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麓のオリヴィエの陣が見えてきた。今私の体には九尾の聖の魔力が満ち溢れている。魔力を譲り受けるにはその幻獣と心を通わせる必要があり、正直可能か不可能か五分だと思っていたが、案外すんなり成功した。準備は万全だ。
私の意気込みを感じたのか九尾が一際高く跳躍し、一気に山を抜けてオリヴィエの陣に躍り出た。敵兵を引き連れている時点で目立たないようにするのは無駄な努力だから、堂々と姿をあらわす。
全体を見回して眉を寄せた。先程来た兵は一部だったらしい。二百は優に超えるだろうという数が一様にこちらを見ている。
異様な光景に寒気がする。やはり彼らは操られていると考えるべきだろう。
しかしもっと異様なのは地面だった。至る所に大穴が空いている。すぐにわかった。オズワルドだ。彼の幻獣は土竜だった。地面がこんなになるまで戦ってくれた彼とその幻獣、そして私のクリスティーナは今どこにいるのか。
「レベッカ・スルタルクだ!全員、捕らえろ!」
聞き覚えのある声がどこかからしてはっとした。兵たちが一斉に、波のように押し寄せる。
今の声はこの場の統率者なのか、それとも操っている張本人か。考えている暇はなく、誰の声だったかと思い出す時間も与えられない。
一刻も早くこの騒動を終わらせてしまおう。素早く魔法を展開する。対象はこの場の全員。解除魔法を行使した。
「…解除」
確かな手応え。一瞬にも満たない間に魔力がごっそり持っていかれてほぼ空になった。
そうして目の前の光景に視線を戻した、この時の私の気持ちがわかるだろうか。
眼に映るものが、解除魔法を使う前と何1つ変わっていなかったときの、私の気持ちが。
「…………え?」
迫り来る兵たち。各々武器を手に、幻獣を従えて。そこにあるのは敵意のみ。誰一人動きを止めない。
そんな、どうして。だれも操られてなどいなかったというのか?自らの意思で私を敵と認定し捕まえようとしていると?
読み外した。私は馬鹿か、失敗したときの策が何もないなんて!
私を乗せている九尾の体が揺れた。逃げようとしているのがわかった。しかし九尾は朝から動き続けて消耗している。逃げ切れるだろうか。
敵が雪崩のように迫る。
背後から私を呼ぶ声が聞こえたのはそのときだ。
「耳を塞いで!」
弾かれるように振り返る。赤い女性を視界の端に捉えた。
私が反射的に耳を押さえるが早いか、音がなくなった世界で、一匹の子熊が空に向かって吠えたのを見た。
「その熊の声は生き物の体を痺れされることができる」。そう教えてくれたのは母の攻略本だ。その遠吠えは大気を震わし、兵たちの耳に入り込んで全身に回り、息をのむ間に体の自由を奪った。
「ど、うして」
あなたが、ここに。
唖然として、お礼より先にそう聞いた。
赤い髪をなびかせ佇む彼女の名前はキャラン・ゴウデス。その場を動かず、私を一喝した。
「早くこちらにいらっしゃって!痺れは十数秒しかもちません!」
急いで走り寄る。彼女が今まで隠れていたのであろう茂みの影に引っ張り込まれた。体勢を低くし身を寄せ合うようにして隠れる。九尾は体を縮ませて私の腕の中に収まった。
その直後、間一髪で痺れの効力が切れた。金縛りが解けたかのように一気に空気がほぐれていく。兵たちはみな辺りを見回していた。私たちがどこにいるかわからないようだ。
「痺れている間は意識が飛びますの」
キャランが小さく言った。その横には子熊が足を投げ出して座っている。一度使うとかなり消耗する能力なのかもしれない。
『秋』で見た獰猛な姿とは似ても似つかない今の様子に、思わず「ありがとう」と笑いかけると、「キュイ」と親指を立ててくれた。
「わたくしはルウェイン殿下の軍です。レベッカ様、貴方の陣に偵察隊として派遣されたのですが、偵察隊の残りのお三方があちら側でした。その場では話を合わせて、先程隙を見て身を隠し殿下に連絡をとり、指示を受けてこうして待っていたのです」
私はまた殿下に助けられたのか。
だけど。
「見つかるのは時間の問題ですね」
隠れたとはいえすぐ近くだ。感知の魔法や鼻がきく幻獣でもう間も無く見つかるだろう。
「いたぞ、あそこだ!」
案の定私が囁いてすぐに、敵がわらわらとこちらに向かってきた。今度こそ捕まる。
九尾が私から離れてもとの大きさに戻り、私は短剣を取り出した。キャランは攻撃魔法に長けている。二百人を相手に私一人ではあっという間に押さえ込まれてしまうだろうが、彼女がいるなら戦う意味もあるかもしれない。
しかしそんな私とは裏腹に、キャランの動作は至って落ち着いて緩慢だった。ゆっくり立ち上がり、スカートを軽くはたく。
「私の先程の行動がほんの数十秒の時間稼ぎにしかならないことはわかっています」
私は構えていたナイフを下ろした。不思議な思いでキャランを見つめる。どうしてそんなに落ち着いているのか。戦うそぶりもなく、はるか遠くを見たまま動かない。
まるで、何かを待っているみたいだ。
「けれど殿下はそれで十分だと仰いました。そのほんの数十秒が、あの男が来るために必要なのだ、と」
…………『あの男』?
敵はもはや目と鼻の先だった。
しかしキャランの言葉通り、男は来た。私と敵の間に割り込むようにして突然姿を現した。殿下も使えないはずの転送の魔法だった。
背中がとても広い。背も高く、1つに束ねた髪は茶色だ。燃え盛るたてがみをもった馬に跨り、何より私にとってはどうしようもなく、懐かしい、人だった。
兄さま。
声にならない声で呼んだ。




