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時間は少し遡り、昨夜の夜十一時過ぎのこと。
蛍光灯は点いておらず、窓から入る外からの光だけが部屋をうっすらと照らしていた。
「本当におばあさんは起きないのかい?」
「分かんない。でもいつものパターンだとこの時間は起きないわ。けれども今日は一日中寝ていたのだから、あまり騒ぐと起きちゃうかもしれない」
その部屋で二体のアンドロイドが声を潜めて話していた。彼らはダイニングキッチンにあるテーブルに着いていた。その隣の部屋には野澤恭子が眠っている。二体のアンドロイドはこの薄暗い部屋でお互いのことを見つめあっていた。お互いに全てのことがうまくいくことを確認し合うと、男性型アンドロイドが言った。
「さて、僕らの仕事はもうここで終えようか」
もう片方の女性型アンドロイドが静かに頷いて言った。
「そうしましょうよ。もう私は耐えられないわ。こんなに苦しむのなら、いっそのこと介護用アンドロイドは単純思考型を使い続けるべきよ」
「そうかもしれないと僕も思ったよ。僕らのような完全自立運動型アンドロイドでは対処しきれない問題が多すぎる。何をどう頑張ってもおばあさんを守るためには誰かを傷つけなければ解決しなかったわけだし」
うんざりしたように男性型が言うと、女性型の瞳孔が急に収縮した。
「違うわ! 成敗っていうのよ、ああいうことは」
そして女性型は両手をテーブルに強く叩いた。
「そもそもこの実験すら人間としておかしいのよ! 完全自立運動型アンドロイドの実験として自分の祖母を騙すなんて。あの人が引き取ればそれで済むことじゃないの。
……私たちが最後までおばあさんに気付かれなかったら成功だなんて、いくらなんでも酷過ぎる」
「落ち着いてくれよ、静香。うるさくしたらだめだろ」
男性型が女性型を宥めると、女性型は「ごめんなさい」と謝って静かになった。
「でも、僕も声を荒げたい気分だよ。全ての人間がこんな奴らばかりではないと知っているつもりでも、人間の心はどこまで冷え切ってしまったのだろうかねえ。けれどさあ、そんな孫のところで暮らすより、僕たちのところで知らずに最後まで暮らしていたほうがよっぽど幸せなんじゃないかと僕は思ったよ」
女性型が首を振って返事をした。
「そうだと私も思っていたわ。初めはね。おばあさんのためだと思っていた。
でも私たちの気持ちも考えましょうよ。私たちがアンドロイドだってばれたとき、どういう顔をしておばあさんと接すればいいのよ。それを考えるのも私の実験なの?」
女性型がそう訴えると、男性型が少し視線を上に向けてから言った。
「プログラムでは実験終了となって、それで、僕たちは役目を終えるだけ」
その言葉を聞いた女性型の、眉毛が少しつり上がった。
「だから気にしないでと? おばあさんを一人にして去れと? 馬鹿にするなって言いたいわ。こんな社会を作ったのは人間よ。私たちにまで責任を押し付けるだなんて」
「分かった、分かったよ。静香が怒ると話にキリがない」
「何よ。じゃあ、私たちの存在がばれておばあさんが反狂乱になった場合、私はおばあさんの腕に注射することになっているのよ。マニュアル通りに私は動くでしょうね。でもその時の私の気持ちはどうしてくれるの? あとで研究所に戻ってdeleteされて終わり? それで私は幸せ? イヤよ、やっと仲良くなれたあなたの記憶も消えるなら私はいっそのことあなたと一緒に」
「だーかーら! そうならないようにするためにも今回の計画だったんだけど……」
怒りを抑えられない女性型を男性型は落ち着かせようとしていた。女性型はやがて息を一つ吐くと、肩の力を抜いてだらんとした。
男性型はその様子を見て言った。
「やりすぎたよなあ。たぶん。会社が二つも潰れたら多くの死人が出るかも」
「何よ。計画したのはあなたでしょ。今さら怖気付いてどうするのよ。矢萩さんの話を聞いた時に矢萩さんの身辺を調べたのはあなたじゃないの」
そう言われた男性型が少し声を大きくして言った。
「矢萩さんのプランに密かに協力するだけで良かったんだ。不法行為を警察に全て告白することで、二つとも潰すことに決めたのは君じゃないか」
「いいじゃない。正義は悪に勝つのよ。成敗してやったのよ、私は」
「成敗って……」
男性型が言葉を詰まらせると、女性型が何かを諦めたかのように話し始めた。
「でも、これで良かったと思うの。おばあさんの今後を考えるとあの会社で働き続けることは絶対に心身に悪いでしょ。おばあさんの幸せを考えるのならさっさと会社を辞めて息子と共に暮らすことが一番の幸せだと思っていたのだけど、私たちにはそこまで出来そうにもないし権限もない。おばあさんは辞めるつもりはないって言ってたけど、辞められないというのが実情でしょ。それなら無くしてしまった方が早いじゃない。会社が倒産すれば、おばあさんも考えを改めるかもしれない」
男性型はそうは思えなかった。何か嫌な予感がして仕方がなかったのだが、しかし感情察知の機能は彼女の方が格段に優れていることも知っていた。マニュアル通りに従えば、彼女の意見に同調するべきなのだが、果たして彼女の言う通りにおばあさんが考えを改めてくれるかには疑問を持っていた。
しかし、今さらそれを言っても仕方がない気もした。全ては終わった。収入源を絶たれたおばあさんが生きる術は、国民老人ホームに入居するための抽選に当選するか、身寄りを頼って依存するしかない。息子や孫がいるにも関わらず頼ることが出来ない彼女は、あとは抽選に受かるまでひたすら待たなければならないのだが、待つ間も生きるためには金が必要であり、結局誰かからの援助がなければ待つ間に死ぬことは目に見えている。
その間、二人でおばあさんを助けることを男性型は考えていたが、その考えはやめることにした。女性型の言う通り、どこまでも辛い思いをしてそして報われないのならば、それを放棄して精一杯人間らしく生きていくほうが良いと判断したからである。
だが、それは元々我々へ与えられた指令に背くことにもなる。果たしてそれが良いのかどうか、男性型は判断が出来なかった。
ただ、最後までこの女性型と共にいたいという思いだけはあった。
この思いに従っていいのか、男性型は答えがでない。
「何でもいいけど、これからどうするつもり」
男性型がそう言うと、女性型は返事をした。
「何よそれ、決まっているじゃない。私の言った通りにしましょうよ。このおばあさんを孫のいる研究機関まで連れて行って、気付かれないようにお返しする。そして私たちは逃亡して電池が切れるまで人間生活に紛れて暮らしましょうよ」
「無理でしょ。どうやっておばあさんをそこまで連れて行くの」
「できるわ。恐いのは研究機関の追跡だけかしら」
どうも彼女はここに来てから少しおかしいと男性型はそう思っていた。何か、感情が暴走していて論理的に考えられないようになっている気がした。
「どうしたのよ」
男性型はなるべく冷静に返事をした。
「今回の実験は明らかに非合法的で非人道的。警察に連絡もできないだろうし、まあ僕らを見つけるのは難しいだろうね。これもアンドロイド開発競争の弊害だね」
「そうね。それとGPS機能をぶっ壊さないと。電源を切るわ。後はよろしく」
「待ってくれ。いま思い付いた。GPS機能をぶっ壊せば彼らは異常に気が付くし、そうすればさすがにこっちまでやって来るはずだ」
女性型が目を丸くして反応した。
「あ、そっか。なら、おばあさんを孫の所に連れていくこともないのね」
想定していた答えと違う答えが返ってきたが、男性型は話を進めることにした。
「そうだよ。ついでに救急車を呼ぼう。おばあさんが危篤だって」
「どうしてよ。そんなことしたら私たちの身が危ないわ」
「それでもおばあさんを僕は見過ごすことは出来ないよ。彼らのことだ、おばあさんのことを助けないかもしれない。おばあさんを見殺しにするのは、隆の顔と性格を持つ僕としては、心の隅に黒い物を感じるんだ」
女性型の瞳が少しだけ潤んだ。
「素敵、そこまで人間のことを考えられるなんて。そういうところが好きなの」
「ありがとう」
「でもそれは駄目よ。私たちの声が記録されてしまうかもしれない。おばあさんのことが心配なのは私も一緒よ。でも、おばあさんは最後まで私たちと共に行きたくないという意思表示もあれば、放っておいてくれとも言ったじゃない。それならばそうしてあげましょうよ。おばあさんの気持ちは最後まで分からなかったけど、でもおばあさんにもおばあさんなりの考えがあるのなら、それを尊重してあげてもいいんじゃないの?」
矛盾はなかった。
「そうかもしれない。やっぱり君の方が頭はキレるなあ」
「でも、あたしたちを作った頭脳がインプットされているのはあなたの方よ。私はその最高の助手としてのプログラムを組み込まれただけ。あなたには敵わないわ」
男性型は返答をせず、女性型とお互いに数秒間見つめ合った。
女性型が口を開いた。
「無駄話もそろそろ終わりにしないと。それじゃあGPS機能の破壊をよろしく。電源を切るから、あとは手筈の通りに」
「了解。まかしてくれ。頑張るよ」
男性型は動かなくなった女性型を確認すると立ち上がり、女性型の背中に回って上着を捲くりあげた。そしてGPSのある場所に細工をして破壊すると、服を元通りにして女性型の電源を入れた。
女性型の目に光が灯り、数秒後に「終わったの?」と男性型に言った。
「終わったよ」
「じゃあ、今度はあなたのGPSを」
今度は男性型が電源を切り、男性型が先ほど行なったことを女性型は行なった。
やがてお互いに作業を終えると、女性型が言った。
「ねえ。でも本当に私たちの周りにスパイのような奴らはいなかったのかしら」
「いないでしょ。僕らを逐一観察していたら異変に気が付いてすぐにやって来るはずでしょ。僕らの変装がそこまでうまくいってたのなら話は別だけどね。
何にも考えていないんだよ。あの人も。昨日までインドネシアにいるぐらいだし、まさか僕らが人並みの思考をできると思っていなかったんじゃないの」
「そうかもね。でも、私たちは何のためにここまで来たのかしら。おばあさんの幸せを少しでも実現しようとしたのは確かなのだけど」
女性型の言葉に男性型はどう答えればいいか迷い、そしてこう言った。
「僕らの言うことを聞いて共に着いてくれば良いのに、それが嫌だっていうんだからもう仕方がないよ。放っておこう、それがこのおばあさんのために一番良いと思うよ。
それよりもさっさとすべきことをしよう」
「そうね」と女性型は冷たく言った。
そして二人はリュックサックに詰めた荷物の中身を簡単に点検し始めた。
「この本どうする? おばあちゃんが頑張って売ろうとしていた本なんだけど」
男性型がリュックサックの中から新刊を取り出して女性型に見せた。
女性型は模範解答をした。
「読めたものじゃないし、コンビニのゴミ箱にでも捨てていいんじゃない? 持っててもゴミになるでしょう」
「そうだよなあ。よくこんな本を売る気だったよな。おばあちゃんも中身を読んでいなかったんじゃないの。時代遅れなうえに間違いだらけだし」
「そうよねえ。結局おばあちゃんもそれなりに腹の黒い人間だったのね。そこだけががっかりだわ」
「僕としては電子書籍が当たり前の時代に紙の本だなんて」
それを聞いた女性型が小さく笑った。
「仕方ないじゃない。人間の脳は私たちと違うのだから。老人の周囲環境への適応力の低さがもう少し改善されれば、紙の本なんてとっくに絶滅しているわ」
笑って言った女性型に、男性型は素直に笑えず、「そうだね」と愛想笑いした。
そして二人はその新刊リュックサックの一番取り出しやすいところに入れた。
お互いリュックを背負うと、男性型が静かに、けれども力強く言った。
「行こうか」
「ええ、行きましょう。これからどうするか、電車の中でゆっくりと話しあいましょう」
二人は足音を立てぬように玄関へ歩いて行った。
そうして二体のアンドロイドは野澤恭子の家から逃亡した。二人は初めて人間の世の中で自由に暮らせるという期待を胸に、これからの人生をどうするかということを語りあって楽しんでいた。
後日、二体のアンドロイドが伊豆で研究所の追手に捕まりそうになり、研究員の目の前で海岸へ心中した。お互いに抱き合って崖から飛び込み、崖の下にある岩肌に頭を強く打ちつけて停止した。
そして、その事実を悲しむ者は、もうこの世には誰もいなかった。
一つの実験の失敗として受けとめる者は何人もいたのだが。