心温まるバケモノ店主のコーヒー
瑞希は蛇に睨まれた蛙のように、今立っているその場から動くことができなかった。
イエットの右顔の目は瞳孔が細長くまるで夜行性のヘビのようなのだ。
「突っ立ってないで、こっちにいらっしゃい」
「え、あ……」
「イエット、あの子は君の顔が怖くて固まってるのではニャいのだろうか」
「あらそう。じゃ、私はタオルでも持ってくるわ」
イエットと呼ばれる金髪の女性は湯気の立ちこめる真っ白なコーヒーカップをカウンターに置くと、薄く笑いながら奥の部屋へと姿を消した。
黒猫はこちらを見ずに喋る。
「まあ、こちらに来て一杯だけでも飲むと良い」
呼ばれるがまま瑞希は冷え切った身体をカウンターの方へ持って行き、席に着いた。
コーヒーカップの中の黒茶色の液体を少し眺めると、黒猫の方を見る。
「さあ、どうしたの。飲みニャよ。一口も飲まニャいとイエット、怒るよ」
ニタニタ笑う黒猫に瑞希はムッと口を軽くへの字に曲げる。
何の迷いもなさそうにカップを口へ近づけ、ゴクリと飲んだ。
なんとも不思議な感覚が彼女を包み込んだ。
先ほどまで恐怖と不安で冷え切った身体を暖められた感覚だ。
「魔法みたい」
「ハハ、そこらのコーヒーとちょっと違うだろう」
黒猫は喉の中でクツクツ笑う。
カウンターからぶら下がっている尻尾をゆらゆら揺らしながら優雅に伏せていた。
瑞希は一度口を開け、閉じる。
そしてもう一度、口を開けて黒猫に話しかけた。
「黒猫さんは、喋るんだね」
「黒猫さんはよしてくれよ。僕にはククロと言うダンディーで渋い名前がある」
ククロと名乗った黒猫はふふんと得意げそうに背筋を伸ばす。
尻尾をゆらりと丸めて、エメラルドのような深い緑色の目を向ける。
「驚かニャいのかい、猫が喋っていると言うのに」
「こんな世の中だもん。今更猫が喋ったって騒がないわよ」
「ふん、変ニャ奴が来たもんだ」
そうやり取りをしているうちにイエットは奥の部屋から出てくる。
手に持つバスタオルを瑞希の方へ差し出した。
「ほら、雨で濡れたでしょう。拭くと良いわよ」
「ど、どうも」
瑞希はどうしてか先ほどより彼女の顔が怖いとは思わない。
コーヒーを飲んでから自分でも驚くほどに落ち着いていたのだ。
そんなことを考えながら瑞希はバスタオルを受け取りまだ乾かない藍色の上着と灰色のジーパンの裾をごしごし拭いた。
「そう言えばお嬢ちゃんの名前、まだ聞いてニャかったね」
「鷹森 瑞希。ジャーナリストをやってる」
「じゃーニャりすと?」
ククロが首をかしげる。
猫にはジャーナリストという仕事に縁はないのだろうか。
「事件を追いかけるヒトの職業、だったかしら?」
「ええまあ、そんなところです」
「ふーん。お嬢ちゃん事件追いかけてるの」
「『お嬢ちゃん』って呼び方は止めてもらえないかな。それに名前教えたでしょ」
「ふん、黒猫呼ばわりしたお返しだよ。我慢しニャよ、お嬢ちゃん?」
「その呼び方はヒトの世界ではセクハラよ、ククロ」
呆れた表情でイエットは腰に手を置いて指摘するが、ククロはそっぽを向く。
『はいはい、分かっていますよー』とでも言ってるかのような顔だ。
ため息を吐くと彼女は眼だけを瑞希の方へ動かした。
「悪いわね、この馬鹿猫セクハラばかり言うのよ。それで注意しても『猫にヒトの常識ニャんて必要無い』って気取ってねぇ」
「ぷっ」
希薄な笑顔で少し大袈裟そうにククロの真似をするイエットに瑞希は思わず吹き出す。
まだ話してから少ししか経っていないが彼の口調がよく似ているところが面白いと思ったのだ。
「ぜんぜん似てニャい。へたくそ」
「なら貴方がセクハラをしなければいいのよ」
「僕がいつセクハラをしたって言うんだい」
「酔っぱらった勢いでいつも私に『顔面お化け』とか言ってるじゃないのさ」
「おやおや、君に対してセクハラしていたって言うのかい。900歳過ぎの婆さんにセクハラもクソも」
ドゴッ、と鈍い音がジャズの音楽の中で鳴り響いた。
イエットの突然のげんこつにククロは頭を抱え蹲る。
彼女の握りこぶしはまだ殴りたりなさそうにわなわなと震えている。
「え、きゅ、900って……」
彼女らの会話を聞いて驚きを隠せない瑞希は思わず口に出してしまう。
「き、きっと空耳よ。この顔で、900なんて、そんな訳が、な、ないじゃない」
「私ハ932歳。ひとヲ辞メテカラ姿形ガ変ワラナクナッタノヨォ!」
動揺を見せるイエットをよそに右半分の顔が突然しゃべりだす。
同じ生き物とは思えない口の動きで高いのか低いのかもわからない声で大きく叫んだのだ。
ヒヒヒと笑う化け物の顔がどうも気味悪い。
「え、なに」
「あいつは嘘を言うと右の顔が本音をしゃべるんだよ」
いきなりのことに何が起こったのか把握しきれていない瑞希に助け舟を出すかのようにククロは絞り出すかのような小さい声でこっそりと話す。
店主も猫も、おかしな奴ばかりだと瑞希は心の中でため息を吐くのだった。