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光の君、これを慕ふ

「やっぱお前、変だぞ」


保健室で橋戸井光太郎の手当てをしながら、仲将(なかまさ)アルは呆れつつ心配した顔で言った。


「そんなはっきり言わなくてもさぁ」


拗ねた表情の光太郎をよそに、アルはてきぱきと片付けをしていく。光太郎の怪我を手当てするのはもはや慣れたものだった。

ふたりは三年間同じクラスで部活も同じという縁で、いつもよくつるんでいるためにこんなことは日常茶飯事なのだ。


「名前も知らない人に一目惚れして、何も手につかないせいでボール顔面キャッチするやつを変と言わなくて何て言うんだよ」

「いやあれはボールが僕の顔に飛んできただけだから!こう、吸い込まれるように!」

「お前の顔は掃除機かなんかなのか?」


鼻のガーゼを強調しながら力説する光太郎に、これ以上続けるのがばからしくなってアルはため息をついた。こんなふうにうっかりしているのは初めからだが、一目惚れしたと言いだしてから輪をかけてひどい。光太郎が言うには、県立の図書館に長い黒髪の高校生がいてあまりの美しさに惹かれたということだが、恋をすると人はこんなにもだめになるのかとアルは薄ら寒い思いがするほどであった。


「だいたいお前、その人の顔もまともに見てないんだろ?制服だけじゃ誰かもわかんねえじゃん」

「……見た。」

「は?」

「だから、見たんだ。そのひとの顔。」

「…まじか」

「うん。肌が白くて、きりっとした美人で、グレーの瞳をしてた。」


特徴的なその外見に覚えがある気がして、アルは記憶を探る。グレーの瞳、ということは純粋な日本人ではないだろう。かく言うアルも、スウェーデン人と日本人の両親から産まれたために、顔は日本人のそれと大差ないが中学生にしてはしっかりした体つきをしている。となると、やはり目立つために人の記憶に残る。さらにその噂の広がりようは、ただの中学生の比ではない。


「その人の制服、東高だったよな?」

「うん」

「…もしかして、白瀬って人かも。あの豪邸の」

「えぇ!あの洋館の?!」


二人の住んでいる地区には、有名な豪邸がある。白い壁の洋館で、まさにゲームや映画に出てきそうな館ということで知らない者はいないほどであった。外国人が住んでいるとか、実は石油王だとか勝手な想像のたねになっていた家の持主が好きな人かもしれない、などというのは光太郎には少々情報が多すぎて処理しきれなかった。

ともかく、あのひとは白瀬という人かもしれないことはわかった。まずは一歩前進といったところだ。


「でもお前、顔見たってことはちょっとはなんかしゃべったりした?」

「え?あー…いやぁ…」


わくわくした表情のアルとは対照的に、光太郎は気まずそうに目線を逸らした。まさか目に見えない得体のしれないものに襲われて、それを止めたらしい声なら聞いた、とは言えない。そもそもそれをどう言えば信じてもらえるのか、光太郎の頭では良い案は出てきそうにない。


「おいおいなんだよ、ここにきて隠し事かよ?」

「違うって!なんて言うか…その…話してはないけど、声は聞いたっていうか…独り言、てきな…」

「それ盗み聞きレベルじゃねえか。あーあ、つまんねーなぁ。もっと積極的にいこーぜ」


光太郎必死の言い訳をとりあえずアルは受け入れたようであった。がんがんいこうぜ、と他人事ゆえの無責任さで完全に楽しんでいる。無理無理と苦笑いをした。次に会ったときは何か話しかけてみたいと思うものの、やはりあの何かに巻きつかれた恐怖が蘇ると何と切り出せばいいのか全くわからなかった。



やはり彼女は先に来ていて、いつもの席にひとり座っていた。

この間よりも少し距離をとって座った光太郎は、注意深くあたりを見回す。どうやらあの得体のしれないものの気配はないようだ。彼女が制御しているのか、そうでないのか全くわからないが、とにかく今は安全そうだった。彼女にも特に変わった様子はなく、こちらを振り返ることもない。もしかしたら何か話しかけてくるかも、と考えていた光太郎は肩すかしをくらった気分で渋々問題集を開いた。


(まったく…古文なんて宇宙語だよ…お、源氏物語のここって確かノートに訳書いてたはず!……あ)


問題を解こうとしたとき、ノートを学校に忘れたことに気づいた。あれがないと本文自体よくわからない。が、取りに戻るのも面倒だ。

仕方なく光太郎は源氏物語の本を探しに席を立った。本棚が壁のように立ち並ぶなかを歩きながらお目当のもの探すが、日頃図書館で本を探すことのない光太郎ではなかなかたどり着けなかった。かすかに流れているクラシックを聞きながら歩くと、光太郎には図書館はさながら迷路のように思われた。

いくつも本棚を通りすぎるうちに、とうとう突き当たりまできてしまっていた。見過ごしてしまったのだろう。また探しに戻らなくては、とため息を吐いて視線を落とした。


「…あった!」


幸運にも視線の先、本棚の下から二段目に探していたものはあった。安堵して手を伸ばすと、視界の端を何かが通った。何かが行ったほうの通路を見るが、何もいない。だが、胃の底から胃液がのぼってくるような嫌な感じがする。本を取って本棚に背を着け、通路を見た。呼吸するのが苦しい。喉がからからになって、唾を飲むのも痛いほどであった。この間と同じだ。光太郎は肉食動物に狙われた小動物の気分だった。

静かな通路に光太郎の呼吸が響いているようだった。あの気配が近づいてきているのを感じる。どうやって、どこへ逃げればいいのかさえわからない。動かないほうがいいのか、闇雲にでもここを去るべきか。考えあぐねていたそのとき。


「ぐっ!!う…っ」


突如何かに首を絞められた。慌てて首に手をやる。ぞっとするほど冷たい何かがあった。表面はわずかに柔らかく、しかしその内側は石のように硬い。


(手だ…死人の手だ!)


光太郎は首を絞めるものから手を離した。死人の手は更に光太郎の首を絞め上げていく。殺そうとする意思をはっきりと感じた。何も考える余裕もなく、光太郎はその手から逃れようと身をよじり、爪を立て、殴りつけ、暴れる。顔に血が溜まって張っているのが自分でもわかる。

激しく抵抗する光太郎の耳元で、何かが囁いた。


「死んだほうが楽になれる」


乾いて掠れた声で、光太郎を嘲笑った。逃れられる気がしない。とうとう視界がぼやけてきた。


「じゃあ、今度こそちゃんと死なせてあげるわ」


通路の奥、白い服が見えた。あのひとだ。こちらを見ている。

光太郎はついに抵抗する力を失ってしまって、ただ死人の手に身を任せるようになった。彼女は光太郎のところへ来て、手をかざすと光太郎の目の前がちかちかと光った。緑色に光るそれに、なぜかひどく魅かれる。それに触れようと光太郎が手を伸ばしたとき、首を絞める力がふっと消えた。

力が抜けて崩れるように倒れる光太郎を、彼女が抱きとめる。


「ごめんね、君を巻き込んでしまった」


想像していたより、ずっと芯の強さのある声音だった。光太郎はゆっくりと意識を手放した。

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