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11月も中旬に差し掛かったある日の朝。女子寮の玄関で一人首をひねった。
「殿下がいない」
実は、朝食を食べて寮の玄関に向かうところから、女子生徒たちの黄色い声が聞こえて、私を見つけた殿下が目元を柔らかくするのを見るまでが、最近の日課だったのだ。道理で今朝は心なしか女子寮の元気がないはずだ。
校舎へ歩き出さずその場で思案した。男子寮まで行ってみようか、と。殿下は今朝何か急用があって来られなかったのかもしれない。でも昨日の帰りは「また明日」と微笑んでくれたではないか。
約束を守るのは人として当たり前。まして相手が婚約者なら尚更だ。…と、理屈をこねる自分を、一方では冷静に見つめる。
認めよう。寂しい、と。
「ひえ」
腹を括って男子寮まで来たら、大きなカラスがいて変な声が出てしまった。
大きさが通常の3倍はある。黒々とした羽が日を浴びてつやつや光っている。クチバシは私を食い殺せそうなほど鋭利だ。しかし同時に途方もなく理知的だった。
幻獣だろう。でも誰の?
攻略本を頭の中でめくり、「ああ」と思い当たってカラスに近づいた。黒い瞳が私を見つめている。舐められないよう見つめ返した。
横を行く男子生徒たちの不審な視線を受け止めつつ十数秒程その状態を続けた頃、カラスは一枚の紙を取り出し、飛び去っていった。
『レベッカ嬢
殿下 風邪 看病して差し上げろ
フリード・ネヘル』
紙、もといフリードからの短すぎる手紙を見て私はあっと声をあげた。
「『季節の変わり目・風邪看病イベント』!」
***
風邪看病イベント――それは学園での風邪大流行に端を発する。あっちで咳が聞こえ、その隣でだれかがくしゃみをし、その向こうで人が発熱により倒れる。今一番倒れたいのは養護教諭で間違いない。
そんなてんてこまいの養護教諭の手伝いで、治癒魔法使いである主人公に攻略対象の看病の任が回ってくるのだ。 『冬』に気を取られすぎて完全に失念していた。レベッカは一切登場しないはずだったのでそれで良かったのだが、シナリオ通りでない展開にはもはや慣れた。
寮の職員に殿下の部屋の場所を教えてもらった。扉の前で一度立ち止まる。深く息を吸う。吐く。吸う。吐く。ドアノブを回した。
「失礼します。レベッカです」
扉に鍵がかっていないのは察せられた。あの無口な従者が主人に気を遣ったのだろう。中に入ると、しんとして返事はない。けれど人の気配はする。
心持ち静かに靴を脱いで上がった。奥の寝室の扉を開けると、ふわりと殿下の匂いが――したかもしれないが、気づかなかったことにした。いつだったか殿下に抱きしめられたときのことを思い出――してない。おっほん、断固、ない。
殿下はベッドで眠っていた。ぴたりと閉じられた目と口。額が少しだけ汗ばんでいる。布団は規則正しく上下しているものの、少し息苦しそうで胸が痛――みそうだったので自分で掴んで落ち着かせた。
あまり勝手に見ないようにして静かに扉を閉めた。そのままキッチンに入る。頼まれて来たんだし勝手に使っても多分大丈夫だろう。
食材を探し始め、お粥を作れそうなことに安堵した。手際よく調理を始める。料理という貴族令嬢らしからぬ特技があるのは、小さい頃から母が教えてくれていたからだ。
攻略本によると、主人公は攻略対象に治癒魔法を使う。そして一日中彼の手を握ってそばにいてあげるという『甘々イベント』である。
看病の役目が回ってくる時点で好感度はかなり高いといえ、発生率の低いイベントだと書いてあったのを思い出した。
つまり、殿下の私への好感度はなかなか高――いのかもしれないが、それは今置いておこう。そもそも私は婚約者なのだから、こういうときに仕えるのも義務の1つである。これは義務、ただの仕事。心の中で呟いて気持ちを鎮める。再び深く息を吸う。吐く。吸う。吐く。
ともかく、私はエミリアではないので、治癒魔法の代わりに普通に看病するしかない。
だけど一つ考えていることがある。これがゲームのイベントで殿下が攻略対象である以上、攻略本に則って会話を進めれば好感度が上がるのでは、ということだ。上げられるものなら上げたいというのが本音だ。
攻略本をポケットから取り出した。最近はいつも持ち歩いている。今回のイベントは前に軽く目を通しただけなのできちんと確認したい。目次の『風邪看病イベント』を参照し、一番好感度が上がる選択肢を目で追う。
『エミリア?』
『養護の先生に頼まれまして、看病に伺いました。あの、勝手してしまってごめんなさい』
『いいや…礼を言う』
『どういたしまして!殿下、体調はどうでしょうか?』
「…うっ」
まだ読み始めたばかりなのに気分が悪くなった。自分の婚約者と親友の仲睦まじい会話を熟読するのは精神衛生上よろしくない。
私は一旦攻略本をしまって粥を火から下ろし、味付けをした。
出来上がった粥を味見して、つい顔を綻ばせ、
「うん、おいしい」
「これは夢か?」
文字通り飛び上がった。
「で、殿下!」
バクバクする心臓を抑えて台所の入り口に目をやる。いつのまに起きたのか彼はそこにしっかりと立っており、こちらを見ていた。顔色も普通だ。
体調は思ったより悪くないのかもしれない。良かった、ほっとした。
「ネヘル様に頼まれまして、看病に伺いました。あの、勝手してしまってごめんなさい」
一語一句間違えずに暗誦した。胸がドキドキする。攻略本をこんな用途で使うのは初めてだ。
しかし返事がない。『ただのしかば――』じゃなかった、焦り始めて母のよくわからない口癖が出てしまった。
殿下はじっとこちらを見つめたまま動かない。私は首をかしげた。そんなに見つめられると、何かおかしかったかと不安になる。
「あの、殿下…?」
何より、殿下の格好が。頰が赤くなってしまった気がして目をそらした。いつもと違ってクシャッと崩れた髪とか、第三ボタンまで開いたラフなシャツとか、そこからのぞく逞しい体とか、滝のように流れる汗とか――――汗?
殿下はいつまで経っても「いいや…礼を言う」と言ってくれない。代わりにゆらりと一歩踏み出し、私に向かって腕を伸ばした。
そして次の瞬間、すごい音をさせて床と一緒になった。
床と一緒に、って待って違うこれは、倒れた!?
「殿下!顔に出ないタイプですか!?」
慌てて肩を貸して立ち上がらせる。触った腕が熱すぎてこちらが目眩がしてくる。風邪だ。もう本当に風邪だ。頼むから最初からもっと風邪っぽい顔をしていてほしい!
非力な私による長身男性の運搬は難航し、やっとのことで殿下をベッドに運ぶことができた。というより正確には、一緒にベッドに倒れこんだ。
ふう、やり遂げた。達成感すら感じつつベッドからどこうとした私を、むしろ意識的に他のことを考えないようにしていた私を、お腹に回された腕が邪魔した。
「!?」
引き寄せるように後ろから抱きしめられる。顔に熱が集まった。必死に逃げ出そうとしてもお腹がホールドされていてびくともしないし、それでも逃げようとしたら脚まで絡みついてきた。
まずい。まずい。まずい!
そのとき、ずっと懸命に殺していた感情が私の中で炸裂した。
は、ははははは恥ずかしい!
婚約者だから看病ってなんだ。こっちは初めて殿下の部屋に入るんだ。好きな人と彼の部屋で二人きりって、どんな顔で看病しろっていうんだ。
わからなさすぎて柄にもなく主人公の真似事までした。シナリオをなぞれば上手くいくんじゃないかと思ったのだ。それなのにもう、すごい!何一つ攻略本通りに進まない!
ともすれば叫びだしそうなほどの羞恥で頭がいっぱいになる。が、急に現実に引き戻された。
熱い息が、背後から私の耳にかけられたのだ。
更なる羞恥に身を震わせる。声も出せず耳を押さえ、あわあわと振り向いた。そしてそれが失敗だったと悟った。
彼は流れるような動作で私を仰向けにひっくり返し、私の手首をベッドに縫い付けて覆いかぶさった。下から見上げた彼の瞳の中に、飢えた獣のごとくギラギラしたものを見て目を瞠った。
「レベッカ」
唇が彼のそれで塞がれた。
「レベッカ」
熱い。吐息と瞳が、体温よりも、火傷しそうなくらいに。
「レベッカ」
彼は私に覆いかぶさったまま、硬直した私をあやすように、頰に、まぶたに、額に、丁寧にキスしていき、また熱っぽく私を呼んで、
「レベッカ」
笑った。
この世で一番愛しい。そう言われているのかと思った。
殿下。
私の返事は彼の口の中に消えていった。
再び落ちてきた口付けをぎこちなく受け入れると、手首から手が離され、代わりに一度ぎゅっと抱きしめられた。身体中彼の匂いに包まれてくらくらする。
殿下は私の後頭部を片手で支え、私と自分の隙間を一切なくすようにして何度もキスをした。
「レベッカ、可愛い」
その瞬間、頰がカッと熱くなり、心臓が一際大きな音で鳴った。
―――今、なんて言われた?
しかし、彼が一度唇を離し、今度は熱い何かが唇を割って私の口内に入ってきたそのとき――――
「くくくクリスティーナ、クリスティーナーーーー!」
ポケットで眠っていた私の幻獣。名前を呼んだ主人に応え、全身から光を発した。
目を開けていられないほどのまばゆい輝きに殿下が呻いた隙を狙い、転がるようにベッドから出て一目散に駆け出した。男子寮を出て女子寮の自分の部屋に着くまで走り続けた。
部屋に入って扉を閉める。ずるずるしゃがみこんだ私をクリスティーナだけが心配していた。荒い息と熱い顔は、しばらく落ち着かなかった。
***
朝も早いというのに、部屋の扉が無遠慮に叩かれている。
「レベッカ様ぁ。エミリアですぅ。開けて下さーい」
申し訳ないがそれはできない。開けたくないわけじゃないが、開けられない。返事をしたくないわけじゃないが、返事ができない。
私にできるのは、脳筋な友人が腕力にものを言わせる前に早く帰りますようにと願うことだけだ。
「昨日は殿下を看病されたそうじゃないですか。実は私も風邪を引いちゃったんです。レベッカ様に看病していただこうと思って来ちゃいましたぁ」
いやほんとに帰って。ここまで来てそれだけ騒げる人間は決して風邪などではない。
本当の風邪というのはもっと恐ろしい。
「あれ…?レベッカ様中で倒れていらっしゃったりしませんよね。心配になって来ました、実力行使に出ますね」
バキィと派手な音がしたのをベッドの中で聞いていた。パタパタと音がして顔をのぞかせたエミリアは、身につけていたマスクと分厚い上着をいい笑顔で脱ぎ捨て、
「レベッカ様のお顔を見たら私の風邪は吹き飛んじゃいました。治癒魔法をかけて一日中手を握ってそばにいて差し上げますから、安心して下さいね」
ベッドで咳き込み喉を枯らした私に、そう言った。
この回は自分ではちょっとだけお気に入りです。
感想等いただけましたらとーっても嬉しいです。
誤字が多くて情けない限りなんですが、前作含め指摘してくださった方々、本当にありがとうございます。




