悪行と善行
このところ、悪魔は商売あがったりだった。
悪魔の仕事は、人間の身分不相応な願いを叶えてやり、この世に悪をひろめることだ。だが、悪魔がわざわざそんなことをしなくても、今の世の中、人間が自分で悪をひろめている。国同士の戦争が一段落したと思ったのもつかの間、今度は民族間、宗教間での争いが激しくなり、武力でそれを解決しようとしている。テロも相次いでいる。個人レベルでは、富を得ることが絶対の目標となり、そのためには他人が不幸になってもなんとも思わない人間ばかりになっている。犯罪も激増し、そのやり口も残虐化、巧妙化してきている。これでは悪魔の出る幕などありはしない。
ここにひとりの悪魔がいた。彼は悪魔としての自分のアイデンティティーに悩んでいた。悪をひろめられない悪魔など、存在価値がないに等しい。これから自分はどうすればよいのだろう。
悩んだ末、彼は宗旨替えすることにした。人間が悪を欲しているのならば、その逆の善を世の中にひろめてやる。これこそ自分の生きる道だ。こうして前代未聞、善をひろめる悪魔が誕生したのだった。
悪魔は人間の姿に化け、ある田舎町に降り立った。建築物や人々の服装から、二〇世紀前半のヨーロッパらしいと推測できた。悪魔はどんな時代にもどんな場所にも、神出鬼没だ。
ふと見ると、湖の岸辺に、真剣な表情を浮かべて湖面を見つめる十代後半と思える少年がたたずんでいる。悩みを抱えているようだ。悪魔は声をかけた。
「きみ、こんなところにひとりでどうした。何か悩み事かい」
少年は振り返り、純真さを秘めたまなざしで答えた。
「うん、父が無理矢理にぼくをこの地方の役人にしようとするんだ」
「役人にはなりたくないのかい?」
「うん。ぼくは将来、この地方を出て大都市に行って、何か大きな事を成し遂げたいんだ」
悪魔は思った。この少年の望みをかなえてやろうじゃないか。新たな仕事の第一号だ。
「そうか。なら、わたしにまかせなさい。なんとか手を打ち、きみが地方役人にならずに済むようにしてあげる」
「ありがとう。でも、そんなの無理だよ。父はものすごく頑固なんだ」
「まあ、見ていなさい。そのうちいいことが起きるよ」
悪魔はそう言うと、その場を立ち去った。
しばらくして、少年の父親が病気でこの世を去った。それが悪魔の仕業か、それとも偶然のできごとか、それはわからないが、だいたいの見当はつくというものだ。
時期を見計らい、悪魔は再び少年の前に現れた。
「やあ、なにかいいことがあったかい」
「ああ、あの時のおじさん。実は父が亡くなったんです。悲しいできごとですが、でも、これでぼくは役人にならずに済む。今の学校を出たら、大都市に行って、何か大きな事を成し遂げてみせますよ」
「大きな事って、なんだい? なんなら手伝ってあげるよ」
「まだ決めてません。でも、きっと何か、大きな事をやってみせる。自分自身の手で」
「そうかい。それならわたしは去るよ。元気でな」
悪魔は満足そうに言った。そして去り際に、ふとこんなことを聞いてみた。
「きみ、まだ名前を聞いていなかったが、なんという名だい?」
少年は、初めて会ったときと同じように、純真なまなざしで答えた。
「アドルフ。アドルフ・ヒトラーです」
結局、人助けしようにも、悪魔が善行などできるわけがないのだ。