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透明猫と三面のサイコロ

作者: 茶内

 江戸中期の藤沢宿場辺りの農民の間で、民棋(みんぎ)と呼ばれる遊戯が行われていたそうだ。


 ルールは囲碁とほとんど同じなのだが、決定的に違うのは自分が打つ時にまずサイコロを振り、出た目の数だけ碁石を動かせるというものだった。


 さすがに四、五、六の目があると差が開き過ぎてしまうので、サイコロの目は一、二、三が二面ずつにされていた。


 そのルールによって、実力が上の相手に対してもサイコロの出目によって勝機があり、その逆も然りだった。



 私がそれに出会ったのは、今から六十五年前の十歳の時だった。


 あの頃は戦後復興期から高度経済成長期に差し掛かった時で、とにかく大人達が忙しそうにしていた。

 

 私たち子供は学校が終わった後は広場に集まって何かしら遊んでいた。



 いつからかは覚えていないが、私たちの広場に紙芝居のおっちゃんが来るようになった。


 おっちゃんは自転車でやって来るとまず拍子木を鳴らして私たちを呼びよせて、始めに水あめやソース煎餅、酢昆布などを販売した。


 みんなが少ないお小遣いを出し合ってそれらを購入すると、そこでようやく紙芝居が始まった。


 その内容はあまり覚えていないが、手書きの絵で描かれたおとぎ話のようなもので、レパートリーは五つぐらいだったと思う。


 後に出稼ぎで他県に行った時に、よその紙芝居は「黄金バット」のようなヒーローものや時代劇、怪談など幅広い演目があったと聞かされて驚いた。


 おっちゃんの紙芝居は新作が入ることもなく五つの話を繰り返し上演した。同じ話を三度も見せられればさすがに飽きる。


「おっちゃん、その話は飽きたよ。別の話が見たいよ」


 子供からの文句におっちゃんは「新しい話なんてねえよ」と悪びれた様子も見せず、「かわりにおめえらに民棋を教えてやる」と言った。


「ミンギてなに?」


 お互い顔を見合わせたが誰も知らない。


 おっちゃんは紙芝居の台の後ろから丸めた紙を出してきた。


 広場の土の上にそれを広げると紙面には縦横に直線が描かれていて、それらは直角に交わって格子状になっていた。


 おっちゃんは紙の横に木箱を二つ置いた。その中には白と黒の石がそれぞれにたくさん入っていて、大きさは親指の爪くらいだ。


「なんだよ、ただの囲碁じゃん」


 私の隣の家に住んでいる二歳上の明夫兄ちゃんが不満の声をあげた。彼はいろんな事を知っていて勉強もよくできた。


 彼の苦情に対しておっちゃんはポケットに手を入れて何かを取り出した。覗き込むとそれは木でできたサイコロだった。


「さぁさぁ、このサイコロが民旗の一番の特徴だ。必ず一人一個持ってないといけない決まりだ。四の五の言わずに買った買った。囲碁よりもよっぽど面白いぞ」


 私が民棋と再会したのは二年前のことだった。同郷の友、(みつ)(おか)()(ぞう)からの電話が始まりだった。


「おう善一か。暇なら俺んちに来ねえか、おもしれえモノが出てきたんだ」


「いったいなんだよ。よっぽどおもしろくないとあんな山奥まで行きたくねえぞ」


「お(めぇ)んちだってクソ山ん中じゃねえか、お茶くらい出してやるからとっとと来い」

 

 士蔵の家は北鎌倉で、私は藤沢市の片瀬目白山に住んでいる。


 モノレールと電車と徒歩で一時間ほどの距離だ。


 私は電話での憎まれ口に反してそそくさと出かける準備を始めた。


 女房に五年前に先立たれ、子供もとっくに独立している。(よわい)七十三、暇に決まっている。


 ※ ※ ※


 北鎌倉駅で降りるとハイキングコースがある山に向かった。


 士蔵の家は山の上だ。平日の昼間にも関わらず、周囲にはたくさんの観光客が歩いている。


 しばらく上り坂を進んで行くと、近くでニャアと鳴き声がした。


 顔を上げると、目の前に一匹の白猫がおり、私を凝視している。首輪はしていないがその毛並みはとにかく美しく、野良には見えない。


 あと数歩でつま先が触れるというところで猫は先を進み、十メートルほどいったところで止まって私に目を向けた。


「なんだ、案内してくれるてるのか?」


 冗談交じりで訊いてみたが猫は鳴きもせずに私のことをじっと見つめて、距離が近くなるとまた先を進んだ。


 猫は私のどこが気に入ったのか、延々とそれを繰り返した。それにしても見れば見るほど綺麗な猫だ。背中の毛が太陽に反射してキラキラと輝いている。


 気づくと士蔵の家の前に辿りついていた。


 士蔵んちの庭に入っていく猫を見ながら呼び鈴を押すと、間もなく士蔵が顔を出した。


「おう、よく来たな。入れ」


 玄関で手土産のお菓子を渡しつつ居間に通されると、部屋の中央に碁盤が置かれていて両端に座布団が置かれている。庭に面した窓が開けられていて心地良い風が頬を()いだ。


「なんだ、おもしろいもんというのは、囲碁か」


 囲碁は好きだったが、少し拍子抜けした。


「まぁ、とにかく座れよ」


 士蔵は言いながら下座の座布団に腰を降ろした。普段はまったく気をつかわない関係だが、私が奴より一歳上なのを忘れずにこういった礼儀だけはきちんとする。


 私が上座に座ったのを確認してから立ち上がって台所に向かい、お茶を入れて戻ってきた。


「まぁ、俺も独り身だし、生前整理とかいうのをしてみたんだ。そしたらこれが出てきた」


 湯飲みが乗った盆を畳の上に置きながらポケットから出したのは、小さなサイコロだった。


「サイコロ?これがどうしたんだ」


「やっぱり覚えていないか。サイコロの目をよく見てみろ」


 言われたとおり手に取って見てみると、奇妙なことに気づいた。


 目が一から三までしかないのだ。正方形だから六面あるのにどうしてかよく見てみると、それぞれの目が二面ずつ配置されていたのだ。


 その時に頭の中で電気が走った。


「ああ!民棋のサイコロか!」


「そうだ、懐かしいだろう。せっかくだからお前とやろうと思ってな。ルールは覚えてるか?」


「覚えてるなにも、打つ前ににサイコロ振るだけだろ。けど俺はそのサイコロは持ってないぞ」


「そんなもん、普通のサイコロを使えばいいんだよ。四五六の目を一二三にすればいいんだ」


 いざ始めると思いの他熱中した。


 囲碁の実力だけで言えば私の方が上だが、サイコロの目に寄って劣勢に立たされたり盛り返したり、もはや運なのか実力なのかよく分からない。最終的に士蔵が勝利した。


「一局打っただけなのに、けっこう疲れたな」


 同感だ。しかし、やはり負けたのは気に入らない。楽しかった分、なおさらだ。


「俺はまだ全然疲れていない。もう一局打つぞ」


「少し休ませてくれ。お茶を入れ直してくる」


 そう言って立ち上がろうとした士蔵の膝に、縁側から入ってきた白猫が飛び乗った。


 先ほどの猫だ。士蔵は抱きかかえて畳に降ろすと不満げにニャアと鳴いた。


「そいつは士蔵の飼い猫か?」


「ああ、三日前に庭で行き倒れていたから、飯を喰わしてやったんだ。そしたら懐いた」


 白猫は士蔵が立ち上がった後の空いた座布団の上で丸くなった。たった三日でこんなに懐くものなのか。もともとどこかの飼い猫だったのだろう。


「しかし綺麗な猫だな。名前つけたのか?」


「ああ、茶色い太いと書いて茶太だ」


「チャタ?」名前を聞いてもう一度猫を見る。やはり毛並みは白だ。


「なぜ白い猫に茶太と名付けたんだ。バカなのか?」


「誰がバカだ。こいつはな、日の光を浴びると金色に輝くんだ」


「それなら(きん)()だろう」


「金太だとキンタマみたいじゃないか。それで茶太にしたんだ」


 金と茶ではまるで違うだろと思ったけどそれ以上は言わないことにした。


「しかしなんでこいつの毛は光るんだ?他の白猫ではこうはならんぞ」


「善一、そいつの毛を近くでよく見てみろ」


 碁盤の横を通って茶太の横に両膝をついて手を伸ばした。茶太は私をチラリと一瞥しただけですんなり触らせてくれた。


 その毛は予想以上にサラサラで柔らかかった。その感想をそのまま士蔵に伝えた。


「そういうことじゃねえ。顔を近づけて、毛の色をよく見てみろ」


 なにを言ってるのだ。近くで見ようが白は白だろうと思いつつ言われたとおりにすると、すぐに士蔵の言ったことの意味が分かった。


「これ、白じゃなくて透明なのか?」


 茶太の毛はナイロン製の糸のようだった。


「そうなんだ。それで光とか反射しやすいのかと思うんだけどな。まぁどうでもいいな」


 飼い主が話をまとめて猫の話は終わりとなった。


 けっきょく民棋はそのあと二局打って、最終的な勝敗は私の一勝二敗だった。


 帰りの電車の中で、今日は良い日になったな、と思った。 


 それから月に一、二回は士蔵と民棋を打つようになった。


 しばらくは私が士蔵の家に行っていたが、あるとき奴が私の家にも来たいと言い出したので、二階の物置部屋から碁盤を引っ張りだした。


 それからは交互にお互いの家を行き来するようになった。


 それにしても不可解なのは、私と士蔵以外に民棋を知っている者が誰もいないということだ。


 近所に住んでいる娘が孫の正人を連れて遊びに来た時にスマホで調べさせたのだが、検索結果は何も無い、と言われた。せっかくなので正人に民棋を教えようとしたが


「これ難しくてよく分からない」と言われて、それでも食い下がったら


「全然おもしろくない、もうやだ」と拒絶された。


 正人は居間の端に座ると、家から持参してきたゲーム機で遊び始めた。一体何をしに来たのか。仕方なく碁盤を片付けていると娘が近づいてきて


「お父さん、ちょっといいかな?話があるんだけど」と真剣な口調で言ってきた。


「なんだ」


「ここではちょっと・・・上の部屋で話せる?」


 先に階段を上がる娘の背中を見ながら何の話をされるのか考えを巡らせるが、嫌な内容しか思い浮かばない。娘の性格を考えたかぎり、最も有力なのは離婚報告か。とりあえず心の準備だけはしておこう。


 二階の和室で向かい合って座り、娘が開口一番で言ったのは


「私ね、パートをしようと思ってるの」だった。


「そんなの、勝手にすればいいじゃないか」


拍子抜けもいいとこだ。


「うん、それでお父さんにお願いなんだけど、私がパートに出てる間、正人の面倒を見てもらうことって出来るかな」


 これが本題か。正人はたしか小学四年生だったか。


「ああ、別に構わんよ。小学校が終わったらうちに来るってことか」


 いや、と娘は首を横に振った。


「朝から見てほしいの。朝ご飯はうちで食べさせるから」


「学校があるだろ?」


 私が真っ当な質問をすると、娘の表情に影がさした気がした。


「正人ね、いま学校に行けてないの。友達といろいろあったみたいで」


「引きこもりってやつか?」


 たまにニュース番組で特集されている社会問題のアレか。


「別に引きこもってるわけじゃないよ、今だってこうしてお父さんちに来てるワケだし」


 眉間にシワを寄せて言い返してきた。こいつは母親になってから一段と気が強くなった気がする。


「とにかく、担任の先生とも話し合って、本人がその気になるまで待とう、てことになったの」


 ムキになって反論してきたかと思ったら急に弱々しい口調になった。どうやら娘もだいぶ追い詰められているようだ。


 パートに出る理由も、一日中子供と家にいるのがしんどいのだろう。


「わかった。勉強なんかは見てやれんが、それでもいいなら連れてきなさい」


 娘の表情が安堵のものになった。「ありがとう、お父さん」


 しかし次の瞬間、すぐに厳しい顔付きに戻った。


「だけど約束して。正人には絶対に『学校へ行け』とか言わないこと。それと不登校になった理由を訊くのダメだからね!」


「わかったわかった」今の時点でかなり疲れた。


 ※ ※ ※


 翌週から、正人はうちに来るようになった。


 朝の九時頃から、娘のパートが終わる夕方までの間だ。


 面倒を見るといっても、正人は午前中は学校から渡されている宿題をやって、後は家から持ってきた携帯型のゲーム機をしているだけなので、昼飯を用意する以外は特に何もすることはなかった。



 そんなある日、士蔵が連絡なしでひょっこり遊びに来た。


「突然悪いな。近くを通ったんで寄ったんだ。忙しいなら帰るぞ」


 居間には孫がいたがどうせ寝っ転がってゲームをしているだけだ。二階に行かせればいい。


「よく来たな、士蔵。孫がいるが気にせず上がってくれ」


「孫?今日は学校は休みなのか?」


「まぁ、な」と曖昧に答えておいた。


 士蔵はプラスチック製の大きめの容器を持っていて、中から猫の声が聞こえた。


「その中、茶太が入ってるのか?」


「ああ、こいつの予防接種の帰りなんだ」


 士蔵を居間に通すと、正人がそれに気づいて慌てて体を起こして正座をした。


「こんにちは」


 士蔵に礼儀正しく挨拶をした。娘はこのへんの教育はしっかりしているようだ。


「はい、こんにちは。ちゃんと挨拶ができて偉いね」


 士蔵がにっこりと笑って返した。すると、士蔵に合わせるようにゲージの中の茶太がニャオンと一鳴きした。


 その途端、正人の顔がパッと明るくなった。


「その中、猫がいるんですか?」


 そう言いながら近づいてゲージ横にある空気を通す隙間から中を覗こうとした。


「なんだ、猫が好きなのか?」


 士蔵の質問に正人はハイ!と元気に答えた。私にとっても初耳だ。こいつの母親は猫が大嫌いだったはずだが。


「それじゃ、ちょっと待ってな」


 士蔵がケージを置いて上蓋を開けた。覗き込んだ正人が「ワア!」と声を上げた。


「すごく綺麗で可愛い!触ってもいいですか?」


「ああ、そいつは大人しいから大丈夫だ。尻尾は嫌がるから触らないようにな」


 飼い猫を褒められてまんざらでもない様子の士蔵が、ケージの中に両手を入れて茶太を抱き上げた。


 茶太は大人しくされるがままになっている。正人が恐る恐る手を伸ばして肩口付近を撫でた。


「すごい、こんな毛並み見たことない・・・」


「こいつの毛はな、透明なんだ」


「透明!?これ白じゃないんですか?」


「ああ、シロクマなんかも白く見えるけど、あいつの毛も透明なんだ」


「そうなんですね!シロクマと同じなんてすごいなぁ。そもそもシロクマの毛が透明なことも知りませんでした」 


 私も知らなかった。おおかた動物病院の先生から聞いた話を使い回したのだろう。正人は士蔵から茶太を受け取って大事そうに抱いている。茶太も嫌がってはなさそうだ。


「君のおじいさんと一局打ちたいんだが、茶太の面倒を見てもらっててもいいかな?」


 士蔵からの提案に正人の目がキラキラした。


「はい、喜んで!この子チャタていうんですね!おじいちゃん、なにかチャタの食べれそうなものない?」


「冷蔵庫に牛乳があるぞ」


「ダメだよ!猫によっては牛乳でお腹を壊しちゃうこともあるんだから!」


 孫に怒られた。士蔵もニヤニヤしながら私を見ている。


「正人くん、茶太はしっかりご飯食べてきたから、大丈夫だよ」


 正人はチャタを連れて二階にあがり、私たちは心置きなく民棋を打った。


 途中、ドタドタと慌てた様子で正人が降りてきたので何事かと思ったら


「チャタ、お日様の光を浴びたらキラキラしてる!すごいよ!」


 興奮した様子で報告してきた。士蔵と茶太が来てくれたおかげで、今日は良い日になった。


 ※ ※ ※


 それから正人は毎日のように「今日は士蔵さん来ないのかな」と訊いてくるようになった。


 お前の目当ては士蔵じゃないだろ。士蔵は私の家に来るときは必ず茶太を連れてくるようになった。


 そして私が士蔵の家に行くときも正人はついてきたがるようになった。


 初めのうちはダメだと言ったが、士蔵からも「正人くんに留守番させてたらお前の家にいる意味ないだろ。連れて来いよ」と言われたので仕方なく条件付きで連れて行くことにした。

 

 条件とは、ゲーム機を持っていかないこと、その日の分の勉強は必ず終わらせること。そして母親には内緒にすること。この三つだった。


 正人は当然と言わんばかりに条件を受け入れて、翌日に士蔵の家に一緒に行った。


 北鎌倉駅を降りて、しんどい山道を登っていると、私よりも先に正人が音をあげた。まだ道半分といったところだ。今の子供はこんなに体力がないのか。


「正人、少し休むか」


 私が提案したところで、少し離れた場所からニャアと鳴き声がした。


「チャタ!?チャタだよね、今の!」


 私より先に正人が反応した。聞こえた方を見ると予想通り茶太が私たちを見つめている。


 チャタ~!とさっきまでへばっていた正人が私を追い抜いて抱きかかえようとしたが、その手をすり抜けて茶太は先を進んでいく。


 ふらつきながらも猫を追っていく孫の後ろ姿を見てると初めて茶太と会った時のことを思い出した。つくづく不思議な猫だ。


 私が士蔵の家に着いた時には正人は縁側に座って麦茶を飲んでいた。茶太の姿はない。


「正人、茶太はどこいった?」


 私の質問に孫は不満げに首を横に振った。


「分かんない、どっか行っちゃった」


 部屋の奥から士蔵がのっそりと出て来た。


「どうやら茶太は女が出来たらしい」


「女!?恋人ってことか?」


「おじいちゃん、恋人じゃなくて恋猫でしょ?」


 孫に訂正された。


「二、三週間くらい前からどこかのメス猫と一緒にいるところを何度か見たんだ」


「まぁ、チャタはイケメンだし、もてるだろうね」


 そういいながらも正人はつまらなそうだ。目当てがいないんだから仕方ないか。


「正人くん、やることないなら仕事を手伝ってくれ」


「はい、何をやるんですか?」


「豆腐をつくる。つくったことあるか?」


「いえ、ありません」


 そんなこと話しながら正人は士蔵と一緒に台所に向かった。


 少ししたら茶太が帰って来て、私を見ると縁台に上がって横で寝そべった。


「茶太、お前は女が出来たんだって?やるじゃねぇか」


 そう言いながらアゴの下をくすぐると、気持ちよさそうに目を細めた。


 ※ ※ ※

 

「え、美味しい!」


 正人が豆腐を食べて目を見開いた。先ほど士蔵と一緒につくっていたものだ。正確に言うと作ったのはゴマ豆腐で、正人はゴマをすり鉢でひたすら砕く作業をしていた。


「正人くんがていねいにゴマをすりつぶしてくれたおかげだよ」


 褒められてまんざらでもない様子の士蔵は、私にも小皿に入れたゴマ豆腐を差し出した。


「お前も喰えよ。孫の手作りだ」


 遠慮せずに受け取って一口食べる。うん、ゴマの香りが口の中から鼻孔を通り抜けていく。


「確かにうまいな」


「今度おじいちゃんちでもこれをつくろうよ!」


 嬉しそうに正人が言った。


 私も「うん、そうしよう」と頷く。


「士蔵さん、他にも何か手伝うことない?」


 そうだな―・・・と言いながら士蔵は腕組みして周囲を見回した。先ほどまで縁側で寝ていた白猫はまたどこかに遊びにいっている。


「それじゃ、茶太の捜索をしてきてくれ。おそらく近くにいるから」


 はぁい!と元気に返事をして縁台から庭に出ていった。この家の庭は山と隣接している。


「士蔵、ありがとな」


 正人が林の中に完全に姿を消してから礼を言った。ちゃんと言うのは初めてだ。


「なに、俺も楽しんでるさ。正人くんはまだ学校に行けないのか?だいぶ明るくなったように見えるが」


 不登校のことは最初に正人と士蔵が会った日の夜に電話で伝えている。


「まだ駄目らしい。その辺の細かいことはあいつの母親が一任してるからな。俺は口出しできないんだ」


「あいつの母親て、お前の娘てことだろう。口出しすればいいじゃねえか」


 士蔵の言うことはもっともだ。私も少し前に正人について話してみたことはある。しかし娘の反応は強烈だった。


「お父さんは何も分かってないんだから口出ししないで!私たち大人が下手なことをしたら、傷付くのは正人なんだから。お父さんはただ正人が学校に行けるようになるまで預かってくれてればいいから」


 あまりの迫力に言い返すことも出来なかったのだ。そんなことを士蔵に話したら笑われるに決まっている。


 私が黙っていたら士蔵はある程度のことは察したようだ。


「まぁ、俺としては孫が出来たみたいで楽しいよ。いつでも連れてきていいからな」


 私は旧友の顔をマジマジと見つめた。士蔵は数年前まで大学の教授をしていて、民俗学の世界ではそこそこ名の知れた存在だったらしい。


 そのわりには一度も結婚をしなかったので、家族を持つということに興味がないのだと思っていた。


「なんだお前。今頃家庭が恋しくなったか。今なら熟年お見合いみたいのがあるだろ」


「バカ言ってんじゃねえよ。今さらそんなこと出来るかよ」


 士蔵が鼻で笑った、その直後だった。


「ぎゃあああああああ!」


 正人の悲鳴だ。林の奥からだ。私と士蔵がほぼ同時に縁台から飛び降りた。


「正人、どうしたぁ!」


 すぐに林の中から正人が飛び出してきた。茶太を両腕で抱えている。


「チャタが、チャタが・・・・」


「茶太がどうした?」


 見たところなんともなさそうだが・・・。


「クモを食べてる!」


 茶太の口元を見ると確かにクッチャクッチャと何かを咀嚼していた。


「そいつは元々野良だから昔の血が騒いだんだろ。気にすることじゃないよ」


 士蔵が笑いながら説明した。ついさっきまで顔面蒼白だったくせに。


「そうなんですか?それならいいけど・・・。とにかくチャタ!気持ち悪いから吐き出して!」


 正人が茶太の口に手を入れて吐き出させた。クモはもう、その形を保っていなかった。


 ※ ※ ※

 

 正人と一緒に士蔵の家に行く日のこと、孫が改まった様子で私に声を掛けてきた。


「おじいちゃん、お話がありまして・・・」


「なんだ?」


「今日の宿題の算数で、どうしても分からないところがあるんだ。教えてほしいんだけど」


 そういえば士蔵の家に行くまでに宿題を終わらせる約束だったな。ちゃんと守っていたのか。


「おう、教えてやろう。どれどれ」


 ・・・まったく分からない。今の小学生はこんなに難しい問題を解いてるのか!?


「おじいちゃん、どうしたの?」


「すまない正人、今日は目の調子が悪くてこんな小さい字は読めん」


 目頭を押さえた。我ながらわざとらしい演技だが正人に疑う様子はない。


「え、そうなの?大丈夫?目痛いの?」


 本気で心配してくれる孫を見て心が痛んだ。


「そんな心配することじゃない。さぁ、士蔵んちに行く準備をしよう」


「宿題は終わらせなくていいの?夕方お母さんにチェックされるんだけど・・・」


 その時に頭の中にひらめきが走った。簡単な方法があったではないか。


「正人、分からないところは士蔵じじいに教えてもらいなさい。あいつはああ見えても大学の先生だったから」


「そうなの?すごい!」


 この日から正人は士蔵に勉強を教えてもらうようになった。正人が言うには士蔵の教えは上手らしく、宿題をするのが楽しくなっていったようだ。



 正人と一緒に士蔵の家に行くようになって一年以上経過した。三人と一匹は変わらず元気だ。


「正人は理解が早いし、もう一学年上の勉強をやらせてもいいんじゃないか?」


 宿題を教え終わって民棋中に士蔵がそんなことを言った。正人は庭で茶太と遊んでいる。


「そうなのか?勉強が出来なくて苛められたのが不登校になった原因かと思っていたんだが」


「まぁ、初めは理解する力が弱いように感じたが、教え方を変えたらすぐに良くなったよ」


「なんだ、それじゃあいつの学校の先生の教え方が悪かったのか」


 そういうことじゃない、と士蔵が顔をしかめる。


「先生は一度に数十人の生徒に勉強を教えなきゃいけないんだ。マニュアル通りの無難な教え方にならざるをえないだろう。一人一人の個別指導なんか出来ないからな」


「お前、学校側の肩を持つんだな」


「これでも元大学教授だからな」そうい言って士蔵はサイコロを振った。


 民棋も勝敗が決したところで休憩となり、庭に目を向ける。茶太が木の枝に登り、正人も登ろうとしている。その様子を眺めながら、士蔵が口を開いた。


「正人は不登校になってからどれくら経つんだ?」


「そうだな・・・もう一年半くらいになるんじゃないか?」


「そろそろ復帰させないとなぁ」


「その話は前にもしただろう。それはあいつの母親が決めることなんだ。俺が口出しすることじゃないんだ」


「しかしお前の娘は正人をお前に丸投げしたじゃねえか。どうしていいか分からなくなって逃げたんだろ?」


 今日の士蔵はやたら喰ってかかる。


「お前、一体どうしたんだ。今日はなんか変だぞ」 

 

 少し強めの口調で言うと士蔵は黙った。反省して口をつぐんだのではなく、何かを考えているようだ。何かを、言うべき否か。


「士蔵、何かあったのか?」


 士蔵が視線を庭に向けた。相変わらず正人は茶太に夢中で、こちらを気にする様子はない。


「善一、俺が民棋のサイコロを見つけた時の話を覚えているか?」


「いや、よく覚えていないんだが・・・」


 二年も前のちょっとした話など覚えているわけない。日頃の物忘れをなんとかしたいと思っているのだから。


「生前整理をしてる時に見つけた、と言ったんだ」


 言われてみればそんなことを言っていた気がする。


「それがなんだ?」


「あの日、お前を呼び出した時、俺は医者に余命二ヶ月を宣告されていたんだ」


 こいつは何を言ってるのか。しかし冗談を言ってる風でもない。


「それ、二年前の話だよな?お前、生きてるじゃないか」


「まぁ、最期まで聞いてくれ。二年前、肝臓に癌が見つかって、すでにあちこちに転移している状態だった。まぁ手遅れってやつだ」


 私は黙って士蔵の話に耳を向ける。


「なっちまったもんは仕方ない。せめて動けるうちにと思って家の中を片付けていたらこいつが出てきたんだ」


 そう言って士蔵は碁盤の上にあったサイコロを拾い、手のひらの上で転がした。


「初めは、ああ懐かしいな、と思って終わりだった。しかしその日の夜、庭の方からうめき声が聞こえた。外に出て見てみると、ボロ雑巾のようになった死にかけの猫が転がっていた」


 言わずもがな茶太のことだろう。


「このまま庭で死なれても気分が悪いし、とりあえず家に入れて毛布をかけてやって、猫が食えそうなモノを近くに置いといたんだ。これで翌朝死んでいたら仕方ない、庭に埋めてやろうと思いながら布団に入った」


 ここで士蔵が一息つくようにお茶に手を伸ばした。私もお茶に口をつける。すっかり冷めていたがかえって飲みやすい。さて、と士蔵が話を再開する。


「善一、お前は夢を見るか?眠った時に見るアレだ」


 急に話が脱線した。


「夢?そりゃあ見ると思うが・・・」


「そうだよな、夢なんて見た認識はあっても、朝起きたら大抵の内容は忘れちまってるもんだ。しかし俺は野良猫を家に入れた日に見た夢の内容を完全に覚えていたんだ。今でも覚えている」


「どんな夢だったんだ」


 私は先を促した。この話の着地点がいまだに分からない。


「この部屋でお前と碁盤を挟んでサイコロを振ったり石を動かしたりしながら、庭を見ると子供と猫が楽しそうに遊んでいる、という夢だ」


「・・・お前、それって」


「そうだ、まさに今、この風景を夢で見たんだ。二年前に」 


 冗談を言ってるようでもない。どんな言葉を返そう、と考えていたら先に士蔵が口を開いた。


「なにを言ってるんだこいつ、て顔をしてるな。もう少しで終わりだから聞いてくれ。そんな夢を見たせいでお前と会いたくなった。子供はよく分からなかったが、お前さえうちに来てくれれば実現できる夢だったからな」


「それであの日、俺に電話をしたのか」


「ああ。お前と久しぶりに会って、何十年ぶりに民棋を打って、死ぬ前に楽しい思いが出来た、と満足したよ」


「それで、病気はどうなったんだ?」一番気になっていることだ。


「それがな、それ以来、癌の進行が止まったんだ。あの日以来ずっとだ。医者も目を丸くしていて、どこかのでかい病院に検査に行くように言われたが断った」


 士蔵はふーっと大きく息を吐いた。話はこれで終わりのようだ。


「夢に出て来た子供というのは・・・」


 私の質問に士蔵が頷く。「正人だった。間違いない」


「一体なんだったんだ、その夢は」


 さぁ、分からねぇけど、と言いながら士蔵は笑った。


「その景色が、俺が最期に見る一番幸せな瞬間だったんじゃねぇかと思うんだ」


「・・・バカ野郎、縁起でもないことを言うんじゃない」


「もともと俺は二年前に死んでるハズなんだ。悔いはねえ。ただ、正人の不登校のことだけが気がかりなんだ」


「正人が心配なら死ぬとか言ってんじゃねえよ。あいつが立ち直るまで面倒を見ろよ」


 そんな話をしながらも庭に目を向けると茶太は木の上に登っていて、下から正人が呼んでいるが降りる気配はない。木の上から、私達をじっと見つめていた。


 ※ ※ ※

 

 正人が母親に連れられて帰ったあとも、ずっと昼間の士蔵の話が頭から離れない。


 寝る前に、我慢出来なくなって士蔵に電話をかけた。コール音が響くだけで出る気配はない。


心配のあまり、今から士蔵の家に行こうかと思った時、受話器から不機嫌そうな声が聞こえた。


『もしもし・・・』


「士蔵か?早く出ろよ!」


『善一か?お前、いま何時だと思ってるんだ!寝てるに決まってるだろ!』


「うるさい!お前が昼に変なことを言ってたから気になって眠れなかったんだ!」


 電話の向こうで士蔵が黙った。


 私も妙なことを口走ったと後から気づく。つい本音が出てしまった。普段なら憎まれ口の一つでも叩いてやるのに。


『・・・それは、悪かった』


 士蔵が素直に謝った。おかげでこちらも素直になれた。


「俺の方こそ、非常識な時間に電話をしてすまなかった」


 その後はお互いに少しだけ話して電話を切った。


 さて寝るかと布団に入ろうとした時、部屋の中が妙に明るいことに気づいた。


 正確にいうと窓の外が明るい。カーテンを開けると、大きな満月が光々と輝いていた。


 不意に、なぜか茶太のことを思い出した。


 太陽の光を浴びて金色に輝くあの猫は、月の光を浴びたらどのように輝くのか。想像したその姿は神々しく、この世の生き物ではないように思えた。



 その日から二日間、士蔵と連絡が取れなくなった。


 三日目に我慢できなくなって正人を家に残して士蔵の家に行った。


 呼び鈴を何度押しても出てくる様子はない。


 部屋の中を覗いてみようと庭にまわると、その異様な光景に目を疑った。


 庭に面した家壁の大部分がえぐられたように崩れていて、まるでトラックに突っ込まれたような状況だ。慌てて中を覗き込んだ。


「士蔵!大丈夫か、士蔵!!」


 出来る限り大声を出したが、家の中は静まりかえっていた。


 ※ ※ ※


 事情聴衆を終えて警察署を出たのは夜九時を過ぎた頃だった。肩と腰がすっかり固まっている。


 あれからすぐに百十番をして交番勤務の警察に来てもらい、家中を確認したが士蔵はどこにもいなかった。しかし居間の畳から多量の血痕が見つかり、すぐに警察本部が呼ばれた。


 テレビで見るような黄色いテープが家の周りに貼られて、私はパトカーに乗せられて車内で質問責めにされた。


 最後に会ったのはいつか、今日は何しに来たのか、最近の士蔵の様子はどうだったか。そして昨夜、夜十一時から深夜二時までの間はどこにいたか、とも訊かれた。


 そんなもん自宅で寝ているに決まっている。正直に全部話して、十時半頃に電話をしたことも伝えた。


 結局その後も警察署に連れて行かれて同じことを何度も訊かれた。ドラマや映画で見た通りだった。


 帰宅して、まず娘に電話を入れた。そうするように言われていたからだ。


「お父さん、大変だったね。大丈夫だった?」


「まだ気持ちの整理はついていないが、大丈夫だ・・・」


「そう。それでお父さん、もう正人の面倒は見なくていいから」


「どういうことだ?」


 先ほどのねぎらいの言葉から一転、娘の声は無機質なものになった。 


「お父さん、正人を事件のあった人のところに連れていってたらしいじゃないの。正人から聞いたわ」


 正人、喋らない約束だったのに・・・!


「ねえお父さん、これって一歩間違っていたら正人も事件に巻き込まれていたかもしれないってことだよね?そんな危ない人んちに連れていってたって、どういうことなの?」


「士蔵は、危ない奴なんかじゃ・・・」


「どう考えても危ないでしょ!さっきニュースでやってたけど、家の壁が壊されていて単独犯じゃできないって言ってたよ?それってヤクザとか危ない人達が関わってたてことだよね?」


 電話の向こうで娘が怒鳴り散らした。いや、もはや発狂している。


「正人の学力が上がったのは士蔵が勉強を教えてくれたからだぞ!」


「そんなことを身の安全と比べないで!」


 娘は勢いそのまま電話を切った。私は友人を失い、孫との時間も断たれた。



 それは士蔵がいなくなってから五日目の出来事だった。


 スーツ姿の若い男が訪ねてきて、胸元から警察手帳を出した。


「藤沢警察署の松木と言います。光岡士蔵さんのことで訊きたいことがあります」


 すぐに居間に通した。事件に進展があったのだろうか。


「いまお茶を入れますので」そう言いながら台所に行こうとすると松木刑事は手で制した。


「結構です。お座りください」


 私が松木刑事の前に座ると、彼は部屋の中を見回した。


「今日はお孫さんはいないのですか?」


「え?」


「確かこちらは日中お孫さんを預かってると聞いていたのですが」


 どこから聞いたのだろうか。それを訊いても素直に教えてはくれないだろうが。


「今はもう預かっていません」


「ああ、そうでしたか。失礼」


 軽く咳払いをしてから、松木刑事は本題に入った。


「民棋というものをご存じですか?」


「え、はい、士蔵・・・光岡とよくやっていました」


 民棋が事件と何か関係あるのだろうか?松木刑事の表情からは何も読み取れない。


「そうですか。それでは民棋の起こりはご存じですか」


「オコリ?」


 一瞬なにを言ってるのか分からなかったが、どうやら起源のことだと判断した。


「ああ、確か、昔どこかの村で、囲碁の実力の差に関係なく楽しめるように考えられたとか」


「違います」


 松木刑事は両断するように首を横に振った。


「民棋は魔物に捧げる生け贄を選定するための儀式だったのです」


 こいつは真顔で何を言ってるんだ。


「いやいや、それは嘘でしょ」


 笑って顔の前で手を振ったが松木刑事の表情は変わらず、鋭い顔つきのままだ。


「いえ、これは紛れもない事実です。その村を統べる(おさ)が大の囲碁好きだった。しかし普通の囲碁の勝敗で生け贄を決めることに飽きてしまった。それでサイコロを振って実力勝負の世界に運を組み込んだのです」


 なんとも気分の悪い話だ。長は人の命をつかって遊んでいるだけではないか。


「そんな伝説があったのですか。それと今回の士蔵の件は関係はあるんですか?」


 関係などあるわけないと思いつつも、この警官がなぜこんな話を持って来たのかが分からなかった。


「この話には続きがあります。民棋を使っての儀式が定着して数年後、村に一人の旅の修行僧が来たそうです。村の人々は修行僧を手厚くもてなした。そこで儀式の話を聞いた修行僧が懐から木の欠片を取り出すとそれを削り始め、あっという間に民棋のサイコロを作り上げた。

 そして満月の夜になると、修行僧自ら魔物の住む森に行き、サイコロに魔物を封印したそうです。そのサイコロはその村の神社に隠されたのです。余談まで言うと、村の長はその数日後に突然発狂して自分でのど元に脇差しを突き刺して死んだそうです」


 これで話しは終わったようで、松木刑事は深く息を吐いた。対して私はかなり苛ついていた。


「だから、それが今回の話とどう繋がりがあるんでしょうか?」


「どうやら光岡士蔵さんが持っていたサイコロが、魔物を封印していたものらしいのです」


「はぁ?」思わず素っ頓狂な声が出てしまった。


「どのような経緯を辿ったのかは分かりませんが、サイコロが光岡士蔵さんの手元に流れ着いた。そして何かの拍子に封印されていた魔物が解放されてしまい、襲われたようなのです」


 よくもまぁこんな話を真顔で出来るものだ。逆に感心してしまう。


「それは、警察が正式に調べて出た結論なんですか?」


 いいえ、と目の前の若い刑事は首を横に振った。


「私が個人的に調べて、出した結果です」


「それじゃ、これは正式な警察官としての任務ではないということなんですね?」


 私の詰問口調に対して松木刑事は動揺する素振りも見せずに「はい」と頷いた。


「警察では今回の事件の真実には辿りつけません。光岡士蔵を殺したのは魔物なのですから」


 こいつは正気なのか?こちらの頭がおかしくなりそうだ。


「それで、なぜそれを私に報告しに来たのですか?」


「サイコロがないのです」


「は?」


「光岡士蔵が民棋に使っていた、魔物が封印されたサイコロです」


「士蔵の家の、どこにもないのか?」


 はい、と松木刑事は頷く。


「彼が最期に会ったのはあなたです。サイコロを渡されたりはしませんでしたか?」


「受け取ってません」


 断言した。しばらく無言のにらみ合いが続いた。先に折れたの松木刑事だった。


「分かりました。ありがとうございました」


 そういって私に頭を下げた。


「これは、私をからかっているわけではないんですよね」


「もちろんです。私はこの事件を必ず終わらせます」


 彼の目の奥に、燃えさかる炎が見えた気がした。



 呼び鈴がなって玄関を開けると、若い女性が立っている。初めて見る顔だ。


「初めまして、(みき)(もと)()()()といいます」


 ぺこりと頭を下げた。ワケも分からず「はぁ」とこちらも頭を下げた。


(しょう)(きょう)大学の学生です」


 士蔵が教授をしていた大学だ。士蔵のことで何か知ってるのだろうか。


「光岡のことについてですか?」


 はい、と幹本さんは頷いた。線の細い綺麗な顔立ちをしている。


 さて困った、客人をこんな玄関先でずっと立たせているのはどうかと思うが、老いたとはいえ一人暮らしの男の家に若い女性を入れるのは問題だ。


 近くのファミレスにでも連れていくべきかと考えていると


「すいません、あつかましいお願いなのですが、中に入れて頂いてもよろしいでしょうか。話は長くなるので」


 彼女から提案してきた。


 ※ ※ ※


「光岡教授はすでに大学を退任されていますが、週に一度、大学の民芸同好会に顔を出していたのです」


「そうなんですか・・・」


 そんなこと士蔵からは聞いた覚えはなかった。


「教授は私たち学生に民棋を教えてくださって、よくみんなと一緒にやっていました。これは日本の歴史の中で()しき儀式だったが、それでも知っておく必要がある、と言って」


「悪しき儀式・・・」


「はい、教授から聞いていませんでしたか?」


「士蔵からは聞いてませんが、その伝説は知っています」


 つい最近聞いたことだ。二日前に来た若い警察官の顔を思い出す。


「そうですか」


 幹本さんはニッコリ笑った。まだ少女なんだな、と思えるあどけない笑顔だ。


「それでお願いなのですが、私と民棋を打って頂けないでしょうか」


「私と?」


 自分の顔を指さして訊くとハイ、と幹本さんは頷いた。


「教授は田畑さんの話をよくしていました。民棋がとてもお強いって」


 そう言いながら彼女はカバンからサイコロを出した。一から六まである普通のサイコロだ。


「私は別に構わないが・・・」


「良かった!では、よろしくお願いします!四、五、六は一、二、三とします!」


 ※ ※ ※


 彼女の民棋の打ち方は士蔵のそれとよく似ていた。それとなく訊いてみると


「教授に教わりましたから」とのことだった。


 結果は幹本さんの勝ちだった。


「・・・まぁ、サイコロの出目が良かっただけですね」


 それでは帰ります、と彼女は立ち上がった。


「田畑さん、また民棋を打ちにきてもいいですか?」


「それは構いませんけど、大学の民芸同好会、でしたっけ、そこでも出来るんじゃないですか」


 いえ、と幹本さんは首を横に振った。


「出来ません。その同好会はわたし一人だけなので」


 ※ ※ ※


 それから幹本小百合は毎日うちに来て民棋を打った。


 一日に一局だけ打ち、終わったら帰る。その繰り返しだ。


 彼女曰く「大学がもう暇なので」とのことだった。勝敗は勝ったり負けたりを繰り返している。もちろん民棋を打ってる時も楽しいが、いつからか彼女との会話も楽しみになっていた。


 彼女は士蔵の話をたくさん聞かせてくれた。


「光岡教授は田畑さんの話をよくしてましたよ」


「どうせ悪口しか言ってないでしょう」


 ふふふ、と幹本さんは含み笑いをした。


「そんなことないですよ。田畑さんのおかげで毎日が楽しいと言ってました」


「本当ですか?」


「ええ、お孫さんまで連れてきてくれて、自分に孫が出来たようだって喜んでいました」


「そうですか」


 正人を連れて行くことを内心迷惑に思っているのではないかと心配していたが、喜んでくれているのならよかった。


「孫も士蔵の家に行くのを本当に楽しみにしていました。士蔵と茶太のおかげで、性格もだいぶ明るくなりましたし」


「正人くん、まだ学校には行けてないんですね」


「はい、・・・え?孫の名前言いましたっけ、私?」


 あまりに自然に正人の名前が出たので一瞬聞き流しそうになった。しかし幹本さんはなんでもないことのように答えた。


「ああ、教授が名前で呼んでいたので」


「そうだったんですか、正人はまだ不登校のままです」


「そうなんですね・・・、今日はいらっしゃらないのですか?」


 彼女の質問に一瞬悩んだが、正直に言うことにした。


「ええ、正人の母親に無断で士蔵の家に連れて行ってたことを今回の事件で知られてしまいまして、うちに預けてはくれなくなったのです」


「そうだったんですか・・・」


 私にどう声をかけるべきか、困ったような表情を見せた。


 ※ ※ ※


 彼女が来始めて三週間になろうとした時だった。


 いつも通り一局打っている最中、幹本さんは碁盤を見つめながらさりげない口調で訊いてきた。


「田畑さん、教授のサイコロをお持ちではないですか?」


 一瞬意味が分からなずに「え?」と聞き返すと彼女も顔を上げたので目が合った。思わず息を呑んだ。


 今までと雰囲気がまるで違う。どう猛な肉食動物に睨まれた気がした。


「教授が使っていたサイコロ、私が譲り受ける約束をしていたのです」


「私は持ってない」


「じゃあ、どこにあるんですか?」


 自分より五十も下の小娘に問い詰められて、思わず目をそらした。


「士蔵の家にあるんじゃないのか?」


 彼女は首を横に振った。


「教授の家にはどこにもありませんでした」


 士蔵の家に探しに行ったのか!?確かに立ち入り禁止はそろそろ解除されている頃だが、まだ解決していないのだから女性一人で行く場所ではない。


「本当に私は持ってない。士蔵の家にないなら警察が回収したんじゃないか?」


 言った後に、刑事もサイコロを探していたことを思い出した。警察も回収していないということなのか。


「・・・分かりました。失礼な態度を取ってしまい、すみませんでした」


 碁盤に額がつきそうなほど頭を下げてから、彼女はゆっくり立ち上がった。


 そのまま玄関に向かっていったので私も慌てて後を追った。幹本さんは玄関を靴を履いてから私に顔を向けた。


「田畑さん、念のために言っておきますが」


 声質も違う。彼女の声に違いないのだが、温度がまったく感じられない。


「万が一、あのサイコロを持っていた場合」


 いったいなんなのか。足がすくんでいる。私は彼女に対して恐怖を感じている。


「近々あなたは死にます」


 そう言い切ると彼女は静かに出て行った。いつの間にか全身から汗が噴き出していた。



 翌日から幹本さんは来なくなった。


 私は一人碁盤の前に座ってこれまでのことを考えていた。


 警察と女子大生、二人が士蔵のサイコロを探している。一体どういうことか。あの二人の口調からすると士蔵の家の中は探し尽くしたようだ。


 そんなことを思っていると呼び鈴が鳴った。


 幹本さんが来たのか。ドアを開けると私はアッと声をあげた。正人がいたのだ。しかも一人で。


「正人、一人で来たのか?」


 正人はうつむいたまま何もしゃべらない。私は腰をかがめて正人と目の高さを合わせた。


「正人、どうした?」


 私の問いかけに正人が顔を上げた。涙でぐっしょり濡れている。


「おじいちゃん、助けて・・・・」


 ※ ※ ※


 とりあえず居間にあげて落ち着くまで待つことにした。


 冷蔵庫を開けるとカルピスが残っていたので氷を入れたコップに入れて正人の前に置き、私も彼の正面に座った。


 しばらくしたら落ち着いてきたので改めて訊いてみた。


「正人、お母さんと何かあったのか?」


 正人は首を横に振った。


「それじゃあどうしたんだ?」


 正人はポケットに手を入れると、何かテーブルの上に置いた。


 それはサイコロだった。どの面を見ても四五六がない。一瞬なんだか分からなかったが、すぐに記憶が繋がった。


「正人、これどこで手に入れたんだ!」


 思わず声が大きくなり、正人がビクンと肩をすくめた。そして再びエッエッと泣き始めた。


「これ、士蔵さんのうちに行った時に拾った・・・」


「いつの話だ?」


「おじいちゃんが警察に連れて行かれた次の日・・・」


「お前、一人で行ったのか!?」


その時はまだ立ち入り禁止にされていて、警察が現場を見て回っていた時だ。


「ごめんなさい、茶太が心配で、裏山から庭に入っていったんだ。そしたら縁側にこれが落ちてて・・・」


 どうりで松木刑事や幹本さんが探しても見つからなかったはずだ。


「正人、これおじいちゃんが預かってもいいか?」


 しかし正人は首を横に振る。両頬から涙が滴り落ちる。


「たぶん駄目だよ、このサイコロ、どこに捨てても僕の元に戻ってくるんだ」


「戻ってくる!?サイコロが?」


 孫はコクリと頷いた。


「これを拾ってから怖い夢を見るようになって、最初は庭の隅に埋めたんだけど・・・」


 翌朝起きると手の中にサイコロがあったという。


「その後にゴミを出す日に生ゴミの中に混ぜて出したんだけど」


 その日の夜も恐ろしい夢を見て目覚めると手の中に戻っていたとのこと。


 とても信じられる話ではないが、どうにかしてやらなければいけない。


「とにかく、これはおじいちゃんが預かるから、お前はこのまま帰りなさい」


 ※ ※ ※

 

 正人が帰った後にテーブルの上に置かれたサイコロをマジマジと見つめた。


 木でつくられているそれは、子供の時に自分も紙芝居屋から買った物と同じモノなのか記憶が一致しない。


 とりあえず松木刑事に連絡をすることにして藤沢警察に電話をかけた。


 これまでの経緯を説明して松木刑事に取り次いでもらうようにお願いすると、彼は外に出ているので折り返し連絡させるとのことだった。


 ほどなくして電話が鳴った。


「藤沢警察署の松木です」


「ああ、先日はどうも」


 士蔵のサイコロは孫が拾っていて、今はうちにあることを簡潔に伝えた。黙って聞いていた松木刑事は私の話が終わった後も黙ったままだ。


「どうしました?松木刑事」


「私がそちらにお伺いした日をもう一度、正確に教えてほしいのですが」


 変なことを訊くな、と思いながらカレンダーを確認する。


 士蔵がいなくなって確か五日目のことだったから三月二日の土曜日だ。それを松木刑事に伝えた。


「今からそちらに伺います」


 それだけ言って彼は電話を切った。様子が変だった。


 一時間ほどしてから呼び鈴が鳴り、玄関のドアを開けると予想通り松木刑事が立っている。


 今回は彼の隣にもう一人、松木刑事よりいくらか歳上の男性もいる。


「松木刑事、わざわざすみません、おあがりください」


 しかし松木刑事は靴を脱ごうとしない。硬い表情で私を見すえている。


「どうかしましたか?」


 問いかけると彼はようやく口を開いた。


「田畑さん、三月二日に来た刑事というのは、私でしたか?」


 質問の意味が分からず「はぁ?」と間の抜けた声を出してしまった。


「この顔の人物が来たかと訊いてるんです」


 松木刑事は自分の顔を指さして同じことを訊いてきた。真剣な表情だ。


「もちろんです」


「警察バッチは提示されましたか?」


 はい、と頷くと松木刑事は自分の顎に手を当てて何やら考え始めた。そして


「では、上がらせていただきます」


 と言いながら靴を脱ぎはじめた。


 ※ ※ ※


「短刀直入に言います。わたしがこの家に来たのは今日が初めてです」


 居間でちゃぶ台を挟んでの第一声がそれだった。


「は?おっしゃってる意味が分からないのですが・・・」


「わたしも、あなたからの伝言を聞いた時は意味が分かりませんでした。その日の記憶がすっぽり抜け落ちてるのです」


「あなたがうちに来た後に、何らかの事情で記憶を失っていたということはありませんか」


 ありえません、と松木刑事は即答した。


「そもそも警察官が一人で行動すること自体あり得ませんから」


 それでも松木刑事はサイコロを受け取ってくれた。士蔵の事件の捜査内容は教えてくれなかったが、あまり進展はしてないようだった。


 ※ ※ ※

 

 翌日、朝から呼び鈴が鳴った。また松木刑事かと思って扉を開けるとそこにいたのは正人だった。今日もうつむいていて表情はよく分からない。


「正人、どうしたんだ」


 正人は訴えかけるような顔で右手のひらを出した。そこには昨日松木刑事に渡したはずのサイコロがあった。細かい傷の位置まで同じだった。


「本当だったのか・・・」


「おじいちゃん、やっぱり戻ってきた・・・明日だって。僕、明日食べられるって・・」


 正人はそのまま泣き崩れた。


 ※ ※ ※

 

 正人の夢の中に出て来た化け物は同じ事を語り続けたという。


『もうすぐじゃ、もうすぐ主を喰ろうてやるからな』と。


 しかし昨夜は『明後日じゃ、やっと月が満ちるわ。やっと主を喰えるわ』と言われたらしい。


「助けて、おじいちゃん・・・」


 正人を抱きしめた。今回の事件の真相を知っていそうな人間は、あと一人いる。


 ※ ※ ※


 私は電車を乗り継いで湘京大学に向かった。幹本小百合と会うためだ。


 彼女の連絡先を聞いてなかったので直接出向くしかなかった。正人も一人になりたくないと言って着いてきた。


 大学はすぐに見つかったが、事務受付の場所が分からない。


 散々迷いながらもなんとか見つけて幹本小百合について訊いてみた。


 しかし事務の受付にいた女性は「個人情報なので」と拒否した。


「頼む、教えてくれ」


 必死に頼んだが頑として教えてくれない。業を煮やして怒鳴りつけたら守衛を呼ばれた。


 こうなったら彼女のことを知ってる人間を捜すしかない。


 その辺を歩いている優しそうな学生に片っ端から話しかけた。かなりの人数に訊いて分かったことは、


・民芸同好会は数年前になくなっている。

・誰も幹本小百合のことを知らない。


 ということだった。

 

 たいした収穫もなく肩を落として帰宅すると、玄関前で正人の母親が待っていた。


 気にしていなかったが時間は午後七時を過ぎていた。娘は怒りを全面に出している。


「お父さん、こんな時間まで正人をどこに連れ回していたの?」


「いや、その、たまには外に出して息抜きを・・・」


「誰もそんなこと頼んでないでしょ!!」


私の言い訳を遮って怒鳴ると、正人の腕を掴んだ。


「正人、帰るよ!今日の分のドリルも全然やってないでしょう!」


 娘が腕を引っ張ると、正人が踏ん張って抵抗した。


「正人!?どうしたの?」


「お母さん、今日はおじいちゃんちに泊まりたい」


 なっ!と娘は分かり易く狼狽した。


「なに言ってるの!そんなの、おじいちゃんにも迷惑でしょうが!」


「私はかまわないよ」


 すかさず言ってやった。娘は私を睨みつけてきた。


「ちょっとお父さん、いい加減にしてよ!」


「いい加減にするのはお前の方だ!」


 娘を怒鳴ったのは何年振りだろうか。


「おまえはいつも自分の感情で物事を進めて、少しは正人の考えを尊重したらどうなんだ!」


 これでも私は昔は近所で名の知れた雷オヤジだった。


 そんな私の一喝を受けて娘は黙り込んだ。昔の父親の姿を思い出しているのかもしれない。


「正人、今日だけだからね」


 そう言って娘は一人で帰っていった。


 正人と顔を見合わせてニヤリと笑いあった。正人の笑顔は久しぶりに見た気がした。


 ※ ※ ※


 寝室に布団を二つ敷いて、それぞれの布団に入った。部屋の電気はつけたままにしてある。


「正人、夢の中に出てきた化け物は、どんな見た目だったか覚えているか?」


 う~ん、と隣でうなり声がする。


「なんか真っ暗い部屋みたいなとこだったからよく見えなかったんだけど、白い毛が生えてた」


「白い毛?」そんなの、思い当たることは一つしかない。正人も分かっているようだ。


「言っておくけど、チャタじゃないからね!」


 布団から体を起こして私を見つめた。睨んでいるつもりなのか。


「分かっているよ。私だって茶太が士蔵を殺したなんて思っていないよ」


 そう言うと正人は布団の中に体を戻した。


「チャタ、どこに行ったんだろ・・・」 


 茶太のことよりも自分の心配をしろ、思いながら最近の出来事を思い返した。


 私と会った記憶を無くしている刑事と正体不明の女子大生、この二人に共通していることは民棋のサイコロを探していたことだ。


 あのサイコロに何があるのだろうか。


 明日は満月だ。以前月の光を浴びた茶太の姿を想像したことがある。


 正人の夢に出て来た化け物は全身に白い毛を生やしていた。正人には悪いが、嫌な想像がどんどん膨らんでいく。


 顔を横に向けると正人はいつの間にか寝息をたてている。体を起こして孫の寝顔を見つめた。


 悪夢は見ていないようで、気持ちよさそうな寝顔だ。


 どうか朝までこの寝顔のままでいてほしい、そう願いながら部屋の電気を消して私も寝る準備をした。


 ※ ※ ※

 

 庭の方から何か聞こえた気がした。目を開けたが暗闇なのでここが現実なのか夢の中なのか判断がつかない。




 ドジャリッ




 先ほどよりハッキリと聞こえた。


 体を起こして辺りを見回す。闇に目が慣れてきたおかげでボンヤリと部屋の様子が見える。正人はまだ眠っているようだ。布団から這い出すと部屋の隅に置いていた木刀を手にして立ち上がる。




 ドジャリッ




 すぐ近くから聞こえた。雨どいを隔てたすぐそこに何かがいる。慌てて正人を起こした。


「正人、起きなさい、早く!」


 正人が目をこすり始めた。


「あれ、お母さんは?」寝ぼけている孫の腕を引いて強引に立ち上がらせた。


「いいか、正人。今すぐ玄関から外に出て、近くのコンビニにいきな――」


 直後、窓がこちらに向かって吹き飛んできた。もの凄い音とガラスの破片が後から舞い散らかる。反射的に正人を抱きしめて背中を向けた。背中に細かい衝撃と痛みが突き刺さった。胸の中で正人が悲鳴を上げた。どういうことだ、来るのは明日ではなかったのか。顔だけ動かして見るとガラスのなくなった窓枠から白い毛に覆われた昆虫のような顔の化け物が覗いている。

 ―――あれは、蜘蛛か!?

 体の部分は見えないが車くらいはありそうだ。化け物はそのまま入ってこようとしたが窓枠に体がつかえて止まる。私の姿を確認した化け物は一度窓枠から顔を抜いて体当たりを始めた。二度、三度、体当たりを繰り返す。家全体が揺れて思わず尻餅をついた。足にまったく力が入らない。かろうじて力が入るのは孫を抱きしめている腕だけだ。壁を壊されるのは時間の問題だ。孫を引っ張って奥の部屋に逃げ込んだ。この部屋にも窓がついている。化け物がいる場所と真逆の位置だ。

「正人、窓から外に逃げろ!」

 孫の背中を押したがその場でへたり込んだ。腰が抜けたらしい。正人を抱えて外に出ようとしたが私も腰が抜けてしまっている。背後では壁を壊す音が続いている。

―――もう駄目だ

 手を合わせて祈った。神様お願いします、私は死んでもかまわないから正人だけは助けてください。士蔵を襲ったのはあの化け物だったか。あれは茶太なのか?隣の部屋から重い音がした。とうとう壁が破壊されたようだ。正人は這いつくばりながら窓の淵まで進んでいる。私が奴の足止めをすれば正人は助かるかもしれない。先ほど手にしていた木刀はどこへやったか。そうだ、正人を抱きしめた際に落としていたんだ。今まさに化け物がいる部屋にだ。この部屋には武器になるようなものは何もない。

 部屋に戻る覚悟をして一度だけ大きく息を吸い込んだ。拾った木刀を化け物の目に突き刺せれば殺せないまでも時間稼ぎにはなるだろう。扉に手をかけた瞬間、体が後ろに吹き飛ばされた。すぐ横で正人の悲鳴が聞こえた。化け物が体当たりで扉まわりの壁ごと壊したらしい。

 ノソリ、と化け物がゆっくり部屋に入ってきた。その全身を初めて見たが、やはり車ほどの大きさがある。横を見ると正人が化け物を見ながらヒッヒッとおかしな声を出している。過呼吸になったようだ。

―――間に合わなかったか。幸恵、すまない。

 娘に詫びながら正人を抱き寄せた。化け物はもう目の前に来ている。諦めて目を閉じた。




・・・何かを重いもの引きずるような音がした。


 目を開けると化け物が後ずさりしている。


 いや、引きずられているのか!?


 化け物の後ろにもう一匹、巨大な何かがいる。それが化け物の体を引っ張っているようだ。


 二匹の化け物はそのまま外に出たようだ。訳も分からず呆然としていると外から化け物のうなり声と激しくぶつかり合うような音が聞こえてきた。


 私は立ち上がると、ふらつきながら部屋の穴を通り抜けて外に出た。恐怖心が麻痺している。先ほど死を覚悟したからか。


 庭では二匹の化け物がお互いの首もとを噛みつき合ったまま転げまわっていた。


 片方は蜘蛛の化け物で、もう片方は巨大な四本足の虎のような姿の化け物だ。


 真っ白い毛に包まれていて月の光を浴びて銀色に輝いている。


 おぞましい姿の蜘蛛とは対照的に美しい姿だ。虎が蜘蛛の首を喰い千切ろうと激しく振り回した。その勢いで虎の首から蜘蛛の顎が離れた。しかし蜘蛛はすぐに虎の前足に噛みついた。


 バリバリメキメキとどちらから出ているか分からない恐ろしい音が辺りに響き渡る。限界がきて私は失神した。


 ※ ※ ※


 闇の中、遠くから「おじいちゃん」と呼ばれた。


 目を開けると正人が私の体を必死に揺さぶっている。体をゆっくり起こしてから孫を抱きしめた。


「正人、無事で本当に良かった・・・」


 それから周囲を見回す。


 涙でにじんで視界が悪いが、ここが庭先だと分かる。辺りはミサイルでも落ちたかのようなひどい状態で家も半壊している。そこで一番大事なことを思い出した。


「化け物はどうなった?」


 正人が庭先の雑木林を指した。


 そこに向かうと徐々に腐敗したような臭いがしてきた。さらに進んだところに巨大な死骸が横たわっていた。


 全身が白く泡状になっていてプチプチと弾けている。吐き気をもよおす状態だ。


 しかし死骸は一つしかない。形状からすると蜘蛛の化け物のようだ。もう一匹はどこにいったのか。


「おじいちゃん!」


 背後で孫が叫んだ。声の方向に行くと正人が木の前で立ちすくんでいる。


 正人の目線の方向に目を向けると、柔らかそうな白い毛に包まれた足が落ちていた。


 普通のサイズの猫の前足だ。正人は恐がる様子もなくそれを拾いあげるとそれをまじまじと見つめて、太陽にかざしたりしている。


「おじいちゃん、この毛、白じゃないよ」


 私も顔を近づける。不思議と怖さや気持ち悪さは感じない。そして孫の言う通り、その毛は白ではなく、透明だった。


 私は正人と一緒にタクシーで士蔵の家に向かった。


 正人は拾った前足をバスタオルに包んで胸に抱えている。


 車内はしばらく無言だったが、先に口を開いたのは正人だった。


「お母さん、おじいちゃんちを見たらどうなるかな」


「・・・発狂するか失神するかのどちらかじゃないか」


 半壊した家も化け物の死骸もそのままにしてきた。


 誰かに見つかり次第大騒ぎになるだろう。しかしそんなことはどうでもよかった。娘だろうと警察だろうと後でいくらでも説明をしてやる。とにかく今は士蔵の家に行くことが最優先だ。


 程なくして士蔵の家に続く山道の入り口に到着した。


 タクシーに支払いをしている間に正人はどんどん山道を登っていく。私もあわてて後を追った。


 二十分ほどで士蔵の家に到着した。


 警察が貼っていた立ち入り禁止の黄色いテープはもう外されている。


 庭にまわればそちら側の壁は壊れたままになっているが、敢えて玄関のインターホンを押した。なんの反応もない。私の行動を正人は不思議そうに見つめている。


「おじいちゃん、庭の方から家に入れるよ?」


「正人、今日は私達の命の恩人に会いに来てるんだ。無礼な振る舞いはしちゃ駄目だ」


 正人は分かったのだか分かってないんだかよく分からない表情をした。


 インターホンは諦めて扉をこぶしでノックした。


「ごめんください」


 すると中から足音が聞こえて、扉が開いた。


「田畑さん、ご無沙汰しています」


 中から出て来たのは幹本小百合だった。


「昨夜わたし達を助けてくれたのは、あなただったんですね」


 私の問いかけに幹本小百合は微笑んだ。その顔は白く儚げで、美しく見えた。


 ※ ※ ※


「昨夜はありがとうございました」


 居間に通された私は、改めて正座をして額を畳につけた。


 隣で正人も見よう見まねで頭を下げている。


「頭を上げて下さい」


 穏やかな口調で幹本は言った。彼女の右腕はヒジから先がなくなっていて、血が滴り落ちている。顔を上げると嫌でもそこに目がいってしまう。孫も同様のようで


「お姉さん、その腕痛くないんですか?」と訊いてしまった。痛いに決まってるだろう。


「一応止血はしてるから大丈夫です、見苦しいものを見せてすみません」


 幹本さんは薄く微笑んだ。彼女の顔を見ながら、私は本題に入っていいものか悩んでいると


「田畑さん、もう気づいているんですよね?私の正体に」


 彼女から切り出した。隣で正人がスウッと息を吸った。


「お姉さん、チャタなんですか・・?」


 孫の質問に幹本さんが頷く。


「前に家に来た警察官も・・・」


「私です。松木刑事にはあの日まる一日ご自宅で眠ってもらい、彼の姿に化けてこちらにうかがいました。幹本さんは湘京大学の卒業生で、一度ここに来たことがありましたので」


「性別関係なく姿を変えれるんですか」


「はい、これでも神の使いですから」


「なぜ、松木刑事の後に幹本さんの姿で来直(きなお)したんですか?私はサイコロは持っていないと言ったのに」


「松木刑事の姿でうかがった時は、あなたが本当は持っているのに嘘を吐いている疑いを払拭できなかったからです。なので幹本さんの姿を借りて再訪しました」


「なぜ彼女の姿に?」


「前に幹本さんがここに来た理由は、士蔵さんに民碁を教わるためでした。その時、士蔵さんは教えながらとても嬉しそうにしていたのです。なのでこの姿なら男性の警戒心を解くことが出来るのかと思いまして」


「それは心外ですな。あんなエロじじいと一緒にしないでもらいたい」


「この姿で民碁を打ってる時、善一さんも同じ表情をしておりましたよ」


「・・・・」


孫よ、そんな目で私を見るな。軽く咳払いをしてから正人に言葉をかけた。


「正人、バスタオルの中身を」


 あ、ハイッと正人がオズオズしながら茶太の右腕が入ったバスタオルを差し出した。


「おねえ・・チャタ、これ」


「ありがとう、正人くん」


 茶太はお礼を言いながら左手で受け取った。このタイミングで意を決して本題に入った。


「私は最初、士蔵を殺したのはあなたなんじゃないかと疑っていました」


 茶太は目を細めた。


「私が殺したようなものです。恩を仇で返すようなことをして、士蔵さんにはなんとお詫びしたらいいのか分かりません」


「話を聞かせてもらえますか」


 私のお願いに茶太は「はい、少し長くなりますが」と断ってから話し始めた。



十一


 私は平安時代、豊前(ぶぜんの)(くに)で祭られていた神に仕える獣神でした。


 任務は人間を苦しめる穢鬼(けがれき)を退治することです。


 ある日のこと、豊前の神から陸奥(むつの)(くに)に行くように命じられました。


 陸奥国に新たな穢鬼が産まれ、そこの神々では太刀打ち出来ないらしいとの話でした。


 私はすぐに陸奥に向かったのですが、対峙した穢鬼は強靱でした。


 何より異常だったのは、本来なら奴らにとって毒である神の発する気を、逆に養分として吸収することでした。


 十日以上戦い続けて退治した時には私も全ての力を使い果たしていました。


 なんとか豊前国に戻ろうとしましたが、途中で力尽きた。獣神は死ぬと消滅します。


 豊前国の神様に思いを馳せながら、私はゆっくりと消滅していきました。


 目が覚ますと、私は見知らぬ人間の男性に抱き上げられていました。


 初めはワケが分からなかったのですが、時間が経つにつれて状況が分かってきました。


 どうやら私は一度は消滅したものの、長い年月を経て猫の姿となって復活したらしいのです。


 この時代の文明は目を疑うほど発展していて、穢鬼はどこにもいない。何よりも人間同士が平等に暮らしているように見えました。


 実際にこの家での生活も、友達が遊びに来たり、その友達の孫も来たりと平和で穏やかなものでした。


 このまま猫として光岡士蔵に飼われ、その生涯を終えてもいいと思えたほどです。


 しかし、そんな(ぬる)いことを考えていたせいで気づかなかったのです。

 

 私に神としての力が戻り始めていたこと、士蔵が持っていたサイコロに陸奥国で戦った穢鬼の子孫が封印されていたこと、そしてそれが私の神の気を吸って少しずつ力を回復していたことを。


 そして満月の夜にそれは起こりました。


 士蔵と一緒に二階の寝室で寝ていた時に不意に全身の毛が逆立って目が覚めました。


―――穢鬼だ!しかも家の中にいる・・! 


 禍々しい妖気を一階の居間から感じました。士蔵はまだ眠っている。今の自分で倒せるだろうか?


しかしそんなことは関係ない、士蔵を助けるためには戦うしかない。私は腹を決めて一気に階段を降りて居間に入りました。


 そこにいたのは巨大な蜘蛛の姿をした穢鬼でした。


 これはかつて私が陸奥国で戦ったものと同じ姿でした。私は力を一気に解放しようとしたその瞬間、後ろから突然抱きしめられました。


 この感触は・・・・!


「茶太ぁ、逃げろ!化け物だ!」


―――士蔵、離してくれ!これでは力を解放できない!


 神力を解放すると私の全身に人間が触れれば即死するほどの強い雷が走ります。


 これでは士蔵を巻き添えにしてしまうので彼の腕の中から抜けようと引っ掻いたり牙を立てたが離してくれません。私を抱きしめたまま玄関に向かって走っていきました。


「茶太、頼むから落ち着いてくれ!」


 それが士蔵の最期の言葉となったのです。


 背後から来た穢鬼に頭を喰われました。士蔵の腕から抜けて応戦しようとしましたが、それよりも早く穢鬼の牙が私の背中に刺さりました。そしてそのまま私の神力を吸いはじめました。


【お前のおかげで外に出ることが出来た。しかしまだ足りん。今宵の満月が沈めば又あのふざけた神具に戻される。お前は今は殺さん。次の満月までに神力を回復させておけ。その時に喰うてやる。ついでにここに来ていたガキも喰おう。甘くて柔らかいガキの肉、楽しみじゃ楽しみじゃ】


 穢鬼はそう言いながら神力を吸い取った私を庭に投げ捨て、士蔵の体をくわえて森の中へ消えていきました。


 私は人間に見つからない森の中までなんとか移動して、ひたすら神力の回復につとめました。

 

 回復と同時に穢鬼を封じ込めていた神具がなんだったのか考えて、そしてそれが士蔵が友人と楽しんでいた遊戯に使うサイコロだと気づいたのです。


十二

「しかし、動けるようになって家の中を探しても、サイコロはどこにも見つからなかった」


 私の言葉に茶太は「その通りです」と頷いた。


「実際は穢鬼を封じ込めたサイコロを手に入れたところで、どうにか出来るわけではありませんでしたが誰もいない場所まで持っていって、そこで満月の夜に出てきたところを殺すつもりでした」


「しかしあの化け物は昨日、つまり満月の前夜に復活しましたが」


「まさか()(もち)(づき)に復活できるほど回復しているとは予想外でした・・」


 それでも目の前にいる神の使いは私と正人の命を救ってくれた。そして茶太にもう一つ伝えることがあった。


「茶太、あなたは士蔵のことを悔やんでいましたけど、あいつは本来なら二年前に不治の病で死んでいるはずだったんです」


 茶太が不思議そうな表情をした。やはり知らなかったようだ。


「しかしあいつはそこから二年も生きた。それはあなたの神力を浴びていたからでしょう。あいつは間違いなくあなたに感謝している。今も、あの世から感謝し続けているはずです」


 茶太はうつむいて、小さな声で「ありがとうございます」と言った。


「茶太、これからは私の家で一緒に暮らそう。正人も喜ぶ」


 隣で静かに聞いていた正人も激しく頷いた。しかし茶太は首を横に振った。


「ありがとうございます。しかし残念ながら私はもう長くはありません」


 気づくと茶太の腹部が真っ赤に染まっていて、それは畳にも広がり始めていた。


「茶太・・・」私は溢れ出す涙を止められなかった。


 不意にすぐ近くで猫の鳴き声が聞こえた。


 縁側に目を向けると、真っ白い子猫が居間に入ってきたところだった。子猫は泣いている正人の膝の上に跳び乗って体を丸めた。正人は突然のことに目を白黒させている。


「これはあなたの・・・?」


「はい、娘です。良かったら私の代わりに、こいつのことをお願いできますか」


 もちろん、と私は頷いた。茶太は満足そうに頷いてからゆっくりと立ち上がった。


「そろそろ時間のようなので、これで失礼させてもらいます」


 茶太、と私は呼び止めた。


「士蔵がいなくなってから、もう出来ないと諦めていた民棋をあなたのおかげで打つことができた。ありがとう、とても楽しかった」 


 茶太は立ち止まったまま、しばらく何か考えている様子だったが、振り向いて笑った。


「大丈夫ですよ、またすぐに、打てますから」


 それが私の見た茶太の最期の姿だった。


 ※ ※ ※


 帰りの山道、正人は子猫を抱きながらずっとうつむいている。


「おじいちゃん、茶太はもう死んじゃうの?」


 どう答えようか散々考えたものの、結局は「そうみたいだな」とだけ言った。


「僕たちをあの蜘蛛から助けようとして・・・?」


 先ほどと同じく「そうみたいだな」としか言えない。正人は声を出して泣き始めた。


「正人、茶太は自分の命と引き替えに、私達を助けてくれたんだ。茶太のためにも、精一杯生きていかなきゃな」


 正人の泣き声が一段と大きくなった。しばらく放っておくと、顔を上げて私を見つめてきた。


「ぼく、明日から学校に行くよ・・。それで学校終わったら毎日おじいちゃんちに寄ってこいつの面倒を見るから!あんなに怖い目にあったんだから、学校なんか全然怖くないよ!」


 子猫がニャオンと一鳴きした。まるでこちらの言葉が分かってるようだ。


 私が正人に何か言おうとしたその時





 急に周辺の空気が変わった。





 森の中の鳥が一斉に飛び立ち、獣たちの悲鳴のような遠吠えが聞こえる。


 何が起きたのかと思った矢先、横の木々がなぎ倒されて巨大な何かが現れた。とんでもない大きさだ。何本も生えてる長い足を動かしてこちらに顔を向けた。複数の目に巨大な牙、蜘蛛の顔に間違いないが昨日のモノとは比較にならないほど大きい。そして内臓の奥まで響くようなうなり声を発した。人の言葉だ。


【お前等は我が子のカタキだ、すぐには喰わん、じっくりジックリいたぶり殺してやる】


 昨日の化け物はこいつの子供だったのか!?咄嗟に正人に向かって叫んだ。

「逃げろ!走るんだ!」

 しかし孫は子猫を抱いたままその場に座り込んでしまった。私は足もとに落ちていた枝を拾うとその切っ先を蜘蛛に向けた。こんなものでどうにかなるとは思えないが、孫を逃がすための時間稼ぎをしなければならない。

不意に、先ほどの茶太の言葉が脳裏に蘇った。


―――大丈夫、民棋はまたすぐに打てますから。


 あれは私の顔に死相が出ていたからか。あの世ですぐに士蔵と茶太に会えるから、なにも心配いらないという意味だったのか。 それなら別にいい、私の命などいくらでも差し出す。その代わり孫だけは、正人だけは助けてください、お願いします、神様―――


 その時、私の横を白い塊がものすごい速さですり抜けていった。

 あれは猫かと思った瞬間、それは高々と飛び上がり、一瞬にして二回りほど膨らんだ。尻尾はさらに倍ほどに伸びて、ものすごい速さで縦回転しながら蜘蛛に突っ込んでいった。丸めた体を軸に回転する尻尾が蜘蛛の顔面に触れた瞬間、黒緑色の液体が周囲に飛び散った。純白の回転体は向きを変えて蜘蛛の首を切り落とした。転がった蜘蛛の頭部は縦一本、真っ二つに切り裂かれていた。


 蜘蛛は悲鳴の一つも発さずに絶命した。


 気づくと転がった頭部の横に、正人よりいくらか年下に見える童女が立っていた。一糸まとわぬ姿で腰からは白い尻尾が生えている。


蜘蛛の体液で黒く染まった負けん気の強そうな顔がこちらを見て二カッと笑った。


「善一さん、言っておくけどあたいの民棋の強さはこんなもんじゃないよ!なんせあたいは豊前国の獣神にして光岡士蔵の飼い猫、茶太様の一人娘なんだからね、早く帰って一局打とう!それと正人!お前にも民棋を一からたたき込んでやる!学校なんかよりよっぽど楽しいから覚悟しておきな!」


 童女の声が森中に響き渡った。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 昔話を読んでいるような面白さと怖さが相まって、独特の魅力を持つお話でした。 山奥での『民棋』を通したエピソードはどこか懐かしく、いつの間にか物語に引き込まれています。そしてその正体が次第に…
[良い点] まだ背筋がぞわぞわとしています。 一瞬その死神のような賽子を押し付け合う作品なのだろうかと思いましたが、この結末も素敵です。 ありがとうございました。
[一言] おもろかった
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