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4 胸に抱えた、過去の苦しみ




 昔はな、俺も大半の都民と同じように、平野の都市部に住んでいたんだ。

 俺の出生地は東京都小平市だ。本籍地も息子の家も、実は未だにあそこにある。そもそも今あいつが暮らしている家は、もとは俺の生家なんだ。

 俺は東京で生まれ、東京で育った。そんな俺にとって、利便性も上手い付き合い方も分かりきっていたこの東京で長い大人時代を過ごすであろうことは、初めからほとんど既定の事実に等しかった。

 安定志向があったわけじゃない。ただ、それこそ時と流れるまま足の向くままに、それなりに名のある私立大学を卒業して、人並みに起業に就職した俺は、二十四歳で妻と出逢って結婚した。無事に息子も産まれた。

 誰がどう見たって、俺の人生は順風満帆。文句のつけようがないほど真っ当だったと思う。


 それが突然、三十代に差し掛かった頃、足元から瓦解を始めた。


 管理職に昇進した俺は、急増した仕事に埋もれる日々を送るようになった。三年前に担当する仕事を増やしたその部署は、抱える職員も資料も案件も莫大だった。

 聞けば、前任者はそのあまりのつらさに辟易して、依願退職でこの会社を辞めていったんだそうだ。そいつは後に起業して成功したらしいが、残念ながら凡庸な俺にそんな芸当はできん。ただ実直に、生真面目に、仕事に向き合った。上司からのクレームや嫌味も、部下からの苦情や不満も、着実に増えていった。

 家に残業を持ち込むようになって、家族からの距離も遠くなった。息子の学校行事に足を運んだことなんぞ、一度もなかった。旅行の記憶もない。行ったような気はするが、たぶん仕事のことばかり考えていたんだろう。

 それでもあらゆる物を犠牲にして、俺は与えられた職務を続けた。それ以外に、俺のアイデンティティなんて何もなかった。最後の方は亡霊みたいなもんだっただろうな、俺も。


 毎日、毎日。時間はバカみたいにすいすい流れて、目の前にはやるべきことばかりが積み上がっていく。

 人の顔を見るのが嫌になった。すぐに相手の心情を勘繰ろうとしたり、ちょっとした所作にびくついたりする自分がひどく醜くて、分かっていてもそんな現状を変えられない自分はさらに嫌いだった。

 こんなに人間がいるから、こんなに仕事があるから、俺はこんなに苦しむんだ。いっそ何もかも投げ出して、誰にも会わない、何も見ないで済む場所に逃げ込みたい。──そんな風に現実逃避する日が来ることになろうとは、入社当時は思ってもみなかったよ。


 俺への不満が臨界を突破した妻は、離婚を迫ってきた。俺はあっさりと離婚を認めたが、そもそも認める以外の選択肢なんぞ、俺にはとうの昔に存在しなかった。

 受験勉強で精神的に参っていた息子は、俺と何度も本気の喧嘩をした。そこから得られるモノなんて何もないまま、息子は離婚騒動を機に妻の側につき、大学へ進学、公務員に就職した。

 そうして、家族は俺の心から剥がれ落ちていった。

 会社は五十七歳で辞めた。後任者もなかなか苦しんでいるらしいと、風の便りで聞いた。そら見たことか、としか思わんがな。冷徹だと思ってくれてもいい。俺はそういう人間だ。

 依願退職の形を取ったが、退職金はそれなりにあった。給料だけは無駄に高かったから、離婚の時に金を取られても貯金だけで三年は優に暮らせた。

 そうして、会社は、仕事は、俺の人生から溶け落ちていった。

 思い出の品とか何とか、過去を彷彿とさせる代物は全てガソリンをかけて燃やした。俺に関する物はほとんど何もかもゴミにして、俺は家を出た。日の出町の山奥に買った倒壊寸前の廃屋に、転居するために。

 小平市が回収した俺のゴミが、焼却されて日の出町内の廃棄物処分場に到着するのが先か。それとも俺が同じ町内の新居に引っ越すのが先か。これじゃまるで俺までゴミみたいだな。そんな下らないことを考えながら、俺は次第に人工物の少なくなっていく景色の中を走った。

 人影や照明が乏しくなっていくのに連動するように、心は軽くなった。引っ越しで心機一転っていうのはこういうことなんだな、と素直に納得した。

 そうして、故郷は、東京の街並みは、俺の記憶から消え落ちていった。


 俺は、都会の人間が嫌いだ。自分も含めて、今でも嫌いだ。

 いくら立派な建前を並べ立てても、結局は少し先の未来しか見通せないし、自分のことしか考えられない。近視眼的で、自己中で、心が狭い。

 だが、それはきっと都会人の(さが)なんだろうと思う。東京ほどに人間が集まっている場所は、日本には他にない。互いに競い合い、蹴落とし合わなければ生存できないように、このまちは出来ているんだ。

 長く住んできた都市だ、そんな風土だということも分かっている。だからこそ、許せなかった。俺に責任を何もかも押し付けるのを当然と思っていた上司も、自分にとって都合よく動けない上司を評価しない部下も、正体も分からない『愛情』にばかり固執する妻も、息子も許せんが、その全てに律儀に耳を傾けようとして、結局何もかもを失った愚かな自分は、誰よりもさらに許せなかった。

 それでも。誰もいない、誰とも接しない暮らしを続けていれば、いずれはそんな自分を許せる瞬間が来るかもしれない。

 そのわずかな可能性を信じて、俺は余生の地に日の出町を選んだ。──そして、一年前の俺がいる。




 そんな時だ、彩。

 お前に出会ったのは。


 お前は楽しそうに働いた。まるでそれそのものが生き甲斐であるかのように、家事をこなし、農作業をこなし、町へ出向いた。空白ばかりの日常を埋めるために家事をする俺とは、大違いだった。

 ありがたかったというよりも、むしろ羨ましかった。作業そのものに素直になりさえすれば、俺も楽しむ気持ちの余裕が持てたのかもしれん……。いつしか、そう思うようになった。

 だとしたら会社の仕事も好きになれたんだろうか。いや、きっと無理だっただろうな。今のこれはあくまで趣味、生活には関係がない。

 そんな風に考えてみたら、今まで三十年以上も気を張って仕事に向かい合い続けてきた自分は、心底バカだったんだと感じたよ。


 お前と俺の関係は、会社の連中とも、家族とも違った。介護を受ける人間と介護を行うルームメイドという、この世で最も単純で、純粋な関係だ。

 変なことを言っているのは分かっているがな。俺にはその純粋さが、嬉しかったんだ。

 今日、空を見上げたら見えたものの話。ふと思っただけの考えの話。どうでもよくて、この世から消えたって人類には何の不利益もない会話を、いつまでも続けていられる関係。……俺がずっと望んでいたのは、本当はそういう間柄の人だったのかもしれん。




 お前と出会えて、俺は何か変われたのか?

 そんなわけはない。人間、一年や二年でホイホイと思考を変えられるんなら、苦労なんてありはせんだろう。

 でもな、彩。昔みたいな先の見えない暮らしもつらかったのは確かだが、誰とも何もしゃべらない生活っていうのも、それに輪をかけてつらいもんだ。自分が人の世で、ひとりの人間として生きているっていう感触が、時を追うごとに失われていくんだ。

 それはとても、とても、怖いことなんだぞ。

 そこから救い上げてくれたお前の存在に、何と言って感謝すればいいのか。俺にはさっぱりだ。心からの感謝なんて、もう二度としないだろうと思っていたからな……。








 そんな気持ちに至ったのが、もう二ヶ月以上も前になるのか。

 時の流れというのは、誰かと共にするだけで途端に加速してしまうんだな。もう九月十日だ。この一年も、早かった。

 特に一週間前は早かったな。それについては、お前も賛同してくれることと思うが。


 お前には、感謝している。できることがあるのなら、何でもしてやりたい。

 それが俺の心の中の本心のすべてだと、俺は信じて疑わなかった。少なくとも感謝の気持ちだけは、疑いようのない真実だったからな。

 俺はそんな心情だったんだということを、前提にして聞いてほしい。一週間前、お前と俺の間に起こった、あの出来事のことを。




 ……その前にもう一人、話しておかなきゃならねえ隣人がいるな。

 厳密には隣人じゃない。少し道を下ったところ、細尾地区っていう集落に住んでいた男のことだ。名前は坂本(さかもと)友雄(ともお)、二塚のかみさん同様に話好きな奴だった。

 あの男と初めて接点を持ったのも、お前だったな。バスの中で会ったんだって?

 そいつと何気ない話をしていた時、そう言っていたんだ。


 『あの子、ルームメイドなんですってな。良さそうな子じゃないですか』

 『はぁ、そうですか』

 『いつ手に入れられたんです。あれ、最新モデルのルームメイドでしょう? ルームメイドは特別な理由がない限り別個体への交換ができませんから、羨ましいですよ』

 『え、まさかあなたも?』

 『いやぁ。実はうちにもルームメイド、いるんですよね』


 俺の知る限り、松尾地区の辺りで他にルームメイドを所有している家はない。持っていると坂本が口にした時も、驚いた。あの男本人はまだまだ若そうだし、そんなものを必要としているようには見えなかったからなぁ。

 実際にルームメイドを利用しているのは、坂本の老いた母親だった。日の出町は坂が多くて大変だからと、麓のあきる野市で生活しているそうだ。そこのルームメイドもいい子らしいだが、表情があまり豊かではないし笑い声も人工っぽいので、彩が羨ましい──。坂本はそういう意味で、俺に向かってああ言ったのだと。

 坂本が説明するには、最新型のルームメイドよりも一世代旧型になってしまった坂本家のルームメイドは、人間で言う脳に当たる【Whole control intelligence "brAIn"】に『第三世代型TH(スリーホールド)コア H-3C』なるモノが使用されているらしい。……あー畜生、技術屋の連中は何でいちいち、こういう小難しい単語を名前に使おうとするかね。

 それでもって、さらに坂本は俺を驚かせた。どうもルームメイドの製造は、去年の九月に終了していたらしいんだな。


 『知らなかった……』

 『具体的な日付と理由は忘れましたがね、何でも、ルームメイド本体に色々と問題が生じていたみたいですよ。今はメーカーの東野重工も、既製品の改修作業だけを行っているみたいです』

 『彩が来たのは九月だったんだが、だとすれば滑り込みでセーフだったという事だったのか』

 『でしょうねぇ』


 だから羨ましいんですよと、坂本は朗らかに笑っていたよ。


 あの日以来、坂本と俺は頻繁に話をするようになった。

 もちろん二塚や堀口のように近所に住んでいるわけではないから、頻度は高くない。ただ、お互いルームメイドを所有している同士、話が通じるところもあってな。近所付き合いとは違う、友達のような存在とでも表現した方が自然かもしれん。向こうがどう考えていたのかは知らんがな。

 新規の提供が停止されてしまったとは言え、ルームメイドの有用性と評価の高さは未だに健在だ。坂本の母親にも、坂本家のルームメイドは感謝されているらしい。俺も、感謝していると言った。理由までは語ってないが、坂本は母親と同じ理由だろうと推測して納得していたらしかった。

 日常的にルームメイドの話が飛び出していた様子、分かったか?


 ──保証書の話を切り出したのも、坂本だった。


 『一昨日、ルームメイドの腕が故障して、工場に連れていきましてね。品質保証書を忘れかけて慌てましたよ。永久保証の対象であっても、あれがないと整備を受けられませんからねぇ』


 ある日、何気ない様子で坂本はそう言った。やっちゃいましたよ、くらいの感じだった。

初耳だった。

 品質保証書って何だ、って俺は問い返したよ。そんなもの、彩が出してきた取扱説明書には見当たらなかったのに。

 坂本は何を言っているんだと言わんばかりに、小首を傾げて答えた。


 『説明書の最後のページに挟んであったはずですよ。その裏に、整備の時には必ず持ってこいって追記があるんです。ほら』


 差し出された坂本のルームメイドの保証書には、確かにその旨の記述があった。

 なんてこった。長年の会社勤めであらゆる資料を見慣れてきた俺が、そんな肝心なものを見逃すなんて。悔しさを噛み締めながら家に帰って取扱説明書を見てみたが、何度見返してもやはり、ない。

 ここへ来る道中で彩が落とした? いやいや、彩はそんなに不注意な奴ではないだろうし、だいいちカバンに入っていたはずだ。カバンの中にも見当たらないからには、本当に“この家にはない”に違いない。

 そう思って夜、お前に聞いたよな。保証書は見てないかって。そしたらお前は、こう答えたわけだ。


 『保証書は通常、被介護者ではなく雇用者が所有しています。坂本さんの場合も同じで、所有していたのはご本人ではなく息子さんでしょう?』

 『ああ、確かになぁ。……じゃあ俺の場合も、持っているのは息子ってことか』

 『はい。哲朗さんの家にある可能性が高いと思います』


 馬鹿が、と吐き捨てたくなって、お前の前なのを思い出して慌てて思いとどまった。

 そりゃあ、一般的なルームメイドが対象にしているような連中に保証書を渡しておいたところで、いざという時には役に立たないかもしれん。だが、俺と彩の事情は違う。俺はこんなにピンピンしているんだぞ。

 それに万が一にも彩が故障を起こしたって、坂本親子ほどの距離に住んでいるのならともかく、小平住まいの息子がこんな山奥まですぐに来られるわけがないだろう。

 俺に寄越せと要求しよう。……って、最初は威勢よくそう考えた。だがな、それを主張するためには息子に電話をかけなきゃならん。つくづく恥ずかしい話だが、俺の中の息子とのわだかまりはまだ、解消できてはいなかった。

 日の出町の連中との仲がいくら良くなったって、過去の記憶が、事件が、清算されるはずはない。特に息子とは、喧嘩別れになっちまった身だ。癪だったこと以上に、父親らしいことを何もしてやらなかった後ろめたさが、俺の喉から言葉を締め出してしまう。


 それでも、お前に何かがあった後では遅いから。

 決心した俺は電話をかけた。お前が町に下りている間にな。


 意外にも息子は、あっさりとした態度だった。彩の調子を聞かれ、元気でやってるとだけ教えてやると、そうかと(のたま)って嘆息していたな。保証書を渡せと用件を告げると、今度渡しに行くと息子は答えた。

 たったそれだけさ。時節の挨拶なんかはもとより要らんが、互いの様子を案じる言葉が何ひとつとして交わされなかったのは、電話していて不思議な感覚だったな。あいつの中でももはや俺は父親ではないんだろうな、なんて推理をしてみたりしたもんだ。

 ともかく口約束ではあるが、保証書を手に息子がここを訪れるのが決まった。ひとまず安堵した俺は、後はのんびりとお前の帰りを待つことにしたわけだ。




 今にして思っても、あれはたったそれだけのことだった。

 予想なんて、できるはずもなかった。あんな事件に発展するなんてな……。






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