2 隠居老人の日常と、少女
俺の住むこの場所──東京都西多摩郡日の出町は、その名の通り都の西部の山沿いに位置する町だ。
人口は一万七千人。北を青梅市、南をあきる野市に囲まれて、町域の西側は完全に山の中に没している。平井川という名前の、多摩川の支流みたいなしょぼい川の流域が、丸ごと日の出町のエリアになっている。
ここいらでは石灰石が採れるもんで、昔からセメント生産が盛んでな。今でも大手企業が巨大な工場を設置している。もっと昔には輸送鉄道まであったというから、この辺鄙な地域もかつては今より賑わっていたんだろう。もっとも最近は、大規模ショッピングモール“イオンモール日の出”の開店や、首都圏中央連絡自動車道のインターチェンジの設置で利便性が増して、市街地の方の人口は増えているらしいが。
そのほかの産業といえば、広大な森林で行われる林業と、木材加工業。わずかな平地や山間部を利用した農業。それから──人の入らない奥地に建設された、多摩地域全体のごみを埋め立てている広域廃棄物処分場くらいのもんだ。最後のを産業と呼ぶのかは知らんが、計画当時はずいぶんとこの町も揉めたと聞いている。地元民でない俺は経緯も大して知らないんだがな。
そのくらいだ、この町の特徴なんてものは。その気になれば都心部まで一時間で着ける通勤圏内でありながら、都会の喧騒に悩まされることも、不便さに悩まされ過ぎることもない。のんびりした風土の町なんだ。
隠遁生活を送るにはちょうどいいだろうと、住む前から俺もずっと思っていた。
日の出町の中でも山奥の山奥、バスの踏み込む限界よりも少し先に、俺の家はある。ずいぶん昔に建てられたらしいボロ屋だが、床面積の広い二階建でインフラは一通り揃っているし、それなりに広い畑も持っている。幸いにも今日に至るまで、自然災害で壊れたりしたことは一度もない。独り暮らしには十分すぎるくらいの家だった。
ここに住み始めたのは、お前が来る五年くらい前だったか。ここいらには他に六軒くらいの家が建っているが、そいつらとはまともに会話をしたことがなかった。俺が無口だったのもあるが、俺以外の奴らは昔からの住人だからな。新参者の俺なんか、五年くらいで受け入れてもらえるわけがないだろうと思っていた。
そんなわけで俺はこの場所で、誰とも話さず、ただ黙々と畑を耕して、たまに町に出て買い物をして、ひたすら静かな生活を送っていた。
そんな俺の悠々自適な生活に、突如として割り込んできたのが、彩。お前だ。
俺は元来、あまりテレビを見ない。見るとしても娯楽目的だ。ニュースやら討論番組やら、世の中を何もかも知ったような顔をして喋る連中は、吐き気がするほど嫌いだ。同じ理由で、新聞も読まないし取ってもいない。
だから、ルームメイドの制度くらいは小耳に挟んでいたが、詳しいことについては全くの無知に等しかった。
そんな状態でロボットなんぞ受け入れられるはずがない。お前が渡してくれた取扱説明書を、取り敢えず俺は一通り読んでみた。細かいことがごちゃごちゃと並べ立ててあるのが嫌になって、最後の方は流し読みだったがな。
で、なんだ。お前は外見上は『どこにでもいる普通の女の子』として作られているんだそうだな。
『“不気味の谷”現象防止のため、徹底的に類似させています。介護や育児の目的で使用される場合もありますので、そういった点には慎重にならざるを得ないんです』
お前は少し得意そうに、そう付け加えていたな。俺もその言葉を多少は知っているぞ。“不気味の谷”っていうのは、中途半端に人間の姿をしているのが一番怖く感じるっていう、有名なロボット工学の説だろう。
説明書には内部の詳細図も掲載されていた。最初にお前は、普通の食事でエネルギーを確保する云々と言っていたな。それを【営養類分解・熱交換器】で動力に変換し、さらに主機関である【静音性熱排出式バイオマス発電エンジンデバイス】を通して電気エネルギーに変え全身の駆動に当てる、と。
確かに、エンジン然とした稼働音はしない。振動も感じない。一応、確認のつもりで俺は聞いたよな。脳に当たるものは何なのかって。
『【Whole control intelligence "brAIn"】です。量子技術を用いて、人間の脳に限りなく近い演算能力と記憶能力、身体制御、感情起伏表現の実現に成功しています』
俺の負けだ、満点回答だったよ。一字一句に至るまで説明書と同じだった。
そんなお前の肌は、【人肌仕様特殊硬膏合成フィルム】で構成されている。────もうこの辺りから、難解な名称に飽きた俺は説明書を放り出していたがな……。
人間の容姿を完全に表現しているからか、ロボットと言えどもさすがに裸ではいられないんだな。現に目の前のお前は、服を着ているわけだしな。
『もう少し機能的な服なのかと思ったが。ロボットらしくもないだろう、それじゃ』
『いえ、今のこの組み合わせは完璧です。ある程度の風雨はフードで防げますし、着脱によって温度調節も可能で、さらに過度に複雑でないので機動的とも言えます』
『……分かったよ、理屈は。それならルームメイドの連中はどいつもみんな、お前と同じ格好なのか?』
『いえ、ルームメイドによりけりです。その証拠に、取扱説明書にも服装に関する記述はないはずです』
言われてみれば、なかった。全身像は丸裸のものだったし、こういった服装です、と特定するようなことも書いていない。
そんなところまでロボットの自由意思に任せるのかと、あの時むしろ俺は感心したよ。日本のロボット技術ってのも舐めてかかっちゃいけねえな、ってな。
『なお、性的目的など何らかの不純な動機で私の肌に触れた場合、センサーが反応して自動的に警察に通報されます。ロボットが相手であっても、私たちルームメイドの場合は東京都の青少年健全育成条例に抵触する可能性がありますので、くれぐれもご注意くださいね』
にっこりと笑って宣告するお前は、少し怖かったがな。
ふん、すると思うのか。俺を幾つだと思ってるんだ。
二階建の我が家は、一階に玄関とトイレ、風呂、洗面所、居間と台所。それに和室が一部屋。二階に和室が四部屋。
俺は一階で寝ているからと、お前には二階の一室を使わせることにしたな。大して物のない質素な生活だから、正直に言うとどこでも良かったんだが。部屋だけはやたらにたくさんあるからな、このボロ屋。
そうして、俺とお前の新しい生活が始まった。
田舎暮らしの朝は早い。少なくとも俺は、毎朝五時に起きるようにしている。
……と思ったら、お前は毎朝四時に起きていたんだな。機械が唸る音に気づいて洗面所に向かうと、たいてい既に洗濯機は動き出していて、お前は朝食の準備を始めていた。
そんな早くに干したって乾くわけがないと、何度も言ったはずだがな……。だが、あまり家事に関して俺は口うるさくは言わなかったはずだぞ。多少の感覚のずれはあったにせよ、家事に関してお前の腕は完璧だったもんでな。文句をつける気にならなかったんだ。
洗濯物は乾きにくい場所に日が当たるように調整されて干されていたし、雨が降りそうな時は必ず予見して最適なタイミングで取り込んだ。部屋干しが予想される日はあらかじめ天気予報を確認して、わざわざ洗剤を使い分けていたそうじゃないか。
食器洗いなんぞ食洗機を使えばいいものを、油汚れは優しく落とすのがいいんですとか主張して、お前はいつも手洗いだったな。今に至るまで何回洗い物をしてもらったか分からないが、食器の扱いも終始丁寧で、一度たりとも割ったり壊したりなんぞしなかった。
そして何より驚かされたのが、料理の腕前だ。こう言っては何だが、俺は長いこと独り暮らしだったから割と家事は手抜きだった。それでも料理だけは毎回それなりに本腰を入れて作っていたつもりだ。だが、山や川から採ってきた自然の材料でお前の作る料理は、どれもそのまま小料理屋の店先に出せるんじゃないかと思うくらい上手だったぞ。ロボットのくせに、人間の味覚の機敏が分かっちまうなんて。本音では少し、悔しかったがな。
ただ……コンロに火をつける瞬間を、お前はやたらに嫌がったな。覚えてるか? 初めて台所に立たせた時、震えながら懇願してきただろう、お前。
『すみません、火を、火を付けてくれませんか』
『火ぐらい難しくないだろう。炎が出るまでボタンを長押しするだけだ』
『その……怖いのです』
『怖い?』
『と、トラウマと言うのでしょうか。私たちルームメイドの製造工場で以前、大規模な火災が発生したことがありまして、その際の恐ろしい映像が記憶回路に焼き付いているようなのです。削除しようとしても、できません』
『……分かった分かった。そういちいち長々と説明せんでもいい』
結局、毎度毎度俺が火だけ付けに行き、お前はいつもそれを隅っこで眺めている、っていう図式になったよな。コンロの面積を半分削ってIHクッキングヒーターを導入した今では、そんなことはなくなったが。
朝飯を食べて、洗濯物を広い庭に干し終えたら、今日の家事の三分の一は終わりを告げたようなもんだ。俺は長靴に履き替えて、家の目の前に広がっている農園に出る。“家庭”菜園と呼ぶには巨大すぎる我が家の畑の作物を、朝のうちからどうにかしてやるためにな。
お前も大抵、一緒になって出てきた。とは言っても、さすがに農具の使い方や野菜の育て方までは知らないみたいだったから、一から俺が教える羽目になったがな。
トマト、白菜、それにキャベツ。山間部とはいえ日当たりはそこそこあるから、俺の畑ではかなりバラエティ豊かに野菜を育てられる。それがそのまま食卓にも上がってくるから、うちの食事が野菜不足になることなんぞ、まず間違いなく有り得ん。健康的でいいですねって、お前は微笑んでいたな。
しかしどうだ、耕す時も畝を作る時もスコップを使わにゃならんし、あれだけの広さの畑を機械もなしに管理するのはなかなか大変だっただろ。……ああ、お前も“機械”だったか。
農作業の途中で大概、昼が来る。無論、朝が早いから昼も早い。うちの場合は十一時だ。
そうしたら適当に農作業を切り上げて、昼食だ。面倒な仕事は午前のうちに済ませて、午後はのんびりする。それが俺のルールだからな。
『こんな新鮮な状態で料理されるなら、野菜も本望ですね』
楽しそうにそう呟くのが、お前のいつものクセだった。俺も同感だな。ここに来て畑を耕すようになって気付いたが、都会で売られている野菜はどいつもこいつも不健康だ。
昼食が過ぎた後の時間は、日によってすることが違う。無論、家にこもって本を読んで過ごすこともあるが、町に買い物に出たりしてこの村からいなくなることもしょっちゅうだ。
俺たちの住む松尾地区からは、無料の町民専用町内循環バスが出ている。その名も『ぐるり~ん日の出号』。口にするたびに気が抜けるような名前のバスだが、これがなかなか侮れん。始発に乗って一時間ものんびり揺られているだけで、日の出町の中心街である平井にまで少ない苦労で出られるからな。
平井には大型スーパーのイオンモール日の出や日の出町役場、行きつけの銀行に当たるJAあきがわ日の出支店、いざという時のための各種医療機関や病院、それに都心に出るためのJR五日市線の駅がある。そもそも町に下りる機会なんぞ決して多くはないが、あったとしても日の出町内で大概のことは片付いてしまう。
俺は町に下りるのが嫌だった。そもそも人のたくさんいる空間を避けて日の出町に移住してきたんだ、用事があったとしても町にはなるたけ行きたくない。そう言ったらお前は、町に行く用事を引き受けると言ってくれたな。
『バカを言うな、あの循環バスは町民専用だぞ。お前では乗れないだろう』
『はい、私たちルームメイドは任務への障害を無くすため、住民登録をしていません。その代わり【マイティーID】を所持しています』
『なんだそれは』
『これがあると、一般のサービスを全て受けられるんですよ』
考えてみればお前、家まで来るのにバスに乗ってきたんだよな。それならいいかと思って、俺は町での用事を一通り説明した。買い物はどこでするだとか、銀行はどこのを使うとか。
こう見えても俺は年金暮らしの身だ。もっとも、現役時代にかなり稼いで払い込んだ年金だから、給付される額はそれなりに多い。銀行の預金と合わせれば、やろうと思えばそれなりに裕福な生活もできるだろう。
高い金のある口座を扱うんだ、気を付けろ。口を酸っぱくして注意する俺の言葉を、お前はきちんと最後まで聞き遂げて『はい』って頷いたよな。
あの頃はまだ、お前のことをよく知っていなかった。だから、信頼していいのか分からなくて、本当は少し不安だったんだぞ。言われた通りの仕事を済ませて帰ってきたお前を見て、杞憂だと分かってほっとした時の気持ち、まだはっきりと覚えている。
午後の仕事が終わる頃、高い山に囲まれたこの場所では日没を迎える。夕陽色に映える空の下、六時半くらいからこの家の夜は始まる。
俺とお前で手分けして、洗濯物を畳んで風呂を洗って、夕食を作る。夕方は疲れて寝てることが多かった俺の代わりに、お前がほとんど何もかもを片付けてくれたことも、何度かあったっけな。
二人で囲む夕食は、俺にとってはかなり久しぶりの経験だった。いただきます、と言ったきりお互い何もしゃべらずに淡々と食べるのが習慣だったが、顔を上げれば他人がいるというのは、お前が思うより俺には新鮮だったんだぞ。カルチャーショックとはこういうものかと思ったもんだ。
……それと、悪かったな。美味い、の一言がなかなか言えなくて。
夕食のあとは風呂を沸かす。こんな山奥の家だから風呂もユニットバスなんかではないし、ありゃ季節や天候によって湯加減を調節しなきゃならんからな。さしもの天才メイドロボットのお前でも、馴れるまでにはずいぶん時間がかかったな。
大体、ロボットのお前も入っていただろう、風呂。俺が出たのを確認して、覗かないでくださいねって何度も告げて。ふん、覗くような俺ならとうの昔に手を出している。
表面の洗浄だけで済ませられるって取扱説明書に書いてあったぞって、いつだったかお前に直接訊いたことがあったよな。そしたらお前、顔を赤らめて答えた。
『【人肌仕様特殊硬膏合成フィルム】の品質維持には本来、高温の水と界面活性剤で洗浄した方がいいんです。私は町にも下りますし、ロボットと言えど周囲の方々への配慮はしなければなりませんから』
……顔を赤くした理由は、俺には未だに分からん。
別に構わなかったがな。俺だって、同居人が整備不良で悪臭を放つなんて事態は避けてほしかったからな。
そんなこんなで、一日が終わる。
消灯時間なんざ設定していないが、だいたい十時には二人とも眠りについていたよな。日中の運動量も多いし、朝も早いからな。
そもそも人間だって元を正せば動物に過ぎん。日が上れば起き出して、日が沈めば眠る。それが自然の摂理に即した姿なんだ。日の出町なんていう名前の町に住んでるんだから、そういう生活も悪くない。
特にイベントごとのない、ただただ単調な日々。変わるものは季節と温度、食卓に上がる食材の種類。それくらいのものだ。世間様みたく何かを祝ったり遊びに行ったりなんか、俺は何もしなかった。
そんな生活に、お前はよくついてきた。ここに来る前、どんな教育を受けてきたのか知らんが、まさか担当した相手がこれほど祝い事やイベントに無頓着だなんて、予想もしていなかっただろ。
実はな、俺は逆の心配をしていたんだぞ。平穏無事な俺の日常に割り込んできたお前が、新しい習慣やら何やらを色々と勝手に持ち込んで、せっかくの今をぶち壊してしまわないかと。本当だ。
もちろん、それはイベントには限らん。料理の方向性だとか掃除の仕方だとか、そういうちょっとした生活習慣だってそうだ。家族だったら話は別だが、お前はあくまでも赤の他人。しかもか弱い女の子の姿をしたロボット。変な扱い方をしようもんなら、新宿の東京都庁からどんな面倒な役人を招く結果になるかも分からん。
初めは腫れ物を小脇に抱えたような心持ちがして、生活が息苦しかった。余計な物を寄越しやがって、って、勢いだけで息子に電話できそうなくらいにさ。
ただ……本当はもうひとつ、誰にも話さなかった、いや話せなかった、悩みの種があったんだ。
彩。今のお前になら、それも話せるような気がする。
もう少し、待ってくれ。
話をしながら頭を整理するのが、俺のやり方なんだ。




