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誰がために何をしたくて  作者: 朝比奈和咲
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 目を覚ますと薄暗い部屋でした。涙でぬれた枕は染みを残してすっかり乾いておりました。

 カーテンの隙間から陽射しが洩れ、畳から私の布団まで一筋の光の線を鋭く描いているのが見えました。外はすっかり明るいようで、私は目覚まし時計を手に取ると、時計は午前八時を過ぎておりました。少々朝寝坊をしてしまったようです。

 いつもでしたら今すぐにでも家を飛び出て会社へ向かわなければならないのですが、昨日のこともあって私には全く動きたいという気持ちが起きませんでした。

 昨日のことが嘘であってほしいと、そう思っても、思えども現実は変わらないということを人生で何度も経験しましたから、今の私には諦めにも似たような気持ちで悔しさや怒りを抑え込むことしか出来ず、私は布団から体を起こすことだけが精一杯で、こうしている、カーテンの隙間に目をやってみる、そうしているのでした。

 それでも昨日のことを思い出し、思い出すとやはり気が落ち込みますし、苛立ちが沸々と腹から起こってきました。幾次郎さんとの話を思いだすと胸を掻きむしりたくなり、最後まで反抗が出来なかった惨めさに悲しくなり、私はそれ以上何も考えたくありませんでした。思えば色々と間違っていたのです。あの会社に入らねばこんな思いをせずに済みました、旦那が死なねば良かったのかもしれない、矢萩さんに出会わなければ良かった、静香さんに進められなければ、けれども全て自分が最後に決めたのですし、最後は私の責任なのだと思うと、自分に悔しくて苦しくてどうしようもありませんでした。

 遅刻して会社に行っても、私の居場所はもうないでしょう。一人ぼっちな職場でしたので私に残留してほしいと思う人もいないでしょう。今日にも退職届を、書かなくともクビを切られることも目に見えています。誰も反対はしませんでしょうし、あんな会社の労働環境に政府のお偉いさんが首を突っ込むことも考えられず、警察に相談することでもなく、私は泣き寝入りするしか方法はないのでしょう。

 私はもう一度体を後ろに倒して布団に寝そべりました。もう起きあがれないような気がしました。起きあがらなくても良い気がしました。


 今日は何をすればいいのでしょうか。矢萩さんの活躍を楽しみにしながら公園で待つことももう出来ません。寝ていても腹は減り、私は体を起こして部屋の外に耳を傾けました。

 部屋の外からは物音は聞こえず、どうやら隆と静香さんは出かけているようです。それともまだ寝ているのでしょうか。

 隆が来る前はいつもこんな朝だったことを思いだしました。その時の私は何をしていたのでしょう。前日の夜に翌朝のご飯を作っていました。隆が来てからそれをサボっていましたが、あの生活がまた始まるのかと思いました。

 静香さんの作ったひじき煮が食べたいと思い、冷蔵庫に入っているか思い出そうとしましたが思い出せません。冷蔵庫はここ数日静香さんに任せきりでしたので仕方ないと思いましたが、もしかしたらついに呆けてしてしまったのかと思いました。

 とりあえず起きあがろうと布団から出ると、その時インターホンの音が聞こえました。

 膝を付くと腰が少し痛み、私は少しそこで動きが止まりました。

 しかし立ち上がれないほどではなく、私はゆっくりと立ち上がりました。湿布を後で貼り直さねばと思いました。隆か静香さんが帰って来てくれればいいなと思いました。

 歩きだして部屋のドアを開けました。またインターホンが鳴りました。

 私はダイニングにあるインターホンを見ました。玄関前の様子が見え、そこには半袖のYシャツを着た体格の良い男性がいました。私の知らない人でした。

「はい」

 私がそう言うと画面に映された男が咳払いを一つして、そして重みのある低い声で言ってきました。

「警察ですが、お話を伺ってよろしいでしょうか」

「警察、ですか」

 嫌な緊張感が背筋に走り、「少々お待ち下さい」と私は言ってインターホンを切りました。そして警察が何の用だろうかと思いながら私は玄関に向かって行きました。

 警察のお世話になるようなことは身に覚えがありませんでした。この辺でまたお年寄りを狙った強盗でもあったのでしょうか。警察を装った強盗も近頃頻発していると聞きましたので、玄関に着いた私は警戒心を切らずにドアチェーンを外さずにゆっくりと開けました。

 玄関のドアの隙間から私は挨拶をしました。

「開けてもらえませんかね」

 そう言って隙間から警察手帳を私に見せ、そして「少し時間をよろしいでしょうか」と先ほどより明るめに言ってきました。

 警察手帳を持っているのなら大丈夫だと私は思いドアチェーンを外しました。

 ドアを開けると先ほどの大柄な男がそこにいました。その後ろにもう一人、少々若い男が立っていました。若い男と目が合うと「ご迷惑かけて申し訳ありません」と頭を小さく下げてきました。

 その時になって、私は緊張感というものが戻ってきました。交番以外で警察と話すのは初めてで、私の背中には汗が噴き出してきました。

 私は落ち着きを払って「どうしたのでしょう」言いました。

 警察手帳を私に見せた男は「すぐに終わりますので」と言い、後ろにいる若い男が手帳を取り出して、そしてメモを取る体勢をとりました。

「野澤恭子さんですね。お勤めの会社には今日は行かれないのですか?」

「休みですので」

 すぐに私は嘘を付いたことに気がつき訂正しようと思いましたが、大柄な男のお方は私の答えに大した反応を見せず、「そうですか」とだけ言ったので、私はあえて訂正しませんでした。

 少しだけ沈黙して、男のお方が口を開きました。

「先ほど、追田幾次郎を高齢者に対する悪徳商法罪及び強要罪の容疑で逮捕いたしました。そこで、主犯である矢萩隼を指名手配しているのですが、矢萩の行き先など心当たりはないでしょうか?」

 私は言葉のほとんどが理解出来ませんでしたが、逮捕という言葉だけはよく耳に残りました。

「その、どういうことでしょうか」

「詳しくは後でお話しますので、それで矢萩の行き先は」

「心当たりも何も、あの人は私の売上を上げてくれた方ですけど」

 メモを取る若い男のお方が私の言葉に反応し鋭い視線を私に向けてきました。私がその視線にびくつくと、私に質問をしていた男のお方が「気を楽にして下さい」と言って、「それで、あの人とは」と続けてきました。

「矢萩さんですけど」

 私がそう言うやいなや、男のお方の目がさらに鋭くなったように見えました。

「それですが、矢萩さんのやり方を御存じでしたか?」

「いえ、特に、何も聞かされてはおらず」

「知らない、でよろしいですか」

「ええ、まあ」

 男のお方は数回頷いて、「そうですか」と言いました。

「もう一つすみません。矢萩さんと連絡は取れるでしょうか」

「携帯電話の番号なら」

「すみません。拝借してよろしいでしょうか」

「待っていて下さい」と私は言って携帯電話を取りに行きました。携帯電話は私の部屋の鏡台の上に置かれていました。着信があったことを伝えるライトが点滅していました。確認してみると幾次郎さんからでした。留守電が入っているようでしたが今は確認をしているヒマもないために、私は携帯電話を持って、玄関にいる警察の方のところまで持っていきました。

「確かにありますね。すみません。電話を」

「ええ、どうぞ」

 険しい表情をしながら大柄な男のお方は携帯電話を耳に当てました。

 数秒間、張りつめた空気の中で私はじっとしていました。

「駄目だ、これも繋がらない」

 そう言って後ろにいた若い男のお方に話を振りました。

「何も得られそうにないですね」

「ああ」と言って、私の方に振り向くと、携帯電話を返してきました。

「ありがとうございました。近々こちらからあなたにいくつかお尋ねになるかもしれません。ご協力の方、どうかよろしくお願いします」

「あの、何があったのでしょうか」

 何があったのか知りたくて私は立ち去ろうとしたお二方を止めました。

 大柄な男のお方が振り向いて私に一礼してから言いました。

「申し訳ありませんが今のところこちらからは何も言えないのです。ですが矢萩を逮捕次第、あなたにもお話を伺うかもしれません」

「逮捕ですって? 矢萩さんが何をしたのでしょう?」

 驚いた私が声をあげると、お二人は「直に分かるかと思いますので」と言ってそこから背中を向けて去ってしまいました。私が引き止めるために声を掛けても、彼らは「いずれまた」とだけ言って、そうして玄関から出た私は廊下を歩いて行くお二方の背中を見ているだけしか出来ませんでした。


 言葉を失ったまま私はダイニングまで戻り、テレビを点けました。もしかしたらテレビでニュースになっているかもしれないと思ったからでした。

 テレビを着けると、私が勤めていた会社が映りました。多くのマスコミが入口に群がって騒々しくしておりまして、右上のテロップには『速報! 不正競争防止法違反の疑いで○○出版社の社員を逮捕』と書かれていました。

 画面がスタジオに変わると、女性キャスターが落ち着いた様子で何があったのかを話し始めました。その話は私にもすぐに分かりました。

 どうやら矢萩さんは未登録のアンドロイドを使っていたらしく、それがまずいけなかったようです。さらにそれを使った広告戦略もいけなかったようです。アンドロイドを使用した広告活動は法律で禁止されていたらしく、私はそんなことは露も知りませんでした。

 ニュースを見ていると矢萩さんの会社は他にも不正をしていたらしく、介護センターに未登録のアンドロイドを不正改造して売りつけていたことも発覚し、さらに矢萩さんは現在も逃走を続けているとのことでした。

 メガネをかけた男性コメンテーターが「この事件は裏にもっと大きな組織が繋がっているかもしれない。徹底的に調べて再発防止をすべき」とのことを言い、スタジオにいる他の人の賛同を得ていました。

 私はあの優しい矢萩さんの後ろに大きな組織が繋がっているとは思えず、もう一度矢萩さんに電話をかけてみましたが、やはり繋がりませんでした。もしかしたら矢萩さんも利用されていただけなのではと思いました。

 時間を置いて電話をかけてみましたがやはり繋がりません。そうしているうちにテレビのニュースは別の話題に変わっており、今度は芸能人の離婚の話題になっていました。私の知らない若い二人の顔が映されました。男は矢萩さんに似ているように見えました。

 私はテレビを消し、冷蔵庫を開けました。ひじき煮はありませんでした。麦茶を取り出し、コップと麦茶をテーブルの上に置き、私は椅子に着きました。

 なんだかもう疲れてしまいました。私が自分の身の回りにしか興味を示していなかった間に社会はみるみる変わっていったようで、私の若い頃の常識はもう通用しないのかもしれないとも思えてきました。矢萩さんはアンドロイドの不正について知っていたのでしょうか。もしや、私と同じように会社からは何も知らされずにやっていたのではないでしょうか。

 いいえ、そんなことはないのでしょう。そもそも矢萩さんは私に最初「二人だけの話」として持ちかけてきたのですから。しかしあれも会社のマニュアルであったならばと思うと、矢萩さんが不憫でなりません。

 考えれば考えるほど嫌になってきます。そもそも何もしないで商品が売れるなどというおいしい話などないと分かっていたはずです。あの時点で私がきっぱりと断っておけば会社はこのよううな事態に陥らなかったのではと思うと、まるで私が潰したように思えてきてしまい、胸が潰れるような思いになりました。

 静けさが嫌になり、テレビを点けると新たな情報が入ったということでまた私が勤めていた会社が映し出されました。そして会社と矢萩さんへの批判は続き、聞いてもいられなくなった私はテレビを消しました。


 全ては私が悪いのかもしれません。

 隆と静香さんはこんなことを引き起こしてしまった私でも、まだ共に暮らそうと言ってくれるでしょうか。もう言ってくれないかもしれません。けれど、もし言ってくれたら私はもう意地など張らず、素直に彼らと暮らしたいと願っています。願っていいのでしょうか。旦那には悪いのですが、孫と暮らせるのなら、私はもうこの家から出て行きたいと思います。

 二人はどこかに出かけているようです。早く帰って来てほしいです。私の素直な気持ちを今度こそは伝えようと思っています。意地など張らずに。

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