5 顔を覗かせる疑念
数年越しの電話から、一ヶ月が経って。
息子が来た。俺たちが畑仕事から帰って一休みしていた、午後0時過ぎくらいだったかな。自家用車で家の前に乗り付けて来た。
『今日そちらに行く』とだけ事前に留守電に連絡が来ていたから、慌てるってことはなかったな。応対に出た俺は、装いだけでも平静を保った。怒りなんて今さら感じなかったが、気まずさで一刻も早く逃げ出してしまいたかったよ。
『あの子は……』
息子は真っ先にそう問うた。
『元父親を訪れて開口一番、それか。ずいぶんな挨拶だな』
『ちゃんとやれてるのか。とりあえずその確認をさせてほしい』
『……ちょうど、居間で茶を飲んでいる』
『良かった』
確執はまだ消えそうにないなと、確信にも似た思いをあの時の俺は抱いた。同時に少し、悲しくなったもんだ。
電話口とは違って、俺と息子は近況を簡単に報告し合った。奴は小平市の市役所福祉課に勤めていると言った。さぞかし安定していて、特別きつい役職の少ない職場なんだろうな──なんて真っ先に思ったものだ。無論、自分と比較してだが。
俺もごく簡単に、俺の生活の報告をした。怪我も病気もせず、東京の片田舎で晴耕雨読な生活を送ってますよ、ってな。
その辺りのやり取りを、お前はきっと知らないだろう。急に雲行きが怪しくなって、お前は洗濯物を取り込もうと外に走り出していたからな。
そんなお前を、奴は熱心に眺めていたよ。こっちが不審に思うほど熱心に。
『何が気になるんだ、そんなに』
『いや……』
『そもそもお前、俺に何の相談もなしにいきなりルームメイドを送り込むとは、いったいどういう了見をしているんだ? お前の口からはまだ、ルームメイドが充てられた理由を聞いていないぞ』
ずっと聞いてみたかったことを口にしたら、息子の顔が少しばかり、強張った。
『ほ、ほら、親父ももう六十二歳だろ? こんな山地に暮らしてるんだからいつ転んだりするかも分からないし、都民限定の無償サービスだから大事を取って』
『だから、そこで何で一言、事前に言ってくれなかったんだと──』
『宮本彩が、いや……ルームメイドがいて、親父には何か不都合でもあるのか』
『そりゃ、ないが』
『助かってる面だって、現にきっとあるだろ? なら、いいじゃないか』
『そういう問題じゃないと言っているんだ!』
つい昔の勢いが出ちまって、俺は机をぶん殴った。お前が洗濯物を持って入って来ようとしたのは、あの時だったよな。廊下に衣類が落ちる音、俺の耳にも聞こえてたよ。
やっぱりこういう態度を取っちまうんだな、俺。思い出したくなかった懐かしさと軽い絶望で独りうつむく俺に、息子も小さくなりながら、でもはっきりと言った。
『親父、もうそういうの、やめようぜ。おれだって親父が心配だったから、こういうやり方をしただけだ。親父はいつだって意地ばかり張って、自分の苦労とか危険なんてこれっぽっちも省みないじゃないか。ルームメイドだって悪くないだろ。だったら、今のままでいいじゃないか』
──気付いてたのか。
それもまた、俺を驚かせた要素の一つだった。
俺は家に仕事こそ持ち込んだが、職場の苦労や愚痴は絶対に持ち込まなかったのに。要らない心配をさせないように、気苦労をさせないように、って。それの是非はこの際、どうでもいい。
ただ俺は、息子にそれを悟られる隙を与えてしまっていたんだな。驚きと後悔が、心を少し刺した。
でもな。
俺にはその言葉が、素直に相手を説得するためのもののようには感じられなかったんだよ。
なんだろうな。こう、相手の琴線にわざと触れて、そこに生じた何かの裏に別のものを隠そうとしているみたいに思えた。
こいつは一体、何を考えているんだ。不審に思う気持ちが頂点に達した俺は、やっと部屋に入ってきたお前の前で、息子に聞いたよな。
『……そうだな、やめておくか。とりあえず先に約束の品質保証書を出してもらおうか』
息子は明らかに、動揺していた。
それなんだけど、と奴が言葉を発した時点で、何となく俺はその先を察したよ。我慢して聞いていたら、奴は想像通りのことを言いやがった。
『ごめん。それ、今日は持ってきてないんだ』
……そこから先は、俺が何を怒鳴って奴がどう弁解したのか、よくは覚えていない。
忘れてきた、とか次は持ってくるから、とかごちゃごちゃと述べていたような気もするが。何にせよ今度こそ、俺の怒りは爆発した。今度ばかりは爆発しない道理がないと思わんか、彩?
もちろんただ単に忘れただけだったのかもしれん。ただ、あのタイミングでああいうミスをやらかした奴が、俺には何かを隠していることの裏付けのようにしか思えなかったんだよ。
息子は結局、二時間も滞在しないでそそくさと帰っていった。
お前は気がついていたのか分からんが、その間ずっと奴はお前を横目で観察し続けていた。歯切れはどんどん悪くなるし、よくよく聞いてりゃ前の説明とも齟齬が生じていたり、様子がおかしかったのは誰の目にも明白だった。
その日はもう遅くなっちまったから、お前も町へは下りなかった。バスももう無かったしな。
洗濯物をきれいに畳むお前を見ながら、ない知恵を絞って考えたんだ。息子が嘘をつくとしたら、何のためだ? 誰のためだ? 少なくともその相手は、俺に関与する誰かのはずだが。
まさか、とは思ったがな。真っ先にお前を疑ったよ。
例えば──彩が本当は何らかの特殊な事情を抱えるルームメイドで、息子はそれを俺に知らさないようにしている、とかな。
冷静になりさえすれば、お前が妙である証拠はけっこう見当たった。介護ロボットのくせに、小さい子のいる家庭を遠ざけたがること。火を怖がること。それがお前の抱える『特殊な事情』で説明できるのかどうかは分からんが、そうでなければ説明できないのもまた、確かだからな……。
『……ま、俺の考えすぎだろう』
その日はそう言って、笑って寝床についた。
でもな。人間、心の中に飼う不審の虫をいつまでも匿い続けることはできねえもんなんだ。
次の日から、あちこち気になることが出始めた。
まず、テレビで子持ちの家族が登場するたびにお前が姿をくらませること。
覚えているか、彩。息子が来た次の日、仲の良さそうな大家族がテレビに映ったのを見て普段通りにお前が逃げ出した時、俺もお前を追いかけて同じ部屋に入っただろう。まぁ、部屋の中の箪笥からタオルケットを引っ張り出すのが目的だったんだが、俺はあの時聞いたよな。部屋の真ん中にぺたんと腰を下ろして、なぜか正座していたお前に。
『……そろそろ教えろよ、彩。なんでお前はそう毎回毎回、テレビにああいうもんが映ると逃げようとするんだ?』
お前の返事は、お前とも思えないほど掠れていた。
『……仕様です。しばらく放置してくだされば、回復します』
『いや、別に困らんがな。ただ不思議なんだよ。だいたい介護用ロボットにしては、どうにも不自然だろ』
『私にはどうしようもないんです。……仕様、なので』
『なら東野重工に──』
『仕様ですっ!』
見たことのない剣幕に、俺は完全に呑まれて返す言葉を失った。
もっとも、見たことのある剣幕でも返せなかっただろうがな。修理に必要な肝心の保証書、俺は持っていないんだから。
他にもな、検証する気にはならなくても気にはなり続けていることなんぞ、たくさんあったんだぞ。IHを導入してから台所で火を使わなくなったとは言え、野焼きの煙がどこからか上がるたびにお前は怯えた目をしていたよな。一度、市街地の方で火事があって、その横を俺たちがトラックで通過した時なんて、お前は狭い助手席の中で縮こまって震え始めるし。
不都合はない。だが、確かに何かが、おかしい。
その程度のことしか俺には分からんかった。でも、その程度のことも昔は気に留めなかったのに、今は胸の奥でこんなに違和感が暴れ回る。
とは言え、その違和感が解消されなくても、今まで通りの生活が送れるであろうことに変わりはなかった。だから、俺も努めて気にしないようにしたのさ。
坂本から申し出があったのは、ちょうどそんな時だった。
夕方、バスに乗り合わせた坂本と俺とで、いつものように話をしていた折だったと思う。
『ところで長井さん、ピクニックって行かれます?』
『ぴ、ピクニック?』
『僕の母が今度、こっちへ遊びに来るんですよ。なんでも山菜やキノコを採りに山に入ってみたいそうで、長井さんたちも誘ったらと言われているんです』
坂本はどうやら、俺とお前のことを母親にも語っていたらしかった。
『俺と……彩もか』
『うちのルームメイドの子も来るんです。ぜひご一緒したいと、ルームメイドの方も言ってるそうで』
『へぇ……』
『彩ちゃんにも聞いてあげてくださいね? ルームメイドとは言え、若い子を相手にできるとなると母も喜ぶと思うんですよー』
いいお返事待ってますよー、と朗らかに笑って奴はバスを降りていった。奴の笑いは何というか、憎めん。
俺たちに固定スケジュールはない。野菜の世話はせにゃならんが、厳密に毎日というわけでもないからな。野菜ってのはたくましいもんでな、まだお前が来る前、俺が風邪をこじらせて一週間寝ていた時も、まるで手入れもしていなかったのにちゃんと畑で大人しく育ってたことがある。台風の季節だったからダメにならないかと心配していたんだが、改めて自然の力なるものを思い知った。それに引き換え人間はどうだ、なんて自嘲してみたりしてな……。
ま、ともかく、少しくらいサボってしまっても大丈夫ということだ。それを前提にして、俺はお前に聞いたはずだ。ピクニックに行きたいかどうかと。
確か、ルームメイドも一緒だと話した途端に、お前は少し顔を曇らせたよな。だが最終的には、うなずいた。そんでもって俺は、参加すると返事をしたわけだ。
当日、坂本一家は松尾の集落から車に乗って、ここまで登ってきた。
初めてお目にかかる、坂本の実母。そして、お前以外のルームメイド。俺もお前も、少し緊張していたっけな。どうでもいいが坂本の母親は若くして坂本を産んでいてな、だから母親と俺の年齢はそこまで離れてもいなかったらしい。
ちょっと背中の丸くなった母親がまず降りてきて、にこやかに会釈した。そしてその後ろについて、坂本家のルームメイドが出てきた。
いや……こう言ってはなんだが、お前とのあまりの落差に驚かされたよ、俺は。
服装は市街の方で見かけるような女の子と大差ないが、問題は顔だ。太陽の光を浴びて少し透けた瞳の中は、思わずぞっとするほど暗いんだ。ルームメイドの黒目部分に高感度カメラが搭載されているのは知っていたのに、それはお前では決して感じなかった違和感だった。
でもって、身体の動きもギクシャクしている感が否めん。いや、基本は人間の動き方になっているわけなんだが、意味もなく足をぶらつかせたりとか、そういう不必要な運動が一切見られないのさ。
呆気に取られていたんだろうな、俺は。そんな俺たちにルームメイドはにっこりと笑って、名乗った。
『初めまして。個体識別登録番号M-0525、【ルームメイド】岩井晴です。今日はよろしくお願いしますね』
『……な、長井です』
『てぃ、T-0421、【ルームメイド】宮本彩……です』
呆気に取られていたのはお前も同じみたいだったな。