1 ルームメイドがやって来た日
彩。
お前がこの家に来たのは、一年前の九月三日だったな。
どうして日付まで覚えているのか、実のところ俺もよく分からん。特に何かがあった日でもないからな。だが、覚えていてよかったと俺は今でも思っているぞ。
あの日、俺はたまたま起きるのが遅くて、十時半になっても布団の中にいたんだ。
といっても、ここは山の中の寒村だ。遅くたって誰も責めやせん。テレビを見たいとも思えないし、日課の農作業も午後からと決めていたし、することもなかったわけだ。
そもそもうちは、この村の中でもかなり端の方にある、木々に包まれたような古い一軒家だ。誰かが訪問してくるとしたら、だいぶ山を下ったところに役場を置いておるこの町の、見回りの職員くらいのものだった。郵便屋も、勧誘も、何も来ない。
だから、十時半にお前がチャイムを鳴らした時、率直に言ってかなり驚いたぞ。耳慣れない音が、盛大に鳴り響いたもんでな。
ドアを開けたところに、お前がいた。
そう、今と同じ出で立ちでな。最近になってようやく名前を覚えたが──上はシャツの上に“パーカー”、下は“ショートパンツ”と“ハイソックス”。秋初めにふらりと家を出てきた大学生みたいな服装のお前は、手に持っていた大きなカバンをたたきに置いて、唖然として言葉を失っていた俺に向かって、こう言ったんだ。覚えているか。
『初めまして、長井征さん。本日よりこちらに着任します、個体識別登録番号T-0421、【ルームメイド】宮本彩です』
『ルーム……メイド?』
俺は思わず、聞き返したはずだ。こんな風に。
『──なんだって、誰が俺にそんなものを寄越してきたんだ』
【ルームメイド】。
英語に書き換えるならば、綴りは【Roommaid】か。
もちろんそんな英語なんぞありはせん。だが、その単語の示す意味を、当時の俺は少なからず知っていた。
ルームメイドは、数年前に日本の企業が開発した、介護用アンドロイドの名称だ。そして同時に、その開発にあわせて二年前に東京都が運用を開始した、無料の介護用アンドロイド貸与サービス事業の通称でもある。
少子高齢化の急激に進行する日本で──とりわけ東京で、介護や育児の仕事はどうしても敬遠されがちだった。単親家庭の増加や共働き家庭の環境の悪化にも拍車がかかって、世間は革新的な政策を行政機関に希求した。その結果、東野重工株式会社が開発に成功した高性能人型ロボットを東京都が買い取り、申請のなされた世帯に無償で派遣するサービスがスタートされた。それが【ルームメイド】だ。
俺たちの住むこの日の出町も、辺境ではあるけれどちゃんとサービスの対象地域に当たる。……とは言っても、ここいらの村でルームメイドを目にしたことはなかったがな。だからこその驚きだったのかもしれん。
しかし問題は、なぜ俺の家に来たのかということだ。
俺はお前に問い詰めたよな。
『俺はそんなもの申請しとらんぞ。バカにするな。俺は確かに六十二歳になるが、これでもまだまだ健康体のつもりだ』
『しかし登録情報によれば、私の派遣先は貴方で間違いないのですが……』
『そもそもお前、俺が誰だか分かっているのか。人違いかもしれないだろう』
『はい、既に全情報がインプットされています。本名、長井征さん、満六十二歳。誕生日は五月二十日午前八時七分。元勤務先は株式会社八王子製紙、事業開発部。本籍地は東京都小平市となっていますが、現住所は東京都西多摩郡日の出町大久野4713。宮城県に由来を持つ長井家の分家長男であり、国民固有番号は23304430……』
『……分かった、分かった。もういいから読み上げるな。そんなに網羅しているのなら、俺のところにお前を派遣した奴の名前も、もちろん覚えているだろうな』
彩と名乗ったお前は、──さすがは“ロボット”だな、何の躊躇いもなしに答えてくれた。
『長井哲郎さん、あなたの第一子です。山奥暮らしで参っているかもしれないから、という理由だと伺っています』
その名前を聞いたとき、こめかみがぴくりと動いたのが、はっきり分かった。
『あの野郎……』
俺は低い声で呟いたはずだ。
怒っているように聞こえただろう。でもな、あのとき感じていたのは怒りばかりではないんだ。──いや、むしろ怒りなんぞは、すぐに萎えてしまった。
お前が挙げたのが、もう長いこと顔を合わせていない息子の名前だったからだよ。
俺の家族はな、十五年前に空中分解してしまっていた。以来、嫁の側に引き取られた息子に対して、俺は会ったり話をしたりしたことがなかったんだ。
機会がないだけでなく、正直、もう二度と会いたくなかった。同じ空間にいるだけで、身体がむず痒くなってくるんだ。少なくともあの頃は、本気でそう思っていた。
厄介なことになったと思ったものさ。どうしようか、やはり後で電話してきっちり断るべきか。でも、あいつと電話するのがそもそも癪に触るんだが……。
そんなこんなで、俺は怒りというよりも、イライラを持て余していたわけだ。分かるな?
そんな俺を無視して、というより気づかない様子で、お前は説明を始めたな。
『【ルームメイド】は、東野重工株式会社製造の高性能多目的人型ロボットです。定型身長は150センチメートル、規格体重は45キログラムとなっています。エネルギーは通常の食事によって摂取し、体表の清掃は流水に晒すことで行うため、通常の人類と同じ生活を送ることで本体の状態を維持することが可能です。また衣類や食器などの必要雑貨は、特に雇用者様からの指定のない限りは事前に用意されます。以上すべての予備活動を、【ルームメイド】本人が自発的に行います』
『原則的にはすべての家事労働に従事可能です。その他、家計簿編集などの簡単な事務作業、家庭菜園の管理や花壇整備などの簡単な農作業、遊び相手などの遊興作業への従事などが可能となっています。身体機能の都合上、過剰な重労働には耐えかねる場合があるほか、営利活動への参加は東京都の条例違反となる場合がありますので、ご注意ください』
『詳細については、付属の取扱説明書をご覧ください。仕様についてのご質問は製造元である株式会社東野重工に、使用規則についてのご質問は提供元である東京都へお願い致します。なお、本品は量産型個体ではございません。トラブルの発生は十分にあり得ますが、本品は永久保証の対象となっておりますのでいつでもご相談ください。また、同様の理由により大量生産が行われないため、“気に入らない”等の個人的趣向を根拠とする交換依頼には応じかねます』
それだけの長いせりふを、お前は一度も噛んだりしないで言い切った。さすがはロボット、ということか。見かけは完全に人間なんだがな。
それが済むとお前は分厚い取扱説明書を取り出してきて、丁寧な手つきで俺に手渡した。足元にはさっきまで取扱説明書を入れていた大きなカバンがある。身長も、体重も、確かにそのくらいだ。
『ひとつ、教えてくれ』
『何でしょうか、征様』
『キャンセルはできるのか』
『派遣を決定なさった雇用主様でないと、キャンセルを行うことはできません』
ま、常識的に考えればそうなるだろう……。ひとまず受け入れる他はなさそうだと、俺は早々に観念したよ。
仕方ない。そこにずっと立たせておくわけにもいかなかったから、俺はそこに適当なスリッパを出してきて放った。それでもって、散らかっている居間を片付けようと思って、お前に背を向けた。
彩、お前はあの時、ずいぶんと弾んだ声をしていただろう。
『私、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!』
って具合にな。
そんなこんなで、俺とお前の二人暮らしの生活は幕を上げた。
彩。
お前には俺の考えていたこと、正直な思い、何一つとして話したことはなかったな。
いま、ようやく話す決心がついたんだ。こんな形ですまんが、どうか聞いてほしいんだ。
お前と俺とは、【ルームメイド】と雇用者であるのと同じように、“共同生活者”なんだからな。