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うっすらと目を覚ますとまだ部屋は明るく、私は枕元にあった目覚まし時計に目を向けますともうとっくにお昼を過ぎていたことが分かりました。
腰に貼られた湿布が効いているのか、腰は朝方よりはだいぶ楽になっていましたが、それでも若干痛みは残っており、寝ているばかりのせいか腹も減っておらず、ですので私はもう少しこうして横になっていようと思いました。
時計の横に置かれた私の携帯電話のランプが黄色に点滅していることに気がつき、私が寝ている間に誰かが電話をかけてきたようでした。行儀悪く寝そべったまま私は携帯電話に手を伸ばしそれをいじると、電話の主は矢萩さんだと分かりました。
私は仕事のことだと思い、すぐに電話をかけ直しました。新刊の売上がどうなっているかを知りたいという思いもありました。いま一つ目が覚めきらず、相手にそのことが伝わらぬように心がけようと私は短く息を一つ吐いて気合い付けをしました。
コール音が聞こえ、すぐに矢萩さんと繋がりました。矢萩さんの声が聞こえてきました。
私は電話に出れなかったことをまず詫びると、矢萩さんはそれに快く返事をくれ、さらに私の勤める会社を訪問したことを私に伝えてきました。
「本日は会社の方にお見えにならないとのことを聞きました。幾次郎さんから体調を崩されたと聞きまして、それでお体の方は大丈夫でしょうか」
「ええ、ちょいと腰を痛めてしまっただけですので」
「そうですか。でも無理はなさらずに。仕事の前に健康第一ですよ。私も妻によくそう言われるんですよ。私が働かないと医療費すらケチらなければいけなくなるというのに」
「そうなんですか。でもお嫁さんも心配なんですよ。私なんかこの歳ですから、風邪でも患えばもう働けなくなるかもしれませんし。やっぱり健康が一番大切ですよ」
矢萩さんは私の言葉を聞いて笑い声をあげ、私もそれにつられて小さく笑いました。
「おばあさんに言われてしまっては、私も健康に気をつけさせて頂きますよ」
「ええ。それが一番です。それでなんですが、どういったご用件で会社に」
私がそう言うと、矢萩さんは「ああ」とだけまず言って、そして若干ですが声のトーンを落として話し始めました。
「幾次郎さんからもうお話を聞いたかもしれませんが、この度は私どものプランに対して高い評価を頂けたようでありがとうございました。野澤さんと幾次郎さんが提示された内容で契約をさせて頂くことになりましたので、私からも野澤さんに一言お礼を」
私は矢萩さんが何を仰っているのか、それでも矢萩さんは話を続けていきました。
「幾次郎さんからは野澤様に全て伝えておくので、とお聞きしたのですが、この販売促進プランを全面的に信頼し、かつ取り入れて下された方はあなた様が初めてでしたので、やはり私からもお礼を申し上げなければと思い、こうしてお電話を。
いやあ、本当にありがとうございました。まさかここまでスムーズに契約まで取りつけられるとは思ってもいなかったもので。多くの方は疑心暗鬼になって話すら聞いてくれないというのに、あなたのような柔軟なお方に出会えて本当に良かったと思っています。私もこれでしばらくの間は喰い扶持に困らずに済みそうです。これから末永いお付き合いになると思いますが、これからもよろしくお願いします」
「その、仰っていることがよく飲み込めないのですが」
思わず私はそう言いました。すると矢萩さんは驚いた声を短く発しました。
「まだ幾次郎さんからのご連絡は?」
「いえ、まだありませんが」
私が率直に言うと、矢萩さんは返答に困っているようでした。
私も返答が出来ず、若干の間が開きました。
「それは申し訳ありませんでした。しかし、契約内容は御存じなのでは」
「いえ、それも」
「昨日のお昼過ぎに会議を開いたのでは。そこでこのプランの即時取り入れを決定したと聞きましたが、その場にいたのでは」
「いませんよ。私は外回りに出ていましたので」
「あれえ。おかしいですね」
私は嫌な予感がしてたまりませんでした。矢萩さんは「本当に耳にもしていないのですか」と言ったので、私は我慢できずに一番聞きたいことを聞きました。
「どのような契約をなさったのでしょうか」
私が言うと、矢萩さんは「少し待って下さい」と言って、ごそごそという音が聞こえてきました。
短い間でしたが、私はその間が嫌で我慢できませんでした。私にとってはどうしてか不吉なものしか感じられず、矢萩さんの声を一刻も早く聞きたかったのです。
「すみません」という声がやっと聞こえ、矢萩さんが言い始めました。
「言うなれば新刊の販売促進についてのプランです。私としては基本的にあなた様のプランと行うことは変わらないのですが、販売促進する新刊を『酷暑対策と節電』から『日本の将来』に変更して、さらに使用するアンドロイドの数を最大にするという契約内容です」
「新刊の変更ですって!?」
思わず私は悲鳴に近いような声をあげました。
「そんなこと私は一つも聞いていません! どうして」
「しかし、会社としての判断に間違いはないかと思いますが。
その、こちらとしても元から少しでも売れる見込みが高い商品の方が、言ってしまえばやりやすいですし効果も顕著に現れますし。そちらも売上が伸びますので相互利益の拡大には繋がるので」
「あたしは聞いていません」
語尾を強めて言うと、矢萩さんは初めにいくつか言葉を詰まらしました。
「そのようで私も驚いています。しかし私から何と申し上げて良いのか。この問題はあなた様の企業内の問題でありますので、私から御社に話が違うと声を挙げることは出来ません。契約自体は悪いものでもありませんし、私の仕事は、申し上げにくいのですが契約を結び成果を上げることがまず第一なので」
私は納得がいかず、何も知らないうちに話が進められていたという、こんなふざけた話があるかと、その苛立ちを矢萩さんにぶつけそうになりました。
しかし、矢萩さんは何も悪くないということも分かっており、閉口することしか出来ませんでした。腹に力がこもり、唇を震わせているしかありませんでした。
矢萩さんも私の返答を待っているのか言葉が出ないようで、するとドアが開き静香さんの姿が見えました。静香さんは動揺を隠さずに「どうしたんです」と言ってきました。「どうしもしないよ」と、もし電話が繋がっていなければ私はそっぽを向いていたかもしれません。
静香さんに「大丈夫だよ」と口を開こうとしたとき、電話口から「すみません、私も商売なので」と申し訳そうに言う矢萩さんの声が聞こえてきました。
「そうですか」と私は言いました。
「はい、申し訳ありません。ですがこちらとしてもトラブルは避けたいものです。何かややこしいことになっているようですので、一時間ほど時間をおいてから御社にもう一度ご連絡させて頂きます。どうかそれまでにそちらでお話を纏めて頂けると、こちらも」
「私が担当する新刊はどうなってしまうのでしょうか」
「こちらの契約では、全てキャンセルという形になっています。ある程度プランを進行させたために余剰効果は若干ですが期待できますが」
「今までのように売れるということはない、ということですね」
「はい、たぶんそうなると思います。
私は平行してプランを進めることも可能だと申したのですが、幾次郎さんは力は一つにまとめた方が良いと言い張りまして、あなた様もそれで納得しているとも聞かされましたので」
嘘八百、私は幾次郎さんが許せませんでした。
「分かりました。今すぐにでも幾次郎さんに電話をしてみます」と私は言って、今すぐこの電話を切って幾次郎さんと話さなければならないと思いました。
「よろしくお願いします」と矢萩さんは言ったので、「こちらこそ」と返答すると、「失礼します」とお互いに言い合って、私は電話を切りました。
すぐに携帯電話で幾次郎さんに電話をかけようとすると、入口で佇んでいた静香さんが部屋に入って私の隣で腰を下ろし正座しました。
「急に怒鳴り声が聞こえたので。何かあったんですか」
「ちょっとね、いや何でもないんだよ」
私がそう言っても静香さんは私に何があったのかを尋ねてきましたので、私はこれから仕事のことで電話をしなければいけないからと静香さんに断りを入れました。それでも静香さんは最初は出て行こうとはしませんでした。
誰かに見られていると電話をしづらい、今すぐに電話をしなければいけないと私は言って、ようやく静香さんは部屋から出て行きました。後ろ姿を見ながら、少し剣幕な面持ちで言ってしまったことに対し、静香さんに悪いことをしてしまったなと思いました。
襖戸が閉まると同時に私は幾次郎さんに電話をかけました。
しかし、電話は繋がりませんでした。
めげずに二度目、そうして四度目になってやっと繋がりました。
繋がると同時に、幾次郎さんの「何だよ」という声が聞こえてきました。
「幾次郎さん、矢萩さんから聞きましたが」
力強く言いました。何が何でも負けてはいけないと思っていました。担当した新刊の売上数による歩合も給料に含まれるのですから、このまま話を進められれば幾次郎さんの一人儲けになってしまうと私は危機を感じていました。せめて、私の新刊を入れて貰わねばと考えていました。
「うるせえなあ。会社のためになるのはどう考えてもこっちじゃねえか」
「あの話を最初に受けたのはあたしですよ。それがどうして幾次郎さんの主導に」
「受けたんじゃなくて貰ったんだろうが。そこ勘違いすんじゃねえよ。棚からぼた餅を一人占めしたかったんだろ。これだから女が職場にいると面倒なんだよ」
最後の言葉が胸に刺さり、私は喉が詰まってしまいました。
「知ってるか。誰もがお前に辞めてほしいって思ってることを。言っておくけどなあ、空気の読めない女ってのはどこでも嫌われるんだよ、覚えとけ、このバーカ」
「それとこれとは」
私が反論しようと口を開くも、幾次郎さんはそれを気にせずに私を押しつぶすかのように口調を強めて言ってきました。
「会社の利益と個人の利益の区別もつかない。あーあ、嫌だねー、これだからババアは使えねえんだよ。脳無しのくせして働きたがる。てめえらのせいでどれだけ働ける男が働けなくなったか。何が男女平等だ、だったら男にも出産させろっつーの、なあみんな!」
そう言うと電話の後ろから笑い声が嫌なほど耳に入ってきました。
「これが民意だ、クズ」
「そうそう、お前の新刊はもう売れないだろうから、まあ覚悟しとけよな。まあ、いつも通りに戻ったまでだ。どっちみちクビになるのは分かってただろ」
「せめてもの情けで退職金ぐらい少しは出してやるよ。ただし自主退職でな」
また笑い声が聞こえてきました。自主退職では国からの失業保険が貰えないことなど誰でも知っていることです。
「辞めさせて欲しかったら頭を下げるんだなー」
また笑い声が聞こえてきて、私は電話を切りたくなりましたが、何か言い返したくて口を開けようとしました。
「あー、あとねえ。お前の病欠届け、あんなの理由にならないから。腰が痛いからお休み致します、だって、舐めてんのか、お前。なあ! 舐めてんのかって聞いてんだよ!」
「それはあなたが休んでもいいって」
私がそう言うと、幾次郎さんは急に怒鳴りました。
「あー! バーカ! 仕事なめてんじゃねーよ! これから新刊が売れて忙しくなるってのによー! お前さー、忙しい時になると全然使えねーじゃん! 前もそうじゃん、いつもそうじゃん。都合の良いときだけ女という理由でどうせ逃げるんだよ、女っていつもそーだよなー。
そんなんでよく生きてこれたなあ、女って楽だねえ、え!? 楽に生きてきたから今どーしていいか、わかんねーだろー! 教えてやろーか! え!?」
「結構です!」
「荷物運びで腰を痛いんだろ、ならさっさと辞めちまえよ! 頭下げて息子のところにでも転がりこめよ。逃げ道があるくせに稼ぎやがって、気持ち悪いんだよ。おい、聞いてんのか、ここはなあ、金が無い奴が働く場所なんだよ、分かる? 分かんねえよなあ、世間体やプライドばっかり気にする女にはよ!
働くことが生きがいだって!? 履歴書に嘘八百書きやがって!
大嫌いなんだよ! 長生きババアのせいでこの国は駄目になったんだよ! 聞いてんのか! ごく潰しはゴキブリでも食って生きてろや!
過労で死んでくのが男の常識なんだろ、お前らにとってはよ! お前が大事にしなかったから旦那はさっさと死んだって未だに気付かねえのかよ! 長生きしたらしたでぶつくさうるせーしよ、このバーカ!」
聞くに堪えられなくなり、携帯電話をドアへ投げつけ、ぶつかった音がして、携帯電話を床に落ちました。まだ怒鳴り声が聞こえて、ドアが開くと静香さんが呆然とした顔で部屋に入ってきました。
携帯電話からはまだ声が聞こえてきました。静香さんは携帯電話を拾うとしばらく電話を見つめていました。
私はいま息が荒いことが自分でも分かります。悔しさや怒りといった感情をなんとか必死に抑えようと思いました。
「悪いねえ。ちょっとカッとなってしまって。さっさと切っておくれよ」
そして静香さんに気を使わせぬよう声をかけたつもりでした。電話からは未だに罵声が聞こえてきます。
「なにも言わんといてくれよ」
私がそう言うと静香さんは静かに電話を切り、私のことを見てきました。
「おばあさん……」
静香さんは少し目が潤んでいるようでした。それを見た私も急に涙を流しそうになり視線を下に逸らしました。
「静香さん。ちょっと一人にさせてくれんかい」
「そんなこと言われても。おばあさん、何かあったのなら素直に」
「私のことはほっといてくれ。少し仕事でつまづいちゃってね。大丈夫だよ」
そう言って私は体勢を変えて静香さんに背中を向け、そっぽを向きました。これ以上惨めな思いはしたくありませんでした。あのとき教えないで一人占めしておけば良かったと今さら思いました。思えばどうしてあんな首を絞めるようなことをしたのでしょう。
胸が苦しく、目が潤んで誰にも会いたくもありません。
「出て行ってくれよ」と誰にも言うわけでもなく呟きました。
部屋から音が消えました。鼻をすする音だけがかすかに聞こえます。音は私からです。
「そうですか」と静香さんは言いました。
「なにかあったら、絶対に仰って下さいね。一人で抱え込むにも限界があるでしょう」
私は返事を返しませんでした。放っておいてくれという言葉を喉奥で飲み込みました。
そして静香さんは立ち上がると、音を立てぬように部屋からそっと出て行きました。襖の閉まる音も聞こえませんでした。私のすすり泣く音で耳がいっぱいになっていました。
布団を頭までかぶり、その中で悔しくて泣きました。
最近は泣いてばかりです。疲れて辛くて、もう楽になりたいです。
夜になっても悲しみも悔しさも晴れることがありませんでした。
心配になって声をかけに来てくれた隆にも返事をする気にはなれませんでした。様々な思いが胸の内でひしめき合い、昼過ぎと比べて少しは落ち着きましたが誰かと口をきく気にはまだなれませんでした。先ほどから隆は私の背中の後ろにまだいます。
隆が優しい声で言ってきました。
「おばあちゃん。真面目に聞いてほしいんだ。僕らと一緒に暮らさないかい」
どうせ私が一緒にいてもお荷物となるだけでしょう。口を開けばそういう言葉が出てきそうで怖くなりました。もう死んだ方が楽なのかもしれないとも思いました。しかし、自然に死にたいという気持ちがどうしても心にありました。旦那とお別れのとき、最後までがんばると約束したことを思い出しました。
なにを頑張れというのでしょう。私は何をしたいのか、金も無く好きなこともなくただ生きていくだけなのかと思うと辛くなり目の前が落ちて行くような気がしてなりませんでした。
「お金とかの問題じゃなくてさ。もう一人で生きていくのは無理があるんだよ」
それはもう昔から分かっているつもりでもありました。
「だからさ、一緒に暮らそうよ。静香もいるし」
隆の気持ちを無下にしたくはありません。
それでも私は正直な気持ちを口にしました。
「それもいいかもしれないけどねえ。私はもう疲れちゃってねえ、どうせならお父さんと最後まで暮らしたこの街で最期を迎えたいんだよ」
「でもさあ、この先まだ長いんだし」
たぶんこの気持ちは孫には分からないでしょう。いずれ分かってくれると信じています。隆にだって、こんな老いぼれを家におくのなら、静香さんと二人で共に暮らしたほうが絶対に幸せなのですから。いずれ旦那のように呆けてしまえば、お荷物どころではすまないのでしょうし。
「疲れたから、またちょっと横になるね」
「おばあちゃん」
「あんたはあんたの好きな人生を歩みなさい。おばあちゃんはまだ一人で頑張れるから」
私はそう言って寝返りを打って隆に顔を向けました。腰はもう痛みが無くなっており、湿布の効能の凄さを改めて感じました。整形外科が儲からないはずです。
隆の顔は何とも言い難そうな表情をしていました。
「おばあちゃん……。分かったよ」
そう言って隆は立ち上がりました。