初夜の終わり
互いに名乗ってから数分後、瑞希とピロはカウンターの方へと戻るのだった。
「イエットー、掃除終わったよー」
「ご苦労様。はいお礼ね」
「やった!」
イエットは二人が戻って来たことに気づくとグラスを拭いている手を止めポケットから銅貨を3枚取り出す。
彼女から銅貨を受け取り嬉しそうに笑うピロ。
そして彼女はいつの間に入れたのだろうか、血液の様に濃い赤色の飲み物が入ったグラスをピロの前に置いた。
ピロは席に着きストローを使ってゴクゴクと飲み始める。
血じゃないだろうな、と瑞希は眉を寄せ話題を変えようと頭の中で思いつく言葉を口に出した。
「何で洗面所を掃除してるのかと思ったら、手伝いだったのね」
「うん、小遣い貰えるからやってるんだ」
「いつもやってくれて助かるわ」
「お前鏡が大嫌いだもんニャ」
「鏡?」
意地悪そうな笑みを浮かべるククロに瑞希は頭の中でクエスチョンマークを立たせ、聞き返した。
「そう。こいつは自分の顔を見ることを嫌ってるんだよ」
「ここは洗面所以外に顔が映る物を置いてないんだよ。ガラスだってどれも自分の顔が映らない様になってたでしょ?」
「ああ、そう言えばそうね」
思い出してみれば確かにドアの上にあった窓ガラスは凹凸状だったしこの部屋に窓と呼べるものは見当たらない。洗面所に行く時もステンドグラスらしき窓くらいしか見ていなかったと、瑞希は頷いた。
「前に客が置いていった手鏡をうっかり見てしまった時があってニャ、その瞬間凄い勢いで床に叩き割って、あれは傑作だったニャあ、ククク」
わざと堪えきれてないかの様に笑い声を漏らすククロにイエットの拳が飛ぶ。
ガン、と良い音が鳴った。
「イテテ、ちょっと笑ったくらいで何故殴る!?」
「別に、何となく」
「クタバレ糞黒猫」
「糞だと。この高貴ニャ僕に向かって糞とは何だ!?」
ククロが前足をカウンターに叩きつけギャーギャー言う中で瑞希は今何時なのかふと腕時計を見る。
時計の針はすでに午前3時を過ぎていてゲッと顔をしかめる。
明日は仕事は無いがまだ聞き込みをしなければいけないので体を休ませなければいけない。
そう思いながら彼女は重い腰を上げた。
「イエットさん、私そろそろ帰らないと」
「あら、もう帰るの?」
「おい、無視すんニャぁ!」
「また明日、来ても良いですか?」
「もちろん。大歓迎よ」
瑞希は彼女らに初めて嬉しそうに笑みを見せると、一礼しドアの方へ向かって行く。
ピロは瑞希を見ると目を逸らして口をモゴモゴさせる。
すると何か決心したのか立ち上がって彼女の方へと走って行った。
「お姉ちゃん。その、明日もし晴れたら昼の町に連れて行ってよ!」
「え?」
「ちょっとピロ、太陽の光を浴びたらどうなるのか分かっているのでしょう?」
「分かってるよ、でも、ボクは昼の世界がどういうものか知りたいよ。ちゃんと日傘だって差すしさ。ね、良いでしょ?」
イエットは左手で右顔半分を覆い溜息をつくと瑞希の方へ申し訳なさそうに眉を下げた顔を向ける。
「瑞希、迷惑かけて悪いんだけど。連れて行ってもらえないかしら。この子は昼がどう言うものか知らなくてね。昼間のヒトの世界に行くことをずっと憧れてたのよ。今のそっちの世界の事は私もククロもよく分からないから貴女に頼む他ないの」
瑞希はイエットの方へとピロの方へと目を泳がせる。
別に断る理由もないとぎこちない動きで頷いた。
「まあ、私は構いません、けど」
「やった、約束だよ!」
ピロは目を輝かせ小指を出す。約束の印だろうと瑞希は解釈し彼の方へ足を進め小指を出した。
そして互いに指を絡ませ、特にピロは彼女よりも強くぎゅっと力を入れる。
彼の本気さが指から伝わるような気がして瑞希はフフと心の中で微笑んだ。
指を交わしてくれたことにピロは満面に笑みを浮かべそっと離す。
「じゃあまた明日ね!」
ピロの声に瑞希は笑いながら片手をあげて返事をすると、店を後にした。
「良いのかい、彼をヒトの世界に出したら何が起こるか……」
「でも、あの子の夢よ。いつまでも縛っておくなんて可哀そうじゃない」
彼らに聞こえないよう小さな声でいつの間にか文句を言わなくなっていたククロとイエットは話す。
ロウソクの火がよく照らされる喫茶の中央に立つピロと違い、薄暗い闇の中で身を潜めるかのような二人の様子はまるで違う世界に居るようだった。
◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖◆◇❖
ーーお姉ちゃん、遊ぼうよ。
少し錆びついた引き出しに詰まっている記憶。
ーーお姉ちゃん、今日も忙しいの?
彼は私の大事な大事な存在。
ーー本当?明日一緒に遊べるの?
彼ってだあれ?
ーー約束だよ、明日絶対一緒に遊ぼうね!
家族ってだあれ?
ガチャリ。
「ただいまー」
灯りひとつ無い家の中。
玄関の音や彼女の声は暗闇の中へ吸い込まれていく。
彼女は今日も一人。
今日も独り。