第一話――担任の場合――
今度は夕凪の担任の先生の話です。
名前だけなら美波の話で既に出ています。
四月九日、始業式の翌日である。
三年二組の担任であるこの俺、梶本 夏は、職員会議の後に沈んだ顔で突っ伏していた。
俺の担当する三年二組には、学年唯一の不登校児、神崎 夕凪という男子生徒がいる。
そいつの双子の姉である美波はというと、三年一組に所属しているのだが、こちらはちゃんと学校に出てきている。
しかし、家に引きこもっているとは言え、夕凪という生徒は相当な優等生だ。
家で独学で教科書を読み、ワークを解いているだけのはずなのに、血を分けた双子の姉以外にはテストの成績では負けたことが無いのだ。
そのせいか、最近のPTAの、俺たち教師に対する風当たりが強くなってきている。
第一に、なぜしっかりと授業をしているはずなのに、不登校児の方がよほど賢いのか、というクレームが強い。
しかし、これに関しては仕方ないじゃないかとしか言いようがない。
あいつが賢いのは、才能であり、努力であって、勉強をしようとする姿勢にあって、それがあなた方の息子娘には欠け落ちているのだというのは、まだ二十数年しか生きていない俺にだって分かる。
しかし、教師としてはそんな言葉を言ってはいけないということも同様に分かる。
そして第二のクレームというのは、どうしてそんな優等生を学校に出席させもしないで堂々としていられるのか、である。
どちらかと言うと、こちらの方が俺としては悩ましい課題である。
なぜなら、こちら側の問題に関しては俺だって全力を尽くしているのに成果が出ていないからだ。
何もしていない訳ではない、それを理解して欲しいのだが、成果に現れない以上は協賛してくれる人は一向に現れてくれない。
姉の美波は部活熱心で、その時に訪れていたために知らないだろうが、俺は春休みの間に、何度も何度も神崎家を訪ねていた。
毎度毎度毎度毎度、お母さんと思わしき人物はたいそう丁寧に相手をしてくれた。
しかし、肝心の生徒である、夕凪は一回たりとも出てきてくれなかった。
初めて訪れた時には、近くの公園でサッカーの練習でもしていると言われた。
そんな事ならば、学校のサッカー部に入れよ、と思わず突っ込みそうになったが、それが嫌なのだから学校に来ていないのだろうと自制を働かせた。
二回目に訪れた時には、爆睡していると言ってまったく取り扱ってくれなかった。
三回目以降は、もはや面倒くさいと本人が申していると言われ、始業式三日前の訪問に至っては、インターフォン越しに、夕凪本人から「もう来ないで」とただ一言。
どうやらその時は母親が留守だったらしい。
それだけ俺は何回もあそこに訪れたというのに、PTAは俺のことを、生徒を不登校のまま放置しているとクレームをつけてくる。
だったらお前たちが代わりに説得してくれと、誰も聞いていない所で何度も叫んだ。
苛立てば苛立つほど、先生方は同情してくれるのだが、保護者一同は逆上だと余計に白い目を向ける。
深い深い溜め息が唇から漏れ出た時、不意に後ろから肩を叩かれた。
振り返ると、俺と同期でこの学校に就任した女教師、飯田 叶が立っていた。
やわらかな笑顔を浮かべて、両方の手には湯気を立ち上らせるコーヒーが淹れられたマグカップを持っている。
お疲れ様、と励ましながら片方のマグを俺の方へ手渡してくれた。
ありがとう、と短い返事だけをしておずおずと受け取る。
この学校にいる若い……といっても二十七なのだが、とりあえず三十よりも若い教師は俺とこの良いだの二人だけだ。
気さくに話ができるのはお互いだけであり、他の先生方は皆ベテランなので、こちらとしては恐縮とするばかりだ。
飯田が受け持っているのは、例の問題児、夕凪の姉、つまりは超優等生の美波である。
弓道で日本屈指の実力を収め、常に校内のテストでは一位をかっさらい、ついでに東明という、名門校の推薦をかっさらっていったとんでもない天才だ。
そして、その姉の方から少しは話が聞き出せないだろうかと思い、つい昨日彼女に相談したばかりである。
「あー、美味……」
淹れたての、熱いコーヒーをゆっくりと啜りながら呟いた。
猫舌だが、熱い方が美味しいので頑張って飲む。
その様子が可笑しいと、今まで何度も、色んな人からからかわれてきたが、飯田からは言われたことが無かった。
「夕凪くん、来れそう?」
質問に対しては、俺はゆっくりと首を横に振った。
昨日美波に発破をかけるために、わざと挑発するような言い方をしてみたのだが、だからと言って状況が変わるということはないだろうと思う。
ちょっと姉が強気で説教したところで、“あの”夕凪には効果がないだろう。
もはや、あいつが自然回復するのを待った方がよっぽど効率的である。
それ以上は、俺を問い詰めるような事は、訊いてこなかった。
飯田は結構人の心に敏感で、何を訊くべきで何は訊かざるべきか把握している。
容姿も確かに綺麗なのだが、それ以上に性格の面で俺は良いだを結構気に入っていた。
しかし、結構女性関係には迂闊に手を出せるような性格ではないため、友達以上に進展させようとしたことはない。
下手に告白して撃沈しようものなら、この学校で唯一の友人と呼べる人がいなくなってしまう。
それはどうしても困るのだ。
「まあ、頑張ってみるよ」
コーヒーを飲みほしてみると、一時間目開始の五分前になる予鈴が響いた。
もうそんな時間なのかと、慌てて立ちあがる。
授業の要点をまとめたメモが入っているタブレット端末と、電子黒板用のペンをとって職員室を出る準備をする。
「まあ、もう少し気長に付き合ってみますよ」
担任ですから、となるたけ明るい声を張り上げて振り向かずに手だけを振って扉をくぐった。
まずは一組……やはり美波のクラスからの授業だ。
ちょっと早めに教室に着いたので、まだ始業の合図である本鈴は鳴っていなかった。
教室には、もうほとんどの生徒が揃っていて、揃いも揃って友達と談笑している。
こういう時、俺の方は話し相手がいないのでもっぱら暇で、教材の確認をするふりをしながら、生徒たちの会話に耳をそばだてている。
勿論、この教室で細心の注意を払って聞いておくべき会話は、美波の周囲のものだ。
しかも、今日は非常にラッキーだったというべきだろう。
なぜなら、図り合わせたかのようにあいつの話をしていたのだから。
「へえ、そんな約束したんだ。でも、美波は受験大丈夫なの?」
「まあ、どことは言わないけど推薦来てるから大丈夫」
「おー」
どうやら、話を聞き進めてみると、美波は昨日、売り言葉に買い言葉のような口論の末、巷で有名なオンラインゲームを始めることになったらしい。
五年ほど前に世に出たそのオンラインゲームは、いまやプレイ人口が世界人口の半分を占めているらしい。
教師も、生徒と共通の話題を手に入れるためにプレイしている人も数多く見受けられる。
――――――それなりの結果を残せば、学校に来る、か……。
それって、俺がやっても大丈夫かな。
俺が頑張ったらあいつは、学校に来てくれるだろうか。
その確証はないけれど、このまま現実世界だけで頑張っていても、いつまで経っても夕凪とは会えないだろう。
夕凪はそのゲームの中では相当な有名人だと聞いている。
という事はもしかしたら、ゲームをした方が、夕凪とコンタクトを取りやすいかもしれない。
やってみるかという呟きは、授業開始の合図と重なって、誰に聞かれる心配もなかった。