31
翌日、食堂でばったり会った殿下は何か言おうと口を開きかけた。私は踵を返して立ち去ることにした。
「レベッカ、待ってくれ」
待てと言われると不思議なことに足は自然と早くなる。急ぎ足になり、早足になり、あっという間に駆け足になった。
殿下は逃げる婦女子を追いかけたりしないはずだ。紳士だからだ。婚約者をベッドに連れ込んでキスはするが、紳士なので。
案の定殿下は追いかけて来ない。代わりに会えば必ず声をかけてくる。眉を下げて、他の人に向ける仏頂面が嘘かと思うほど色んな感情をのせて。
朝は正面玄関も裏口も使わず、一階の部屋の窓から出れば殿下に会うことはない。殿下はそんなこと見越しているかもしれないが。
一階の部屋の主たちは事情も聞かず快く窓を貸してくれた。心なしか生温かい目で見られている気がして少し気になるが、話がわかる人たちで本当に助かる。
ちなみに昨日エミリアは宣言通り一日中離れず私の風邪をきっちり治し、何故か私の部屋に泊まっていった。今朝私と一緒に窓を跨ぎながら「『スパイ映画』みたい」とよくわからないことを言って笑った彼女は大層楽しそうだった。
そんな風にして三日が過ぎた。
その日の殿下はしつこかった。一度強引にでも話し合う必要を感じたのだろう。実のところ私も感じている。殿下の顔を見ると、足が勝手に逃げていくだけで。
「はあ、はあ」
先程、相手に気づいたのは私が先だった。遠くに殿下を見つけたのでそっとその場を離れた。振り返ったら殿下がこちらに向かって来ていて、焦って人のいない方に走ってしまったのは私の落ち度だ。
辿り着いたのは普段はあまり使われていない講堂。
とりあえず中に入ってしまおう、一旦でも殿下をまきたい。
とまあ急いでいたせいで中を確認しなかった。だからって、後ろ手に扉を閉めると同時に他人の胸板に鼻をぶつけるなんて、誰が予想できるだろうか。
「っ!」
「うわっ、ごめんよ大丈夫?」
その硬い胸板は見たことがない男子生徒ものだった。深い森のような髪と瞳。年上のお姉様方に人気のありそうな可愛い系の顔立ちと、逞しい体を併せ持った、紛うことなきイケメンだ。
あれ?やっぱり見覚えがある気がしてきた。どこで見たんだっけ。
まじまじと相手を見ていたら思考が驚きに霧散した。彼が私の目元にそっと触れてきたのだ。
「泣いているの?誰かにいじめられたのなら僕に話してごらん。力になれるかもしれない」
涙目になっている自覚はある。今さっきあなたの鉄壁の胸板、略して鉄板に鼻をぶつけたので。
どうしよう、この人から距離を取ったほうがいいかな。鼻をさすりながら少し考えたけどやめた。彼は純粋に心配してくれているだけだ。表情からそうわかるし、ポケットのクリスティーナも大人しくしている。これはただの親切な人である。
「ご親切にどうもありがとうございます。でも大丈夫なので、」
ご心配なく。そう続けようとした私の頭に、攻略本の一節が降りてきた。
『泣いているの?誰かにいじめられたのなら僕に話してごらん。力になれるかもしれない』
『いいえ、あの、ご親切にどうも…でも大丈夫なので!ご心配なく』
『いいや、泣いている女性を放っておいては男が廃る。そこに座って。僕はオズワルド・セデンという。少し話をしよう』
これは主人公が本来四月に終わらせるはずの出会いイベント。そして彼こそは、五高が一人にして最後の攻略対象、オズワルド・セデン!
入学してからというもの度々名前を目にしていた彼。攻略本には「攻略対象、五高、第2学年、深緑の髪、幻獣は土竜、備考:次期三強との呼び声が高い」とあったような。
この前発表会で見たのに、研究ばかりに目が行ってちゃんと顔を見ていなかったようだ。武器に付加する補助魔法の組み合わせと効果の研究、とても興味深かったです。完成度が高く私より評価が高いのも納得の研究だった。
オズワルドは確か、穏やかで優しいが実は強い正義感を持った人だ。第1学年に妹もいる。
講堂でよく日向ぼっこをしている猫に餌をやるべくここに通っている。四月、エミリアがレベッカに嫌味を言われた後『講堂に行く』を選択すると彼に出会える。私はそもそも嫌味を言っていない。
「でも大丈夫なので――――いいえ、大丈夫じゃないです、あなたの鉄板にぶつけた鼻が痛いです」
とっちらかった思考を経て、結局私にできたのは正直でいることぐらいだった。彼は「それはすまなかった」と言って心配そうに私の鼻の頭に軽く触れた。
吹き飛びそうな勢いで扉が開いて殿下が入ってきたのはちょうどその瞬間のことだった。
***
地を這うような低い声。これが魔王ですと言っても信じる人間は多いに違いない。
少なくとも私は、これは私をオズワルドから隠すように抱きしめる婚約者の声ですと言われても信じない。
「オズワルド……釈明があるなら聞くが」
「えっ?…あ、しまった!ルウェイン、スルタルクのご令嬢は君の婚約者か!」
オズワルドは慌てているようだ。何もなかったと私からも言うべきだろうか。首だけをやっとの思いでぐぐぐと回すと、オズワルドは体を90度に曲げて頭を下げていた。
「許してくれ。君の婚約者だと気づいていなかった。邪な気持ちを抱いていたのではないと誓う。すまなかった。信じてくれ」
私はまた首だけを動かし、私を固く抱きしめている殿下を見上げる。巻き込んで謝らせてしまって申し訳ないと思ったのだ。殿下は表情なくオズワルドの頭を見下ろしていたが、私と視線を合わせて少しした後、諦めたように息をついた。
「わかった。顔を上げてくれオズワルド。お前じゃなかったら何を白々しいと叩き切っていたかもな」
物騒な言葉に驚愕した私を見て、殿下はとってつけたように「冗談だ」と言った。オズワルドがありがとうと手を振りつつ出て行っても、私はまだ殿下に抱きしめられたままだった。ここ最近接触が多くて困る。二人きりになったらまた逃げ出したくなってきた。
「何で逃げる」
殿下はそう言って私の肩に顔を埋める。柔らかい金髪が首に当たってくすぐったい。子供みたいにすねる彼をかわいいと思ったことを素直に認めよう。
「恥ずかしかったので」
とどのつまりそれに尽きる。他に特に意味はない。殿下にされたことが嫌だったわけじゃない。そのことが伝わればいいと思って抱きしめ返した。
「…そうか。俺は」
私の腰に殿下の腕が回った。
「粥が美味かった。ありがとうと伝えたくて」
ああ、あのお粥。どうなっただろうと思っていた。食べてくれたんだ、嬉しい!
感極まって思わず彼の頰に唇を寄せる。続けて「治って良かった」と言おうとしたのに、耳元で囁かれたせいでそれは出来なかった。
「だがその気持ちがどこかにいきそうになったな、ここに男と二人でいるお前を見つけたときは」
…あれ。
流れが不穏だ。ごくりと言葉を飲み込んだ。殿下は私の耳にお返しとばかりにキスをして、ゆるく笑う。
「愛してる、レベッカ。こんな言葉じゃ足りないほど。次に同じようなことをしたらもう外には出られないと思ってくれ」
私はコクコク頷いた。そうしないと今すぐにでもお仕置きが実行されると悟ったことによる、戦略的敗北であったことをここに明記しておく。




