『王妃になりたい』とのたまわれたのはあなたで間違いないかしら? ホートン伯爵令嬢」
名前を呼ばれたハンナが短く悲鳴を上げた。
「順番待ちの列に割り込むのはおやめなさいな。あなたが思うよりその列は長く続いているのよ。――そうでしょう? レベッカ様」
振り返ったキャランから意味ありげな視線が送られてようやく理解した。
先程の「王妃の座を譲れ」というハンナの叫びは、私の思わぬ援軍をここに呼び出してしまったのだ。
「しかもあなたヒントの魔法をかけられていらっしゃるのね。ちょうど良かった」
ド迫力の美貌を持つ彼女に歩み寄られて、かわいそうにハンナがうさぎみたいに震え始めた。
ほんの少しだけ胸が空く思いでクリスティーナに飛び乗る。
「キャラン様、次にお会いしたらぜひお手合わせを」
「ええ、もちろん。この一年のうちにあなたを負かして差し上げますわ」
自信たっぷりに笑ってみせるキャラン・ゴウデスは、『ゲーム』正シナリオでは主人公エミリアの頼れる味方だった実力者。
特に女子生徒からの信頼が厚く、学園内に『親衛隊』と呼ばれる熱狂的なファンの組織を抱えるほど。
彼女と私は、これからやっとライバルという名の友人関係を築けるのかもしれない。




