情けない僕はでも 2
情けない僕はでもの続きです。
棺に入った祖父の表情は綺麗に整えられていた。死んでしまっているというよりもただ静かに眠っているようにも見えた。いや、それは祖父の顔というよりも祖父の顔を模して作られた精巧な人形のようにも思えた。
葬式の会場には祖父が若かった頃の写真も飾られてあった。それは祖父がまだ十八歳とか十九歳くらいの頃の写真だった。僕は祖父の若かった頃の姿を見たことがなかったので、写真のなかの若い頃の祖父を見ていると不思議な気がした。当たり前のことなのだけれど、祖父にもちゃんと若い時期があったのだ。
でも、理屈に理解が追いついていかないところがあって、写真を見ているとなんたが奇妙な気がした。僕が知っているのは瘦せて歳を取った祖父の姿だけだった。でも写真のなかの祖父は頬のあたりがいくらかふっくらとしていて、まだあどけない少年の表情をしている。戦地で撮ったものなのか、祖父は軍服のようなものを着て、他の同じ服装をした少年たちと一緒に正面を向いて楽しそうに笑っている。
あとで聞いたところによると、祖父は戦時中満州鉄道の職員として働いていたということだった。終戦後故郷に戻ってきた祖父は農業をし、その農業で資金を作ったあと、材木加工を行う会社を作ってある程度成功したらしかった。
そういった話を聞いていると、僕が全然知らない祖父の姿が見えてきて驚かされる。祖父には祖父の長い人生があったんだなと改めて気がつかされる。少年時代があり、結婚して伴侶を待ち、やがて子供ができ、仕事で事業を起こしといったような長い時間。人生といったもの。祖父にとって生きるということは何だったのだろうと考えさせられる。祖父の身体を通り過ぎていった時間について僕は想像する。
祖父の生涯について僕は父から聞いた。
長男なので父が喪主を勤めたのだけれど、その父の表情を見る限り、父は祖父を失ってそれほど激しく気落ちしているようには見えなかった。べつにいつもの普段通りの父に見えた。でも、なんでもないふうを装っているだけで、実はかなりの喪失感を抱えているのかもしれなかった。よくわからなかった。どう思っているのか気になったけれど、そのことに触れていいものかどうかわからなかった。父も特に何も話さなかった。ただ父は葬式で最後挨拶するときに一度だけ声を涙で詰まらせていた。「父はほんとうに家族のために・・」といってそこから言葉になっていかなかった。
父が祖父を失う日が来たように、僕もいつかは父を失う日が来るのだろうか。そのとき僕は何を感じ、何を思うのだろうと思った。
翌日、僕は昼前に起き出した。そして遅い朝食なのか早めの昼食なのかよくわからない食事を取った。それから食事を終えると、僕は出かける準備をして、また自転車に錆び付いた鍵を差し込んで鍵を解錠した。
さて。今日はどこにいこう。そうだ、本屋に行こうと思った。何か読む本が必要だと思っていたのだ。自転車のペダルを漕ぎながら我ながら暇だなと苦笑した。働きもせずにぶらぶらしていて後ろめたい気持ちにもなるけれど、でも、暇なのは嫌いじゃない。予定がつまっているよりは全然楽しい。どうせ東京に帰ったらアルバイトの身ではあるとはいっても、嫌でも働かざるをえなくなるのだ。だからせめて今のうちは自由な時間を満喫しようと思った。いや、べつに満喫しなくてもいい。何もしない時間を送るだけでもそれなりに楽しかったりする。
久しぶりに訪れた本屋はなんがたか知らないうちにうらびれていた。一応、地元では唯一の大型書店なのだけれど。そんなふうに感じてしまうのは僕が都会の書店に慣れてしまったせいかもしれない。けれどそれにしても、本屋に並んでいる本もなんだか退屈して暇を持て余しているように見える。
「吉田」
と、僕が雑誌を立ち読みしていると、背後から声をかけられた。ちょっと驚いて後ろを振り返ると、そこには高校のときの同級生が立っていた。歳を重ねていくらか全体的に輪郭がたるんだような(それは僕だって同じなのだけれど)印象を受けたけれど、それは間違いなく高校のときの友達だった。彼の名前は上村紀博といい、僕は彼のことをのんと渾名で呼んでいた。
それから僕たちは本屋をあとにすると、友人の運転してきた車に乗って近くのファミレスまで移動した。久しぶりだし、ゆっくり話でもしようということになったのだ。僕が乗ってきた自転車は本屋に置いたままにしておいて、帰りにまた友人の車でもといた本屋まで送ってもらうことになった。
「じゃけど、てげ久しぶりやね」
と、僕は友人と向かい合わせに腰を下ろすと微笑して言った。
平日の午後のファミレスは比較的空いていた。東京だといつもどの時間帯もそれなりに混雑しているのだけれど、地元だと田舎のせいか窓際の方に四十代くらいの女の人が何組か座っているのと、小さな子供をつれた女の人が座っているくらいものであとは閑散としていた。
「じゃあとよ」
のんも僕の台詞に微笑して同意した。のんとは高校のとき軟式テニス部で一緒だった。一緒にペアを組んでいたこともある。僕は高校を卒業したあと大学で大阪に行ったのでのんとはすっかり疎遠になってしまっていて、ほんとうに今日会ったのは十年ぶりくらいのことだった。大学のときに車の免許を取るために地元に長く滞在したことがあって、そのときに一度一緒に遊んだのがのんに会った最後だった。
注文を取りにきたウェイトレスの女の子に僕ものんもドリンクバーを注文した。そして注文を取ったウェイトレスの女の子が厨房に戻っていくと、僕たちはそれぞれ席を立って飲み物を汲みにいった。僕はカフェラテを入れ、のんはコーラを入れて席に戻ってきた。
口に含んだカフェラテは期待していなかったせいか意外と美味しく感じられた。濃くがあって香りが良い。のんはストローでコーラを一口啜ると、
「吉田は今なんしちょって?」
と、訊ねてきた。僕にはその質問が何故僕が今地元に戻ってきているのかを訊ねているのか、それとも僕が現在どこで何をしているのかを訊ねているのか判断に迷った。それで僕は自分が地元に戻ってきている理由から説明することにした。数日前に祖父が亡くなって葬式のために地元に戻ってきたこと。地元に帰ってくる機会はそうそうないのであと数日滞在するつもりでいること。僕は今東京でアルバイトをしながら小説を書いていることなどをのんに話して説明した。
「吉田ってまだ小説書いちょっちゃね」
と、のんは感心しているというよりは驚いたように僕の顔を見て言った。
「うん、往生際悪くね」
僕は自嘲気味に笑って答えた。僕は高校のときから既に小説を書き始めていて、のんには何度か読んでもらったこともあった。
「小説の調子はどんげやて?」
僕は苦笑して首を振った。
「全然やね。一応公募に応募したりはしてるけど、なかなかやね」
僕の台詞にのんは上手い言葉が見つからなかったようで、コーラをストローで一口啜った。それから、
「頑張れよ」
と、のんはとりあえずという感じて言葉を継いで言った。
「応援しちょっかいよ」
「ありがとう」
僕は曖昧な笑顔で答えた。
「有名な小説家になったらなんか奢ってよ」
と、のんは冗談めかして言った。
「そうだね。小説が売れたらね」
と、僕は苦笑するように小さく笑って答えた。
「逆に今のんは何しちょっと?」
と、今度は僕がのんの近況について訊ねてみた。
すると、のんは自分は今介護士の仕事をしているのだと教えてくれた。のんは高校を卒業したあと名古屋にある車の整備士になるための専門学校に進学したのだけれど、でも、その学校の雰囲気に上手くなじむことができずにその学校を中退し、それからあとは実家に留まりながらアルバイトをしたりしなかったりしながら何年間を過ごしていたらしかった。そして今から四年くらい前にこのままじゃいけないと思い立って介護士になるための専門学校に進学し、その学校を卒業したあと介護士として働きはじめたらしかった。
「介護かぁ」
僕は感心して言った。
「俺にはとてもそういのは無理そうやね」
僕のなかで介護という仕事はもしかしたら偏見なのかもしれないけれど、とても大変そうなイメージがあった。老人の身体を洗ってあげたり、おむつをかえてあげたりといった仕事。
「まあ、それなり大変な部分もあるけんね」
と、のんは苦笑して言った。
「じゃけん、それなりに楽しいけんね」
と、のんは穏やかな笑顔で続けた。
「やっぱり感謝されると嬉しいし、それに俺の実家って昔から寝たきりのばあちゃんがおってそういうの慣れちょったしね」
「なるほどね」
と、僕は頷きながら、のんは自分に合った仕事を見つけることができたんだなと少し羨ましく思った。
「吉田は地元に戻ってくる予定はねえて?」
と、のんは再びコーラをストローで啜るとふと思いついた様子で訊ねてきた。
「うーん。今のところは」
僕は曖昧な笑顔を浮かべて答えた。そしてそう答えてからどうして自分は東京という土地にこだわっているのだろうと自分でもわからなくなってきた。
僕は大阪の大学を卒業しあと、なんとなく東京に憧れがあって上京した。東京には出版社が集中しているし、東京にいればそのぶんチャンスも増えるんじゃないかと甘く考えていた部分もあったのかもしれない。
でも、東京に来てから十年くらいが経った今でも状況は東京に来た当初とほとんど何も変わっていないし、べつに今東京じゃないとできない仕事をしているわけでもなかった。だから、べつに東京に留まっている必要は全くなかった。
経済的なことを考えれば実家に帰ってそこに留まりながら小説を書いた方がよほど効率が良いのかもしれなかった。でも、僕は実家に戻りたくないと思っていた。たぶんその理由は負けたような気がするからだ。実家に戻るということはつまり夢を諦めたことを意味するような気がしてたぶん嫌なのだ。だから、僕は東京に留まることにこだわっているのだと思った。
「まあ、東京の方が色々あるもんね」
と、僕が黙っていると、のんは僕がもっと単純な理由から東京に留まって居たいと思ったようだった。僕も自分の気持ちをわざわざ正直に説明する必要もないと思ったので特に否定はしなかった。というより、僕が思っていることを正直に告げられても、のんとしても困るだけだろうと思った。
それから僕たちは共通の友人や知人がどうしているかといった話をした。当たり前のことではあるけれど、そのほとんどのひとが普通に就職して働き結婚して子供を持ったりしていた。べつに結婚して子供を持ちたいとは思わなかったけれど、でも、一方で取り残されていくような孤独感と若干の焦りのようなものを感じないわけにはいかなった。のんはまだ結婚はしていないようだったけれど、つき合っている恋人はいるようだった。僕が現在つき合っているひとはいないと告げると、のんは笑って、東京だったらいくらでもかわいいひとがいるだろうと言った。僕は苦笑してまあそうなんだけどねと答えを濁した。
ファミレスを出ると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。夜の最初の透き通った闇が世界をひっそりと包み始めていた。
のんには車でまたもといた本屋まで送ってもらうと、また会おうという話をして別れた。のんはまた明日から仕事があるらしかった。のんの次の休みの日には僕は東京に戻る予定になっているので、次にのんには会うのはだいぶ先のことになりそうだった。