はじまりの物語
その日は、静かな夜だった。
カーテンの隙間から差し込む穏やかな月の光が、毛玉の目立つ古びたカーペットと、わずかに上下運動を繰り返す布団を、柔らかな白銀色に照らしていた。
部屋にはただ、規則正しい小さな呼吸の音だけが、申し訳なさそうに響いている。
そんな部屋の襖が、すっと開いた。入ってきたのは六十歳過ぎくらいの、やや老いた男だ。
布団が立てる音を消してしまわないようにか、男は抜き足差し足、慎重に歩を運んで布団のもとに向かう。そして、そっと腰を下ろした。
夜明かりに照らし出された布団に眠っているのは、十代半ばくらいの少女だった。男の存在になどまるで気づかないらしく、変わらず静かに寝息を立てている。でも、男が布団のそばにあぐらをかくと、布団のへりにかけていた手がぴくりと動いて反応した。
男は口元に笑みを浮かべて、そんな少女をしばらく眺めていた。月光を灯したその瞳は、美しく輝いていた。まるで──深い深い慈愛の念が満ち充ちているかのように。
窓の外からは、虫の音がりぃりぃと鳴いている。深夜二時の、夜の帳の下。
男はふと、口を開いた。
「──すまなかったな。夜中に入ってきて」
少女は動かない。
「いい、いい。お前はそのまま寝ていろ。俺が話をしたくなったから、入ってきただけなんだ」
安心させようとしたのか、男はそう告げて手を伸ばした。さらさらと額の黒髪を掻き上げると、少女の寝顔が見えた。
安らかなその寝顔に目を細めた男は、また口を開く。
「なぁ、彩。少し昔話でもしてやろう。お前────いや、【ルームメイド】がこの家に来たときから、今までの話だ」
少女は反応しない。ただ、代わりに窓の外から降り注ぐ月の光がほんのりと、明かりを強めたような気がした。
少女はともかく、あの月は歓迎してくれるらしい。男には少なくとも、そう思えた。
場の了承を得た男は、ゆっくりと語り出した。
時折、思い出しながら。
時には、思い返しながら。
そして時々、新たな思いを噛み締めながら。