第一話――父の場合――
美波が決意したその日の夜、お母さんが怒って……な話です。
オンラインゲームの中に入り込むのはもう少し先です。
会社から帰宅した途端に、家の中から喧騒のような騒々しさが聞こえてきた。
少しだけドアを開いただけでうるさいと認識できるというのは相当だ。
開けっ放しにするのは相当近所迷惑だと思い、あまりドアを開けないようにして、家に入ってからは即座に閉めた。
それにしても奥では、一体何が行われていると言うのだろうか。
「ただいまー」
きっとあのうるさい状況では聞こえないだろうな、と思いつつ俺はそう言った。
案の定誰かが反応してくれたような感触はなく、今日は一段とヒートアップしているのが分かる。
通学用のカバンを床に置き、スーツを脱いで茶色いネクタイを緩めた。
そうしている間にも、妻、皐月の裏返った怒鳴り声がリビングで反響している。
あんた達はもう受験生だの言っているから、きっと美波ではなくて夕凪が俎上に上がっているのだろう。
軽く手を洗ってうがいでもしたら、仲裁に向かうか、と楽観的にしていたが、夕凪を思うと少しだけ頭が痛くなる。
夕凪も美波も、本当に良い息子娘だ、それは今も昔も変わりがない。
勉強は、二人で学年の一、二位を飾るほどの聡明さであるし、運動はというと、夕凪は小学生の時にサッカーの都の選抜チームのメンバー入りし、美波は中学生弓道日本三位だ。
最近では夕凪は一人でしか体を動かさないらしいから、球技の実力は落ちているかもしれないし、美波は大会の日に風邪をひいていたらしいから、今の二人の実力を正式に分かっている訳ではない。
だが二人とも、市内の器に収まりきるようなサイズではない逸材だとは分かる。
親バカとかではなく、真剣に。
容姿も、両親……つまりは少々口に出すのは憚られるが、俺と妻がそもそも整った方だった上に、お互いの良いパーツを選別して持って行ったらしく、二人とも綺麗な顔立ちだった。
両親に対しては、反抗の声明を上げることなんかほとんど無くて、本当に性格もよくできた親孝行な連中だ。
美波に至っては、今でも一切の問題はない。
無理やり問題点を上げるとするならば、いつもいつも誰かしら男子に言い寄られていることだが、毎度のごとく哀れな男子は玉砕していく。
しかし、夕凪の方はと訊かれると、去年になっていきなり重大な問題が起きた。
学校に行かない、要するに不登校である。
何度訊いても虐めじゃないと言い張るし、実際そんな様子も無い。
勉強も運動もできるし、異性からの人気もあり、学校生活に何の不自由も無さそうなものだが、だからこそ学校は退屈で、刺激が無いらしい。
幸い、独学であろうと勉学の面は問題ではなかったので、テストだけ受けさせたら良いかと思っていた。
だが、今年はそういう訳に行くはずもなく、二人は受験生なのだ。
出席日数が少ないと、内申に響き、ひいては受験に影響が出てしまう。
皐月としては、それが我慢ならないのだろう。
そろそろ、仲裁に入ろうかと思った俺はカバンを拾い上げ、脱いだスーツを持ったままリビングに入った。
ただいま、と言ってみると、ようやく気がついてくれたらしい三人がこちらを振り向いた。
皐月が座り、机を挟んで対岸に夕凪、そして美波までもが座っていた。
まさか美波が夕凪を庇護する形でそこに加わっているのが、かなりの驚きだった。
生来真面目な性格の美波が付くとしたら、不登校の双子よりも、それを説得する母の方が妥当だからだ。
「あら、お帰りなさい。ちょっと聞いてよ、美波がいきなり例のゲームをやるって言うんだけど……」
「例のって……あの、夕凪がやってるオンラインゲームか?」
「そう、Quest Online」
呆れ顔の皐月が、俺の同意を得ようとしてこちらを向き、疲れた口調で要件を告げた。
例のゲーム、Quest Onlineというのは、夕凪を不登校に引きずりこんだ原因の一つだ。
二十一世紀の中期から、株式会社ハナビが研究開発を続け、完成させた体感式アクションゲーム。
コクーンと呼ばれる、繭のような形をした長椅子のようなベッドに座りながら眠ると、夢の中でオンラインゲームをプレイできるようになるらしい。
寝ながらでもプレイできるから、サラリーマンにも人気なのだが、俺は今まで始めようとしなかった。
理由は簡単だ、今までやろうと思わなかっただけである。
そういえば大人気だなぁ、ぐらいの印象で傍観していなかったために、しなかっただけだ。
「何でいきなりそんな事を言いだすんだ?」
事情も聞かずに問いただすだけだと、話は一向に進展しないだろうから、まずそこを明確にさせたい。
美波は、受験が差し迫っているというのに、大した理由もなくゲームに熱中するほど馬鹿ではない。
それどころか、思慮分別があり、生真面目と言っても良いぐらいで、集中力もある。
だからこそ、弓道や成績の面でも芳しい成果を残している。
「夕凪を、学校に来させるため」
「……ゲームからどうしたらそんな話になるんだ?」
夕凪がそれを条件に、本当に学校に来るようになるかというのがいささか疑問ではある。
これまで、誰が何と言っても決して従わなかったこいつが、今さらそんな条件、たとえ夕凪がのめり込んでいるゲームの話であろうと、乗ってくるとは思えなかった。
しかし、意外にも夕凪はにこやかにしながら、俺が真偽の方を確かめると無邪気にも頷いてみせたのは驚きだ。
「美波がさ、学校に行けって言うから、美波の言うことを僕が聞くばっかりじゃ嫌だから、逆に言ってみたんだ。そしたら美波も『もし私がそれなりの成果を残したら絶対に学校に来なさい』って乗り気になっちゃって」
なるほどなぁ、と思わず唸ってしまった。
夕凪に対しての納得や感嘆ではない、これは美波に対するものだ。
今まで自分たちは、学校に行くのは当然の事として、それを押しつけるように話してきた。
しかし、こちらが強硬に出れば出るほど、相手も頑固になっていく、そんな簡単な事を忘れてしまっていたのだ。
その考えをいち早く払拭したのは、一番夕凪が心を許している美波だったのは、まあ妥当なのかもしれない。
「まあ、それなら良いか」
「良い訳がないに決まってるでしょ!」
穏便に丸めようとしているのに、裏返った金切り声で水をさしたのは皐月だった。
その目は、口よりも正直に俺たち三人を非常識だと非難しているのがありありと見て取れた。
さっきからずっと喚いているのだろう、髪が乱れている。
「何に問題があるっていうんだ? 夕凪は、この条件が当てはまれば学校に行くと言っているんだぞ」
「美波の勉強時間はどうするの?」
「寝てる時にプレイするんだから関係ないだろ」
「勉強中に上の空になったら?」
「美波はそんなにやわじゃない」
「受験はどうなるの?」
ここで少し詰まってしまった。
普通に切り返せば良かったのだ、勉強には全く支障は出ないはずだと。
だが、ここで少し返事に悩んでしまったのだが……そこは美波が自分で打破した。
「今日先生から聞いたんだけど……東明から推薦が来てるんだって」
その言葉には、皐月だけでなく俺までもが絶句してしまった。
まさか、東明から推薦が来るとは思っていなかったからだ。
三十年ほど前に改正された教育の法によると、三年に進級した段階で、もう既に私学は推薦入学の枠を埋め始めて良いらしいのだが……東明はさすがに驚きだ。
全国でも屈指の偏差値、そしてなおかつ弓道を含むスポーツにも精を出している。
風邪をひいていながらも中学生三位な上に今の学校では成績もトップなのだから、まあありえなくはなかった。
そしてそれを聞いた皐月は、完全に手の平を返してみせた。
「そうなの!? じゃあ頑張って夕凪を引きずり出してちょうだいね!」
夕凪に学校に来るように説得する方は、もうとっくに諦めていたようで、今日の癇癪は全て美波に向いていたらしい。
そんな事よりも、これ以上はないという朗報を聞いたため、細かい事はさておいて、鼻歌混じりに俺の夕食の準備を始めた。
「あ、そうそう、ついでにその資料置いとくね」
机の上に、東と大きく印字された茶色い封筒が投げおかれる。
どうやら、さっきの話はやはり実話のようだ。
肉が焼けるような音を聞きながら、俺はあることを考えていた。
もうしばらく、子供たちと遊んでいないな、と。
何か、共通の話題はできないだろうか……俺も、夕凪を学校に行かせるのに協力できないだろうか。
そのためには――――。
その夜俺は寝る前に、通販で例のゲームのプレイ用のコクーンを買った。
できるだけ早めに次回も更新したいと思います。
では。