13
ガン、グシャ。
廊下を歩いていたら突如としてすぐ近くに鉢植えが降った。見上げると、一瞬だが数人の女子生徒が上の階を逃げていくのを見た。
恐怖に勝ったのは驚きである。
「そ、それ、私がやるやつ!」
それ、私がエミリアにやるやつ!
「嘘でしょ?公爵家で王太子の婚約者のあなたに犯罪まがいの嫌がらせって、相手はどんな命知らずの猛者なの?」
とは、その一時間後私に事情を説明されたメリンダの言である。
殿下にはこのことを言わないつもりでいる。余計な仕事を増やしたくないからだ。あの程度のいたずらなら、また何かされても気をつけてさえいれば対応できるので問題ない。スカートに短剣も忍ばせていることだし。ただ、メリンダに危険が及ぶのはいただけない。彼女にはしばらく私から距離を取るように頼んだ。
「嫌よ。我が身可愛さにあなたを一人にしろって言うの?」
そう言ってくれるメリンダは友人の鑑だ。私は幸せ者だ。
「大丈夫よ、一人じゃないわ。エミリアを連れて歩こうと思ってるの」
エミリアなら純粋な戦闘力が下手な男性より高いし、万が一私が怪我した時もすぐに治してくれるだろう。この状況にうってつけである。
しかしそう伝えたとき、メリンダは珍しく言い淀むような様子を見せたのだ。
「あなたには言わないよう口止めされていたんだけど…多分あの子も嫌がらせを受けてるわ。それも随分前から」
理解に数秒を要した。
「ひっ」という小さな叫び声はメリンダのものだ。私を見つめる彼女の顔が血の気をなくしていくのを、怒りで真っ赤に染まった世界で見た。
***
翌日の昼休み。いつも通り廊下を歩いていたとき、良くない気配と視線を感じた。
その瞬間頭上に水の入ったバケツが現れたので、身を翻して躱す。振り返れば後方の柱の影に人が隠れている。首ギリギリを狙ってナイフを投げた。一本、二本、三本。3人の女子生徒。何が起きたのかわからないといった様子で座り込んで、声も出せずに壁に刺さったナイフと私とを見比べていた。
突然の事態にその場は騒然となる。先生も駆けつけたのに、何故動かないんだろう。
まあどうでもいいか。
「あのね。水をかけられそうになっても、鉢植えをぶつけられそうになっても、未遂なら別にいいの。私、小さいことは気にしないわ」
ゆっくりと近づく。
「でも、一つお聞きしたくて。あなたたち―――」
彼女たちの青ざめた顔が目の前に来るところまで。
「エミリアに、何かした?」
いつだって優位なのは笑っている方だ。気持ち悪いほど微笑んでいるであろう私には、ガタガタ震える彼女たちの答えられないという答えが十分だった。
私の胸の中では、昨日からどす黒い感情が泉のようにこんこんと湧き出続けている。
私はその泉に片足をつけていた。私の髪みたいに真っ黒な色をした泉だ。もう2.3歩踏み出して体を投げ出してしまえば、私は『レベッカ』になる。
心のどこかで、そんな自分に自分で失望していた。それでも気持ちは抑えられなかった。
許せない。許せない。
エミリアを傷つけたこの人たちが。それを許した周りが。
何より、友人が一人で戦っていることに気づけなかった、あまつさえ気を遣わせてしまった、自分が。
なけなしの理性で感情を抑えるのをやめながら、思った。どんなに周りの人に優しくしようと。どんなに毎日を楽しく過ごそうと。
悪役令嬢はずっと私の心の中にいたんだな。
心の中の私と現実の私が後戻りできない一歩を踏み出した。
――――踏み出そうと、した。
「レベッカ」
その声は全ての邪を消し飛ばした。
急に視界がひらけて、そこに私の大事な人がいることに気づいた。彼はただいつも通りの優しい顔で、柔らかな声色で、悪役令嬢ではなく彼の婚約者の名前を呼んでいる。
初めて会った日みたいだと思った。あの日も彼は名前を呼んで、『私』を取り戻してくれた。
そしてほら、こんな風に。両腕を大きく広げ私を見つめるのだ。あの日と唯一違うのは、彼を見て私も安心することができるところだろうか。
彼に向かって駆け出し、目の前に来た群青を見てそんな風に思った。
この人は何回私を救えば気が済むんだろう?きっと今この瞬間をもって私の中の悪役令嬢は消えてなくなる。殿下の腕の中で多幸感に包まれたとき、私はそう確信した。
***
自らの婚約者をその腕に抱いたまま、ルウェイン・フアバードンは女子生徒たちに淡々と告げた。
お前たちが何をしたかは知っている。誰に指示されたかも把握している。処罰はスルタルク公爵家と話し合い、追って伝える。フアバードン王家の名の下それまで謹慎処分を言い渡す。
一部始終を見ていた生徒たちの心は一致していた。
それだけなのか、と。
スルタルク公爵家の力の大きさは計り知れないし、狙われたのはスルタルク領の宝石たる彼女だけでない。もう一人、平民といえど稀有な治癒魔法の才能を持った貴重な人間も。
何より彼らは噂に聞いている。王子は婚約者を愛している。
全てを考慮した結果、女子生徒たちはその場で貴族籍を剥奪された上追放されて、一族はみな降格を言い渡されてもおかしくなかった。
しかし王子は言った。己の優しい婚約者は厳罰を望まない。罰よりも、これから先この国への奉仕によって、お前たちが自らの罪を雪ぐことに期待しよう、と。
聴衆は打ち震えた。一切感情的になることなく仇なした者の罪を暴き、その上で許容した王太子とその婚約者。彼らに任せておけばこの国の安泰は約束されたも同然だ。王子とその婚約者への口々の賞賛をもってして一連の事件は幕を閉じた。
***
翌日私に会いに来てくれたエミリアは両目に涙を浮かべていた。
「また助けられちゃいましたね。黙っていてごめんなさい。迷惑をかけたくなかったんです」
そう言ってボロボロ涙を落とした。さすがヒロイン涙も綺麗、なんて感想を浮かべるのはもうやめだ。
「大事な友人を助けられて良かったわ」
目の前で泣いている少女は私の友人だし、それを心配する私も、ただの彼女の友人だった。