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兄は姿を現わすが早いかブンと恐ろしい音を立てて剣を振るった。それは私の身長ほどあろうかという大剣で、一振りするだけでまるで突風が起こるかのようだった。その場にいた敵兵が何人もまとめて吹き飛ばされていく。
「うわああっ!」
「何だ!?何が起こった!?」
「スルタルクだ!ヴァンダレイ・スルタルクだよ!」
兄は次々に容赦なく相手をなぎ倒していく。剣を振るう度に人間が人形みたいに宙を舞う。キャランも魔法で攻撃に加わって、相手の軍はまさに恐慌状態だ。
私はあっけに取られてその背中を見ていた。何という豪腕だ。兄が戦っているところを見るのは初めてだった。
そして、兄が現れたのとほぼ同時。何かがもうもうと土煙を立てながら戦場を横断した。
黒い影だが、速すぎて目で捉えられない。しかし遠くに姿が見えたかと思ったそのとき、彼女はすぐ隣に来ていた。
「!?」
「よっ!」
黒い影に思われたものは、豹に跨ったオリヴィエだった。彼女は私に向かって明るく挨拶したかと思えば、兄同様敵兵を蹴散らし始めたではないか。
相手はいよいよ混乱を極めた。続けざまに現れた二人の三強。キャランも攻撃魔法を続けざまに放っている。敵陣は総崩れもいいところだ。
しかしこの場で最も動揺していたのは間違いなく私である。なぜ兄が?そしてオリヴィエが? ………そして兄は、私を、助けている?
そのときいきなり兄の腕が伸びてきて、私を引っ張り上げ馬に乗せた。突然のことに思わず目の前の大きな背中にしがみついた。
今度こそ「兄さま」と呼ぼうとしたのに声が掠れてだめだった。この一年間兄を避け続けたツケがきている。会うのも話すのもほぼ6年ぶりだ。
兄は背後の私をさして気にした様子もなく大剣を振り続ける。もう何を考えているのかさっぱりわからない。
だって兄は、さっきから私を一瞥もしない。
その後ろ姿は、私の口内をカラカラに乾かし、声を出せないようにするのに十分だった。
すると知らない男の声がした。私には今兄の背中以外何も見えないのでよくわからないが、兄の進路を塞ぐように前方に立っているようだ。
「ヴァンダレイ!自分が何をしているのかわかっているのか?その女は罪人だぞ!」
「ん?」
兄の声が聞こえた、それだけで心臓が跳ねた。記憶のものよりずっと低い。知らない人にしか思えない。
兄が今私を助けてくれているのはわかる。でも、どういう気持ちで?
殿下に頼まれた?公爵家の人間として身内の不始末を片付けにきた?はたまた三強としてこの場を納めに来た?………それとも、ゲームのラストみたいに、私を見捨てに?
怖い。体が強張るのを止められない。歯がガチガチ鳴り、兄のお腹に回した腕に力が入った。
ぎゅっと目をつぶって兄の次の言葉を待っていた。
そんな私の思考はある感覚で木っ端微塵に吹き飛んだ。
兄のお腹に回し、思わず力を入れてしまっていた手。それに、温かい何かが。
兄の手が、重なった。
「わかるかと聞かれれば、全くわからないな!君たちは一体何を考えて俺の妹を追い回しているんだ?」
手が、膝が、瞼が震えた。
『妹』と、呼ばれた。
「その女は悪事を働いたんだよ。捕まえろという命令なんだ!」
「そうかそうか!そんなでたらめを誰に言われた!」
「教えるわけないだろう、機密だ!だが殿下も承知のことだぞ!お前は次期公爵だろう?可愛い妹は裁けないっていうのか?」
「その次期公爵が何も聞かされていないのがまずおかしいと思わないか?」
「っ、…ヴァンダレイっ。学園長のお言葉を忘れたか!『貴族たるもの、弱きを救け、弱きを守り、弱きを挫くを挫け』、だ!」
「ははは!悪いが聞いたことがないな!学園長が話される間は自主的に仮眠をとることにしていたんだ!」
「いつも起きていたろ!?」
「寝ていたさ、目を開けたままな!」
「ヴァンダレイッ!」
男は吠えた。
「見損なったぞ、俺はッ!」
「そうか、それは筋違いだ!俺が母上から教わったのは3つ。一に妹を救け、二に妹を守り、三に妹を挫くを挫け、だ!」
男は慄いたように後ずさった。唇をわなわなと震えさせ、信じられないと言わんばかりに声を上げた。
「妹至上主義、だと――――!」
………?
感動していたのも忘れて「は?」と口に出しそうになったとき、すぐ横から聞こえたのはオリヴィエの大笑いだ。
「あっはは!言ったろレベッカ嬢、良いやつだけど、まともじゃないって!」
いつだったか、いたずらっ子みたいに笑っていたオリヴィエとの会話を思い出す。
『まともじゃない』。
はたと気づいた。あれはそんな意味だった?
「ニーシュ!ディエゴ・ニーシュ!お前よお、今年は五高確実だったろ?なんでこんなことしちゃうかなー!」
「オリヴィっ、わっ、ぐえ」
オリヴィエの飄々とした声の直後バカンと音がして、男が一人視界の端を吹き飛んでいった。
「やあオリヴィエ、こんなところで奇遇だな!君はレベッカに何か吹き込んでいたのか?」
「ははは、ごめんね!シスコンに気をつけてってちょっとした忠告のつもりだったんだ」
私は顔を上げた。すると振り返った兄とすんなり目があった。思わずポロリと呟く。
「兄さま…」
「すまないレベッカ、会いに来るのが遅くなりすぎたな!」
その言葉に私がいいえと言うより早く、兄さまが矢継ぎ早に続ける。
「四月、会いに行こうと思っていた矢先、偶然見かけた君があまりにも美人になっていたものだから、驚いて声をかけるタイミングを失ったのだ!」
「…兄さま」
「だから、俺のせいだな!」
「…」
そう言って太陽みたいに屈託無く笑う。黙って見つめた。
声が低くなった。背も伸びた。肩幅だって昔よりずっと広い。変わったところを挙げたらきりがない。
10歳までの私は兄さまが大好きだった。この一年はその兄さまと今の兄さまをまるで別の人間のように思っていた。初めて攻略本を読んだときから兄さまのことが信じられなくなった。今になって自分が何を考えていたのかやっとわかった。
私は兄さまに、『裏切られた』と、そう思ったのだ。
オズワルドもランスロットも殿下だってレベッカを断罪したけど、そのときはまだ知らない人だったからショックは少なかった。兄さまのことだけを避けたのは、兄さまのことが大好きだったことの裏返しだ。
兄さまの中身はこんなにも、何1つ変わっていなかったのに。
人より声が大きいところとか、勢いのいい喋り方とか。いつでも堂々として格好いいのに、昔から私にだけは激甘なところとか。
そうだ、兄さまは昔から私を可愛いと言って褒め、賢いと言って褒め、良い子だと言って褒め、また可愛いと言って褒めた。
そして今また、私を甘やかそうとしている。
「声をかけられなかった」なんて嘘に決まっている。兄さまは聡い。きっと早くから妹が自分を避けていることに気づいていた。気づいていて私に合わせ、無理に会わないようにしてくれていたのだろう。
目の前が急に滲んで見えた。
私は兄さまになんてことをしたんだろう。
「………兄さま、ごめんなさ…」
「レベッカ、何を謝る!君は何も悪くない!」
「でも、」
「だがそうだな、俺のせいで俺たちの間には少々時間が空いてしまったな!しかし大丈夫だ。いくらでも時間はある。いくらでもやり直せる。なぜなら俺たちは家族だからだ!俺は妹である君を心から愛している。空いた時間はこれからゆっくり埋めていこう。君さえ、よければ。どうだろう?」
「うん、うん」
涙をこぼさないようにしながら答えたら、ぐいっと抱きかかえられて兄の前に移動していた。
この体勢は、昔よくねだって乗せてもらった兄の膝の上を思い出す。未だに10歳の子供扱いなのだろうか?少し笑ってしまう。
「そうか、よかった!あとは俺に任せて休んでいるといい!」
「うん。兄さま、助けに来てくれて、ありがとう」
「ああ!」
『母も父も兄も、あなたを愛している』。母の言葉が頭をよぎった。本当だった。愛されていた。母さま、信じきれなくてごめんなさい。
幼い子供になったみたいな気分で目を閉じ兄にもたれかかる。こんな状況なのに安心したからって眠気に襲われるなんて、私も結構図太いのだろうか。
「そうだ、まだ聞いていなかったな!君たちにこの行動を指示した人物は誰なのか!」
「いたたたたた!」
体が揺れた。私を抱えたままの兄が、敵兵の一人を捻り上げたらしい。
「言う!言うから離してくれ痛い!」
とろんとしてきた目を薄く開いた。「高貴」と聞いたし大方スルタルクか私自身を邪魔に思った有力貴族の誰かだろうが、こんな目に合わせてくれた人間が誰かには興味がある。
しかし。
その男の言葉を聞いたとき、私の意識は一瞬で覚醒することになる。
「宰相様だ!俺たちは全員宰相様に特命を頂いて動いたんだよ!」
…………え。
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
急に起き上がった私を兄さまが見ていた。私は一人で馬から飛び降り、その敵兵に詰め寄った。
彼らがなぜ信じてしまったのかは知らないが、考えなくてもわかる。宰相様がそんな命令を出すわけがない。
「さ、宰相様って」
でもそれなら。
だって、『宰相』は。
「…宰相様からの特命だって、言ったのは、誰?」
『彼』の。
「え?そりゃあ、」
ドクン。
「息子の、ランスロット・チャリティだよ」
男の口がそう動いたとき、腕を持ち上げ空を指差して、「ばーん」と間の抜けた声を出した一人の敵兵がいた。
さっき思い出せなかった『聞き覚えのある声』は、そうか彼だったと、茫然と思った。
「…ランスロット?」
天を指差したままこちらを向いたその男。顔に張り付いているみたいな笑顔はまるで爽やかじゃない。昨日までの爽やかさだけが取り柄みたいな元放蕩を、急に恋しく思った。
そしてすぐ異常に気づく。魔力が体から消失した。いや、感じ取れなくなったというのが正しいのか、魔法が使えなくなっている。若干の息苦しさのようなものも感じる。
「やあ、レベッカ嬢。今『魔力ジャック』の対象を教員との通信だけでなく今ここにいる全員にしました。魔法が使えない上、魔力の保持量が多い人間はなかなか苦しいはずです」
はっと兄さまを見ると、兄さまは胸を押さえて荒い息をついていた。オリヴィエも兄さまほどではないが苦しそうだ。キャランに至っては座り込んで肩で息をしていて、今にも倒れこみそうになっている。
対する敵兵には平気な顔をした人間も多い。三強二人が暴れたせいで立っているのは50人いるかいないかという人数だが、それでも形勢は逆転した。
何なんだ。ランスロットは魔法が得意だったが、魔力ジャックだなんていくらなんでも無理ではないのか。
しかしこんなことができるとすると、
「…セクティアラ様に何かしましたか?」
「ああ…はい、姿と気配を消して近づいて気絶させただけですけど。レベッカ嬢が山に逃げ込んでいた間に大人数で急襲したんです。他の兵もまだのびているでしょうね」
「…気配を、消す?」
「僕の魔法です。結構難しいやつなんですよ」
「…クリスティーナはどこ?」
「『封印の箱』ですね。僕が持ってます。箱ももともと僕のですから」
「…オズワルド・セデンは」
「彼強かったですね。気絶させるまでに凄い時間がかかりました。今は幻獣と一緒に眠ってますがまあ無事ですよ」
「…こんなことをしている目的は?」
聞いた分だけ返ってくるのが逆に怖い。
しかしせっかくだから核心をつこうと質問したら、
「貴方が好きだからですね」
あっけらかんと返された。
「………一応聞きますが、どういうことですか?」
「はは、聞きたくなさそうだなあ。それでも喋りますけど」
それとさっきから不思議なことがある。
ランスロットあなた今、どうしてそんなに楽しそうなの?
「僕は、『春』の日出会った貴方に恋をしたんです」
ランスロットの長い一年間の物語が始まった。




