表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰がために何をしたくて  作者: 朝比奈和咲
3/6

3

 次の日の午後、私は矢萩さんが仰った通りに致しました。外回りのときには書店へ足を運ばず、気楽に外でぶらぶらとしていて下さいと言われましたので、お昼過ぎから外回りに出た私はいつもと違い書店へは近付かず、その代わりに広い公園を散歩したりベンチに座って日向ぼっこしたりとしていました。夏だというのに今日も涼しく、入道雲が見えるのに気候は初春のようでした。深い緑色の葉が季節外れのように感じ、同時に私がここにいることも場違いのように思えました。しかし矢萩さんの言うことを信じると決めたのですから、私は仕事をサボっているという後ろめたい気分を抑えて、此処に居続けることにしました。「たまにはいいじゃないか」という私を残して逝ってしまった旦那の声が聞こえた気がして、私は旦那と過ごした記憶を思い出しながら時間を潰すことにしました。

 こうしているだけでも時間は過ぎていき、あっという間に太陽は西の空へ運ばれていきました。途中で暇を感じてしまい、次は何か一人で楽しめる物でも持ってこようと感じました。やがて、携帯電話の時計を見るともう五時を過ぎていました。

 私はベンチから立ち上がり会社に戻ることにしました。そういえば蝉の鳴き声が一度も聞こえませんでした。もしかしたら今年は涼しいために鳴かないのかもしれません。あの蝉の鳴き声はもしかしたら暑さに対する悲鳴だったのではないかと思いながら、蝉のいない木の横を抜けて私は公園から出て行ったのでした。何かが足りないような気分を抱きながら、私は歩道をゆっくりと歩いていくのでした。

 会社に戻れば、幾次郎さんにやっぱりいつも通り怒鳴られました。それでも今日はサボっていたものですから、可笑しな話ですが心の中で舌を出す余裕があったために、いつもより清々しい気持ちで退社することが出来ました。それでも満員電車の辛さは変わりませんでしたが、家に帰れば孫がいるというのも嬉しくて、電車を降りれば私は久しぶりに軽い足取りで家に帰れました。



 そして一夜が明けました。空は今日も曇り空でした。

 その日、私がいつものように出社すると、すぐに思いがけない情報が届きました。今日も涼しいのですが、開店と同時に新刊が売れたという情報を街の小さな書店から頂いたのです。さらにどういうわけかあちこちの書店で新刊が売れ始めたらしく、次々と在庫発送の御注文が入ってきました。急いで私は在庫のある自社倉庫に電話をかけ、今すぐ在庫を発送するように連絡を入れました。連絡を入れながら私は矢萩さんのことを思い出し、彼に感謝の念を感じていました。

 しかしお昼前になると、書店からの連絡はぱったりと止まってしまいました。ですが私は落胆をすることはなく、一冊も売れなかった新刊が売れたことは大きな進歩だと感じていました。幾次郎さんに午後も注文がくるかもしれないということを伝えると、それらの事務処理は派遣社員に任せるから午後はいつも通り外回りに行けとのことでした。幾次郎さんはあまり顔が冴えておりませんでした。私はその命令に逆らえるはずもなく、外回りに出ると、昨日のように公園へ向かいました。

 公園へ向かう最中に、携帯電話が鳴りました。それは矢萩さんからの着信でした。私は矢萩さんに「ありがとうございます」と心で唱えながら通話ボタンを押しました。

「矢萩です。どうですか、まずまずの成果がご覧になられたかと思います」

「ええ。ありがとうございます。おかげで今年の夏も無事に過ごせそうです」

 そう言うと、矢萩さんから笑い声が聞こえてきました。

「まだ数十冊ではありませんか。これかもっと売れ始めますよ。期待して待っていて下さい。一週間後にはピークを迎えているかと思います」

「そうですか。本当にありがとうございます。何かお礼をしたのですが、今度いつお会いできますでしょうか」

「お礼だなんて。これはビジネスですから、でもそのお言葉を頂けて私は身に染みる思いですよ」

 私はもう一度御礼を言うと、矢萩さんが電話の本題に入りました。

「これからのことなんですが今は外回りに出られておりますか?」

「はい」

「そうですか。あと数日は我慢して公園とかでぶらぶらとしていて下さい。ピークの数日前のときにこちらからご連絡いたします。その時に、書店さんのほうへ足を運んで頂くことになります。そこで行なうことは後でまたご連絡します」

 あと数日もこうして公園にいられると思うと肩の力がすっと抜けていきました。数日後に私が書店で何をするのかは分かりませんが、成果もでておりますし、矢萩さんを信じると一度決意したのですから今さらその決意がぐらつくことも気分が悪く、何も聞かずに彼に全て任せることにしました。

 私がその旨を伝えると矢萩さんは「ありがとうございます。ではこれで」と短い言葉を残し、そうして電話は切れたのでした。そして、今日も公園でのんびりとすることと致しました。こうしている間にも本は売れていく。公園は麗らか春のような気候で、私の心も晴れやかな気分でおりました。


 そして今日も私は定時に退社することになりました。公園から会社に戻ったとき、幾次郎さんが「あの後、また本が売れたよ」と言い、その後に何か言いたそうな顔をしていましたが、最後まで私には何も言わずに私に退社を促したのでした。

 自宅に着くと、隆と静香さんに出迎えられました。静香さんに「顔が明るいわ、何かいいことあったのね」と言われ、私は矢萩さんのおかげで新刊が売れたことを言いました。夕飯の支度が出来ていたので、その話は夕飯を食べながらすることになり、席に着いた私はさっそく本が売れたことを言いました。矢萩さんのおかげで新刊が売れ、本当に感謝しているということを力強く言うと、静香さんが言いました。

「それは少し違うわよ、おばあちゃん。矢萩さんがしたことはせいぜいその本の宣伝をしただけであって、その本の内容が悪かったら売れないでしょ。それにおばあちゃんが必死になって外回りをしていなければその本だってもう書店に置かれていなかったのかもしれないじゃない。全て矢萩さんのおかげでもないし、おばあちゃんももっと胸を張っていいのよ」

 私はこの言葉に胸を打たれました。声も出ませんでした。そうだと思いました。全て矢萩さんのおかげでもなく、考えてみれば会社も本も私一人で出来たものではありません。多くの人の力で成り立っていると思うと、何を勘違いしていたのだろうと私は思いました。

「おいおい。おばあちゃんを泣かすなよ、静香」

 隆がそう言って笑いました。歳をとると涙腺が緩んでしまい仕方がありません。

 ですが、久しぶりに涙という涙を流したような気がしました。こんなことで泣いてしまう私が恥ずかしくて、早く涙を止めたい気持ちでいっぱいになりました。



 次の日、私が出社すると、昨日と同じ午前中が待っていました。しかし残念ながら昨日の売上数には届きませんでしたが、今まで一冊も売れなかったものが徐々に売れてきているのですから、成績は上々といってよいものだと自負していました。

 すると、単純な私なのかもしれません、どうやら食欲も戻って来たようで、お昼過ぎになると私は久しぶりに社員食堂でかけうどんではないものを頼みました。かつ丼を食べたいという思いもあったのですが、食欲が戻っても胃袋はまだ準備不足なようで、悩んだ末に私は健康定食を頼みました。冷奴に鮭の塩焼きにひじき煮など、多くのおかずがお盆の上に乗りました。私はそれを持って空いている席に座りました。

 ご飯を食べているとき、幾次郎さんの姿が見えました。幾次郎さんは私を見るといつも通りに私のところにやってきましたが、表情はいつもと違い冴えていませんでした。私の前の席に着くと、重たい声で私に声をかけてきました。

「なあ、どうして急にあの本が売れるようになったんだ。教えてくれよ」

 味噌汁をすするのを止めて、私は矢萩さんのことを言うかどうか迷いました。この会社の給料は成績による歩合制も含まれておりますので、幾次郎さんに教えればもしかしたら私の売上が落ちてしまうかもしれないと思ったからです。

 しかし、いずれは上司である幾次郎さんにも言わねばならないでしょうし、言うのならば早いうちに知らせておこうとも思えました。会社は私だけでなく、多くの人で支えられているのですから、良い結果を生み出しているこのプランを独り占めしていることは何かずるいような気も致しました。

 私が矢萩さんとのことを伝えると、幾次郎さんの顔つきが鋭くなりました。

「やっぱりあの男だったのか。そうか、それであいつと連絡を取りたい。すぐに連絡先を教えてくれ」

 身を乗り出すような勢いの幾次郎さんに「はい。分かりました」と私は言って電話番号を教えました。すると幾次郎さんは「ありがとう」と言って立ち去ろうとしたので、私は引き止めてこのプランの予算のことについて聞きました。

「なんだ。そんなのなんで早く言わないんだ。会社の金でなんとかするに決まっているだろうが」

「そうですよね」とそれを聞いた私は安心いたしました。またいつものように給料から差し引くと言われたらどうしようかと思っていましたので、この一言は私にとって非常にありがたいものでした。これで私は堂々と矢萩さんと話を進められると思いました。

 そして午後はやはり外回りに行けと言われたので、私は昨日と同じように公園へ行き、そして今日は本でも読みながら時間を潰すことに致しました。


 木陰のかかるベンチに座って本を読みふけっていたとき、携帯電話がなりました。電話先は幾次郎さんで、出来れば今すぐ会社に戻ってほしいとの連絡でした。

 電話で呼び戻されて会社に戻ると、幾次郎さんが「すまないね」と言って今度は私に倉庫まで行って欲しいと頼んできました。倉庫にある私の担当している新刊とパソコンのデータの数がまるで合わずに困っているとのことで、様子を見に行ってくれとのことでした。

 私が倉庫に着くと、そこで中年の従業員に人手が足りなくて数えているところではないと言われ、そんなことよりあれこれ運んでほしいと言われました。断ることも出来ず彼らの言われるままに動き、忙しさのあまり疲れを感じることなく私は汗をだらだらと流しながらやっと作業を終えました。作業を終えた時にはもうすっかり日が暮れていまして、帰路に着く前に携帯電話を見ると、何件もの着信が入っておりました。全て孫の隆からのものでした。かけ直すと「良かった。倒れたのかと思ったよ」と言われ、私は心配をかけてしまったことを素直に謝りました。

 家に着いたのは八時を過ぎていまして、玄関を通ると真っ先に静香さんが私のもとに駆け寄ってきました。私は隆と静香さんに残業した内容を説明して、そして遅くなったことを謝りました。すると静香さんは「信じられないわ、なんて会社なの!」と怒りをあらわにして、隆はそんな静香さんを宥めていました。夫婦漫才を見ているかのようで楽しかったのですが、この時になって私は腰が少し痛いことに気が付き、後で風呂に入るときは少しゆっくり入ることにしました。

 風呂から上がり隆と静香さんには知られぬように一人で腰に湿布を貼りましたが痛みは消えません。腕が腰に回らないことにも気がつき、綺麗に貼ることに時間がかかりましたが、それでもやっと貼ることが出来ました。

 早めに寝ようと思って布団に入ると腰がさらに痛みはじめました。

 それでも明日になれば収まるだろうと思って私は今日は早めに寝ることにしたのでした。

 治っていて欲しいと、思っていました。



 翌日の早朝、私が目覚めると腰が痛く、痛くて立ち上がることができませんでした。どうやら昨日の残業が祟ったようです。寝返りを打つことは何とか出来ましたが、一人で立ち上がるには少々きついようで、この腰では仕事にならないと思い会社を休む旨を伝えようと思いました。携帯電話を手に取りましたが、病欠すると給料に響くことを思い出すと、もう少し経てば治るかもしれないという思いもして、目を閉じて安静にしていたのですが、この歳になるとお手洗いが近くなってしまい、どうにも我慢することが出来なくなってしまいました。

 起きあがろうにも腰に痛みが走り、おむつでもしておけば良かったとも苦笑いしました。このままでは布団を濡らしてしまうと思うと、一人でも恥ずかしいことなのに、隆と静香さんに迷惑をかけてしまうと感じると、なんとか私は立ち上がろうと手を付きました。しかし手や腕にも鈍い痛みが走り、私はついに布団にひれ伏しました。

 すると私の部屋のドアをノックする音が聞こえ、「おばあさん、朝ですよ」という静香さんの声が聞こえました。

「静香さん。助けてくれ」と私が言うと、勢いよく静香さんがドアを開けて「どうしたんですか」と尋ねてきました。

 私は腰が痛くて一人では立てないということと、お手洗いに行きたいということを伝えました。「大変!」と静香さんが叫んで私のところまでやって来てくれ、肩を貸してくれました。

 痛みに耐えながらもゆっくりと立ち上がることができ、私は体重をほぼ静香さんの肩にかけながらお手洗いまで連れて行って貰いました。私は「すまないね、ありがとう」と何度も言っていました。

 なんとか洩らさずにはすみましたが、今度は便座から立ち上がることが出来ず、これまた静香さんに手伝って貰いました。静香さんは何一つ嫌な顔をしないで私のことを助けてくれ、本当に良いお方だと感心してしまいました。同時に自分が情けなく感じてしまいました。腰は大事だと改めて身に染みました。

 私の部屋まで戻り布団に入ると、静香さんが訊いてきました。

「朝ご飯の準備はもう出来ているのですが、どうしますか?」

「へえ、もう出来ているのかい、早いねえ」

「いえいえ、それにもう六時ですよ。それで、よろしければここまで運んできますよ。というより、そうしましょう。動かない方がよろしいでしょうし、酷いようでしたら病院に行かねばなりませんし」

「病院だなんて、そんな。すぐに治りますよ」

「駄目です。病院に行かないと治るものも治りませんよ」

 病院を勧める静香さんに対し、私は勝手に治るから大丈夫だと何度も言い張ってようやく静香さんを解き伏せました。病院など行ったら医療費が馬鹿になりません。肺炎ならともかく、腰が痛いだけで病院に行くのは私にとって金の無駄だと思っていました。腰痛は湿布でなんとかなることを知っていた私は、静香さんに腰の湿布を貼りかえてもらい、そしてそのまま布団の中で安静にすることに決めました。湿布が早く効けば、お昼前には出社できるだろうと考えていました。


 少し時間が過ぎると、隆が私の部屋にやってきました。隆は見るからに不安の色を隠さず、布団に横になる私の側に座りました。

「おばあちゃん。これは僕と静香からの提案なんだけど、今すぐにでも会社を辞めて僕たちと一緒に暮らさないかい。あの会社を調べてみたけど、この先長く続くような会社でもないし、お金のことならなんとかなるよ」

「大丈夫だよ。あたしは強いんだから」

 笑顔を作って私はそう言いました。孫にまで迷惑をかけてまで、という意地がどうも働いてしまいました。しかし、隆がそう言ってくれたのは本当に嬉しかったです。

「でも、こうして腰を痛めているんだし。ここから離れて僕らと一緒に暮らそうよ。絶対にそっちの方が良いからさ」

 そうかもしれないとも思いましたが、旦那と共にずっとここで暮らしてきたこともあり、ここを離れたくないという思いを捨てることが出来ないのも事実です。返事を渋っていると、「おばあちゃん」と隆がもう一度声をかけてきました。

 隆の顔は先ほどよりさらに不安の色が出ていました。

「いつ帰るんだい」

 私は話題を変えるためにもそう言いました。

「あと三日は。でもおばあちゃんの様子も見てからにするよ。

 そんなことより、僕らと共に暮らそうよ。それとも嫌なの?」

 そんなはずはないのですが、心というものはこういう時に厄介なものだと思いました。歳を取ると融通がきかないこともよくあります。

「たまに顔を見せてくれればそれでおばあちゃんは満足だよ」

 私はそう言いました。隆はそれを聞いて首をがくっとうなだれました。私はそれを見て少し嬉しく感じました。

 隆が顔をあげて言いました。

「じゃあ、後でもう一回聞くことにするよ。それで僕はちょっと出かけなきゃならないんだけど、家には静香がいるから、なにかあったら静香に言って。良くならないようだったら病院へ。分かった?」

 私が言葉無く頷くと、隆は部屋から出て行きました。隆が出て行くと部屋は静かになり、私は腰を痛めぬようになるべく動かずにじっとしていることとしました。仏壇に飾られた旦那の写真が見え、目を閉じて祈りました。腰が早く治ることを願ったり、矢萩さんのプランはどうなっているだろうかと考えていると、あることを私は思い出しました。会社に連絡を入れなければいけないということです。

 枕元にあった携帯電話に手を伸ばし、私は会社に電話をかけました。電話に出たのは幾次郎さんで、第一声を聞いたとき私は緊張して声がうわずってしまいました。

 言葉を選んで私は腰を痛めてしまい午前中は行けないということを伝えると、幾次郎さんは少し間をおいてから言ってきました。

「午後に来たってすることないだろうが。病欠で休めよ。一日ぐらい休んだって評価にケチつけねえよ。足手まといになるだけだ、家で寝てろ」

 腰を痛めてでも仕事に来い、と一月前に辞めた社員に幾次郎さんは何度も言っていたことを覚えていましたので、私は驚きを隠せずに「ありがとうございます」と伝えました。すると舌打ちが聞こえてそこで電話は切られてしまいました。

 新刊の売上が伸びた影響でしょうか、それとも幾次郎さんの上司から何か言われたのでしょうか、どうしてかは分かりませんが評価に関わらないということを聞き、それならばと私は一日ここで休むことにしました。結局、場所は違えども昨日の午後としていることは変わらないと思うと笑みがこぼれまして、力を抜いて静かに目を閉じていますと、そうしているうちにいつの間にか私は寝てしまいました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ