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誰がために何をしたくて  作者: 朝比奈和咲
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 喫煙所にいた幾次郎さんに矢萩さんからお預かりした書類を渡そうとしましたが断られました。「無駄」と鼻で笑われ、大した返事すらくれず、「外回り行って来いよ」と怒鳴られ、縮こまった私は頭を下げてさっさとカバンを持って外に出て行きました。

 そして私は外回りを始めましたが、どのお店も売上はさっぱりなようで、私の担当する新刊は一つも売れておりませんでした。「棚から外すことになりそうだ」と言ってきたお店も多数あり、私はどうかあと一週間だけでもと深く頭を下げて懇願するということを何件も、そんなことを続けていればいつの間にか地区内の書店を全て回っていましてそうして時間もそろそろ、いつものように私は重たくなった足を引きずって会社へ戻るのでした。

 オフィスに入っても誰も声を掛けては下さらず、同僚は私の顔色をちろちろと伺うばかりでした。今日は残業を命じられず、私は定時の午後五時半に退社することになりました。

 バス代も勿体無いので歩いて駅まで向かい、駅が見えると大勢の人に紛れて改札を抜けました。人に流されるように構内を歩き、エスカレーターでやっと足を休めることができました。電車待ちの駅のホームで見えた夕焼けは美しく、私は涙腺が緩み思わずハンカチで目頭を押さえていると、そうしているうちに電車がやって来ましたが、詰め過ぎたお弁当のようで箸を入れる隙間もなく、それでも次の電車もそうなのだからと思い、私はその電車に体を押しつぶされながらも足を踏み入れて、足の踏み場をなんとか得られたことに胸を下ろしてはすぐに右手で近くの鉄棒に捕まり、絶対に左手のカバンを落とさないように心がけながら、電車に揺られながら私はしばらくそうしていて、そうしているのでした……。一日を振り返ると、その記憶は出来の悪い活動写真をなんとか繋ぎ合わせているように再生され、それらに見どころも楽しみもなく、私は力を抜いて電車に揺られながら、そうしているのが気楽で、気楽な今が幸せでした。


 降りる駅に着きました。改札を抜けると、私の孫の隆が駅の前にいて、その顔を見ると私は目頭が熱くなりました。私のために待っていてくれたのかと思い近付いて行きました。しかしそれは別の若いお人で、私はその時になって初めて歩く力というものが体から抜けていくような気が致しました。ふらふらと目の前に見えたバス停留所にあるベンチに吸い寄せられるように、そうして私はちょうど空いている席に座りました。私の隣には若い御兄さんが座っており、その方も私と同じように長袖のYシャツに黒のズボン姿で、目に光は全く灯っておりませんでした。呼吸の音すら聞こえてこないようでした。

 その時、もしかしたらこれはアンドロイドなのではないだろうかという考えが浮かび、同時に矢萩さんのことを思い出しました。同時にあの話はすぐに忘れようと思い俯きました。お金のない私にとってアンドロイドを借りるなどと、夢のような話であり、そんなお金があればとっくに安い民間の老人ホームに入居しているとも思いました。どうせ幾次郎さんに言ったところで、予算が出るはずもないでしょう。そもそもこんな冷夏にあんな酷暑対策の本を誰が手に取るのでしょうか。予算を回すならもっと売れそうな本に回すでしょうし、そう考えると私の今後はこの先も進展は無さそうで、もう私は溜息も出ませんでした。

 私のカバンの中から携帯電話の鳴る音が聞こえ、私は携帯電話を取り出しました。着信先は上司の幾次郎さんでした。本当はすぐに取らねばいけないのに、私は黙って見ていました。親指で通話ボタンを押さないといけないのですが、今は誰とも話したくありませんでした。「プルルルル」という音は駅前の騒音に紛れず良く耳にとおります。全てがこの音にさらわれた気がして、静寂という言葉をふと思い出しました。

「鳴ってますよ」

 隣の御兄さんからそう声を掛けられ、私は気を取り戻しましたが顔を上げる元気までは取り戻せませんでした。なんとか口を動かしました。

「すみません。ぼーっとしてしまいまして」

「そえくらいこのトシになへらよくあることへしゅよ」

「そうですよね」

「鳴ってますよ」

「ああ、はい」

「そえくらいこのトシになへらよくあることへしゅよ」

 私はやはりアンドロイドなのではないかと感じ、顔を上げてお兄さんの顔をちらりと見ました。前歯の抜けたお兄さんが奇妙な笑いをしてこっちを向いており、皺の寄った細い目には光が見当たらず、大きく開いた口は震えて舌先がチロチロと口の中でうごめいているのが見えました。奇妙なからくり人形のように見え、お年寄りがそこらじゅうにいる駅前で、どうしてこの席が空いていたのか私はその時になって知りました。

 若い人ですらこうなるのかと思うと、声も出せずに苦笑い、電話も出ずに立ち上がって、そうして私はさっさとそこから離れて行きました。ハンカチで顔を隠しながら下を向いて、私は出来る限りの早足で帰宅することに致しましたが、しつこく電話は鳴り続け、根負けした私は電話を取ると、幾次郎さんの怒鳴り声が開口一番に聞こえ、ついでに電話口からは他の人の笑い声も聞こえて、私は「すみません」と何度も復唱しながら、電話が切れた頃にはもう自宅のマンションが遠くに見えていました。

 大きなマンションです。私は入口前で立ち止まり屋上を見つめました。先日、屋上から若者が飛び降りたことを覚えています。人ごとのように感じられなかったのは、いずれ私もそうなるかもしれないと思ってしまったからでしょうか。それから数日後に孫の隆が来なければ私も同じようになっていたかもしれないと思うと、隆には本当に感謝しています。

 隆が待っていてくれると思うと、私はまだ動ける気力がどこからか湧いてきました。我儘を言っていいのなら、いつまでも側にいてほしいのですが。



 八階にある私の家に着くと、隆は廊下の先の部屋から玄関まで迎えに来てくれ「お帰り」と言ってくれました。隆と共に廊下を抜けてダイニングキッチンの部屋に入ると、昨日までいなかった若い女性のお方がキッチンにいました。

 とりあえず私が「こんばんは」と頭を下げると、その女性は「お邪魔しています」と頭を下げました。

「初めまして。隆さんと婚約する予定の静香です」

 急にそんなことを言われて私は腰を抜かしそうになりました。一目で分かるほどの美人さんでした。驚いた私が隆を見ると、隆はその言葉に慌てた様子で曖昧な否定をしていました。

「何よ。いずれそうなる予定でしょ、文句あるの?」

「そうなんだけどさあ」

 隆は頭を掻きながらそう言って、付け足すように「まあ、おばあちゃん。そういうことなんだ」と言いました。てれ隠しする孫に私は「そうかい、おめでとう」と心から祝福いたしました。孫の顔が見られるだけでも嬉しいのに、その孫が結婚する。

 しかし嬉しいのですが、仕事もそろそろクビになると思うと、食べられずに痩せ細り、そうするといずれ生まれてくるひ孫を見ることはないだろうと思うと、結婚すればもう私の顔を見に来なくなるのではと思うと、そんな腐った蜜柑を見下ろすような嫌悪感が私はどこかで感じてしまい、私は二人の目の前で溜息をついてしまいました。

 隆が「どうしたのおばあちゃん」と気遣ってくれました。

「大丈夫だよ」と私が言うと、静香さんが心配そうに言ってきました。

「おばあさんがお帰りになられてから夕飯にしようと思っていたのですが、少しお休みになられますか」

「大丈夫。夕飯を食べないと」と私は元気に装って言いました。「分かりました」と静香さんは私の目を見てから言って、「無理しちゃだめだよ」と隆は言いました。ああ、この静香さんという方は良く分かっていらっしゃる方だと思いました。

「おばあさん。着替えたら座って待っていて下さいね。あとは私がやりますから」

 この人なら隆も大丈夫だろうと思いながら、私はゆっくりと私の部屋である和室へ入りました。仏壇に飾られた旦那の写真は今日も笑顔で、今日も私は無事に帰れたことを彼に手を合わせて報告したのでした。



 私たちが夕飯に着くと、静香さんが私に仕事のことを聞いてきました。私は心配をかけないように返事をしたのですが、やはり同じ女どうしなのでしょうか、先ほどと同じく心の奥を見透かされてしまったようです。

「その、本当に何か辛いことがあったら教えて下さいね」

「仕事はいつも通り、心配なさらんで。本当に体にガタがきたら辞めるし、それに四年も働いたおかげで失業保険も貰える」

「でも、それだけじゃ」

「なに。本当につらくなったら息子のところに電話してみるよ」

 口からでまかせというのでしょうか、電話番号すら知らないのですがついそんなことを言ってしまいました。すると孫がそれを聞いて気分を悪くしたようで「まあ、お父さんは無理だと思うよ」と言いました。

 それを耳にした静香さんが箸を置いて隆に顔を向けました。

「隆、おばあさんの前でそう言うのはどうかと思うよ」

「ああ、ごめん。でも無駄な期待を持つことはどうかと思うし、体にも悪いと思うけど」

 隆がそう言うと静香さんは何も言い返さずに隆を睨み、隆はその視線を嫌ってそっぽを向いてしまいました。二人が険悪になってしまった原因は私の一言にあると思うと、なんだか私は二人の邪魔をしているのではないかと後ろめたく感じてしまい胸を抑えつけられるような気持ちでした。



 隆の父である私の息子は三年前に離婚して、今はカンボジアの大きな会社で働いていると聞いていましたが、私が知っているのはそれだけでして音沙汰無しというのが本当のところでした。四年前に息子がカンボジアに行ってからというもの、メールの連絡すら取れなくなりましたが、私はそれだけ仕事が忙しいのだと思うことにしていました。ですので離婚したという知らせが息子のお嫁さんから届いたときにはびっくりしました。

「とにかく、これで私と野澤家の関係も終わりですので、何かあってもこちらに連絡はいりませんから」と一方的に言われて電話を切られました。さすがにこの言葉には腹が立ち、私も二度と口をきくものかと思いました。その時、息子に事情を聞こうとしたのですが、電話しても通じることはなく、メールは届いているようですが返信もありませんでした。それから私は息子と連絡も取れず、そのためどうして離婚をしたのか未だに分かりませんが、若者の二人に一人が離婚する時代だと新聞にも書かれていたこともあり、それ以上私は追及することをやめたのでした。

 悲しかったのは三年前に旦那が死んだ時すら息子は電話もくれなかったことです。こちらから連絡をしたのですが返事はなく、その半年後にメールだけこちらによこすだけで、そして今になっても旦那のいる仏壇の前で手を合わせることもしていないのですから、息子の心中を察するにもうこの家に帰って来たいとも思っていないのでしょう。そんな息子が私の面倒を見てくれるとも思えません。しかしお役所はこんな状況でも「息子がいる」と処理をしますので、私は息子が死んでくれない限りずっとこの生活が続くことになるのでしょう。息子の死が確認できれば老人ホームへ行くことが出来るわけではないのですが、そんなことは夢にも思ってはいけないことだと思っていました。

 もうそういう時代なのだと諦めが尽き、最初は何とも寂しい気持ちだったのですが、一人になり三年も経てば慣れてしまいました。慣れてしまっただけ、日々の辛さにも耐えられるのかもしれないと今では思えるようになりました。

 が、やはり寂しさはぶり返すものらしく、孫がこうして会いに来てくれているのに、帰ってしまった後のことを考えるとやはり寂しくてなりません。が、それもすぐに慣れるのでしょう。慣れることを未来に期待するしかないのでしょう。



 せっかくの夕食の空気を冷たいものにしてはいけないと思い、何か話題を作らねばとテレビに目を向けましたが、ニュース番組はちょうど経済と景気の話をしており、それはそれは暗いニュースでした。未来のない日本から経済成長がまだ見込めるアジア諸国に若者が次々と移住していき少子高齢化の加速が止まらないというニュースにはうんざりしました。年金も含めて私の老後は彼らに支えられるはずだったのですが、政府も匙を投げた今では誰を恨んでいいのか分かりません。

 そう思っていると、静香さんが小さく息を吐いてテレビを消しました。

「何か私たちに出来ることがあれば言って下さいね。どんな些細な悩みでもいいですから」

「ありがとさん」とは言いましたが、どうにもならないでしょうと思いました。仕事だって手伝ってもらったところで売上は伸びませんし、買ってくれと言っても二人合わせて二冊だけでは焼け石に水な気もします。

 仕事のことを思い出すと、今日の午後に突然現れた矢萩さんのことを思い出しました。そういえばそんな話があったと思うと、他に仕事で話せることはないかと考えると、新刊が売れないという愚痴と矢萩さんの出来事しか思い浮かばず、テレビも消してしまい御通夜のような空気にもなりかけていたので、少しでも話が盛り上がればと思い、矢萩さんの話を静香さんに言ってみることにしました。

 静香さんは私の話を最後まで聞くと、「変な話ですね。とりあえずそれらを見せてもらえませんか」と言ってきました。

 頷いた私は部屋に戻ってカバンを開け、矢萩さんから頂いた書類を取りだすとそれを静香さんに渡しました。静香さんの目が少し鋭くなったような気がしました。あれこれ言われて否定される、そんな気がしていました。人に渡して感づいたことは、そもそもこんな美味しい話には必ず裏があるということです。それを思いだせただけでも良かったような気がしました。現状をさらに悪化させるだけならば、このままの方がまだ良いです。退職時の査定にも傷がつかないと思いますので。

 静香さんはそれに一通り目を通すと、「いいんじゃないかな、これ」と言いました。

 私はてっきり否定されると思っていましたから、この答えに対し驚きを隠すこともなく、「え?」という声を出してしまいました。静香さんは見たがっている隆にその書類を渡すと、まだ気持ちの整理が付いていない私に言ってきました。

「おばあさん。受け入れていいと思いますよ」

「でも、それは人を騙すことになるんじゃないのかい。ほら、情報操作とか言われるじゃないかい。そういうのはどうかと思うんだけど」

 そんな言葉が自分の口から出てくるとは思ってもいませんでした。何を私は動揺しているのだろうとも自分を不思議に思いました。

 すると静香さんは「その考えは違いますよ」ときっぱりと否定しました。

「情報操作と聞くと洗脳のように感じとられてしまうかもしれません。けれど、全ての情報は発信者から受給者に対しての隠されたメッセージが含まれているのですから、そこまで否定してしまえば誰も情報を口に出来なくなってしまいますよ」

 少し難しい言葉がいくつも聞こえて、私はそこで言葉が右から左に抜けていくような、お恥ずかしい限りでございますが、最後まで聞くことが出来ませんでした。

「ああ、すみません。少し難しかったかも」

「いやいや、しかし、最近のコンピューターにはついていけないよ。アンドロイドなんて私が生きている間に出来るとは思ってもいなかったから」

「十年前から脳科学が急激に進歩しましたからね。今では脳の構造の半分以上が分かってしまっていますし。だからと言ってすぐにその技術をアンドロイドに取り入れるというのは少し危険な気もしますけどね。二週間前の民間ホームでの介護用ロボットの事故もありましたし」

「なんだい、それは」と私はその話に食い付きました。出来るならばいつか入居しようと思っている私にとって人ごとではないと思ったからです。テレビのニュースでもそんな話は聞いておりませんでした。

「介護用ロボットが命令を誤認識してしまって、沸騰したばかりのお湯でお茶を注いでお年寄りに出してしまったんです。多くのお年寄りが火傷を負ったばかりでなく、椅子から転んじゃって骨を折ったりとしてしまったみたいで」

「そりゃあ危ない。アンドロイドはやっぱりまだ信用ならないねえ」

 私がそう言うと隆は「ちょっとそれは思い違いだよ、おばあちゃん」と言いました。

「現在作られているアンドロイドは主人に対して100パーセント従うように設定されているのだから、ミスをしたのならそれは主人にも責任があるんだよ」

 まだアンドロイドを人間に接触させることが早過ぎるんだ、と隆はそうも行って、味噌汁を一口すすりました。私はアンドロイドについての知識は全くないものですから黙っているしかありませんでした。

「裏話だけど、単純作業型だったらしいよ、あのロボット。自立型のロボットでも誤認識するだろうけどね、あの環境じゃ」

「単純作業型!? ネジ回しをさせるようなアンドロイドを介護施設に置いたの!? 信じられない、会話とかリハビリとかどうするのよ、それで」

 静香さんが声を上げると、たんたんと隆は話を続けました。

「そう。だけど、別にどっちでも事故は起きていたと思う。あの老人ホームのマニュアルがネットに流れていたから読んだんだけど、お湯の温度が明記されていなかった。人間お得意の『場の空気』ってやつでやってたみたい。誰かがアンドロイドに『お湯と言われたら沸騰したお湯のこと』と命令していたかもしれないし、なにしろアンドロイドの記憶がショートして全てぶっ飛んでいるから原因不明とか酷過ぎる。予備メモリまでぶっ飛ぶだなんて、誰かがやったとしか思えない」

「信じられない。証拠隠滅したら次の対策も取れないじゃないの」

「さらに噂だけど、あの老人ホームは赤字を黒字にすることで頭がいっぱいだったみたいで、リストラした人の数だけ無許可未登録のアンドロイドを密かに導入したんだって。しかも密輸入物だから製造番号も分からなくて警察も捜査が難航とか」

「経営者は何を考えていたのかしら、全く」

「何にも考えていなかったんじゃないの。痴呆症の老人を安値で積極的に受け入れて『良心ある介護』をアピールしていたくせに、フタを開けてみれば痴呆の激しい患者には食事も与えないときもあって、暴れる患者はベッドに縛り付けて睡眠薬を過剰に投薬するのが黙認されていて、死んだら死んだで遺族はホームに『ありがとうございました』の一言。誰も何も考えていないんだよ」

「そんなに酷いのかい」耐えきれずに私は口を挟むと、隆は語気を強めて言いました。

「酷いも何も、アンドロイドも可哀そうだ。ベッドに縛り付けることも睡眠薬を投与するのも全部アンドロイドにやらせていたに決まっている。別にアンドロイドにそういうことをやらせた経営者を責めるつもりはないし、それがアンドロイドに与えられた仕事ならそれでいい。けど、それでマズイことになったからアンドロイドをぶっ壊したは酷いんじゃないのって思う。僕はアンドロイドの製造に携わっているから余計にそう思った。たとえ介護用の自立型アンドロイドが出来上がったとしても、扱う側のモラルがいつまでもこれではとてもじゃないけど安心して世の中に出せない。自立型は人間に近い、考えるアンドロイドだからね、自分の考えに従って行動するアンドロイドだから、倫理観のない人間にとって都合の悪いことだって当然するかもしれない。それが原因で主人と喧嘩になっても、アンドロイドは絶対に勝てないからね。ロボット三原則が邪魔なんだ。時代にもう合わないからさっさと改正しちまえって思う。少なくとも殴られたら殴り返すだけの許可をアンドロイドに与えないと、人間がどう使うか作り手としては恐くて仕方がないよ」

 そこまで一気に隆は言って息を一つ吐きました。

「アンドロイドにも人権を、って言うと変な気もするけど、これから自立型を世の中に増やしたいのなら困ったアンドロイドのための避難所でも作っておいた方がいいんじゃないって思う。青少年電話相談室みたいなものでもいいからさ」

 あー、やんなっちゃうと、隆が言って上を向くと、「職業病ね」と少し笑みをみせながら静香さんが言いました。

「気持ちは分かるけど、その話の続きはまた今度。隆がその話をすると長くなっちゃう。飛行機の中で私たちはずっとその話で盛り上がっていたのよ。今度は乗務員さんじゃなくておばあさんに怒られちゃうわ。

 それで、おばあさん。話を戻すけど、この話は受けた方が良いと思うわ。一カ月無料体験ならそれだけでも経験してみて、それから考えても良いじゃない」

「けれど、お金がどうしても。そんなお金があったらねえ」

 静香さんがそんなに進めるのなら、お金があれば確かにやってもいいと思っていました。

「大丈夫よ。売上が急激に上がれば誰もが気になるわ。それはおばあさんだけの問題ではなく会社全体の問題になるから、すぐに予算が下りることになるわ」

「そうかねえ。今まで営業に使う金は一切くれない会社だよ」

 それを言うと、静香さんは驚き呆れたような顔をして言ってきました。

「まさか、営業とかの経費とか一切貰えないの?」

「ええ。成績が上がらないからね」

「信じられない」

 唖然とした顔を静香さんが見せると、その様子を見た隆が私に言ってきました。

「おばあちゃん。とりあえず静香は僕より頭が良いし、静香の言うことを聞いてやってみてもいいんじゃないかな。もし駄目だったらそれまで。そしたらまた考えようよ」

「まあ、隆もそう言うのならやってみるよ」

 孫にまで進められた矢萩さんの話を、ここで断る気にもなれず私は曖昧な返事をしました。

「そうと決まれば今すぐ電話しましょ。さあ、早く早く。矢萩さんに良い印象を与えておけば少しは契約を有利に進められるかもしれないしね」

「まあ待てよ、静香。ご飯を済ませてからでも構わないだろ。ほんの数十分だろ」

「分かってないわね。その数十分で日本米が買えるかどうかということもあるのよ。その日本米は誰のおかげで買ってこれたというのよ」

「これ、日本米なのかい。そりゃあずいぶんと高かっただろうに」

「セールス品ですよ。限定十袋を勝ち取ったんです」

 やはり若い人は元気だなと感じました。私だったら並ぶ元気もなく、安いタイ米で我慢してしまうでしょう。実際に孫が来るまではそうでしたので。

 私は久しぶりの日本米を噛み締めて食べました。味の違いは分からなくとも、懐かしい匂いが鼻に抜けていく気がしました。それも静香さんに言われなければ気付かなかったでしょう。ありがとうという気持ちを抱いて、私はご飯を食べ進めるのでした。



 夕飯を食べ終わり、隆は「仕事があるから」と言ってさっさと部屋に戻りました。静香さんが全て片づけをして下さるそうなので、私は静香さんにお礼を述べてから私の部屋に戻りました。

 そして私は座布団に正座をして、息を入れた後に矢萩さんへ電話をかけました。呼びだし音が聞こえると胸の鼓動が高まって聞こえてきました。

「はい、矢萩です。野澤さんですか?」

 失礼のないように、落ち着いてと心がけながら口を開きました。

「ええ、そうです。お昼過ぎに頂いた案件のお返事をと思いまして」

「そうですか。どうなりましたでしょうか」

 一呼吸置いた後に言いました。あまり見知らぬ若い人と話すのはどうも緊張してしまいいけません。仕事となればなおさらなのかもしれません。

「はい。そちらに任せてみようと」

「そうですか。ありがとうございます」

 思ったより話は簡単に進みほっとすると、「ところで」と矢萩さんが聞いてきました。

「会社の上司などにこのことをお伝えしましたでしょうか」

「いえ。今のところは私しか知らないのですが、やはり上司にお伝えしておくべきでしょうね」

 幾次郎さんの顔が浮かび、私が怒鳴られて笑われる姿が目に浮かびました。

「いえいえ。それには及びません。まずはあなた様だけでお試しになり、そして効果が見られたら上司に連絡して社内全体での取引とすればよろしいかと思います。頭の固い上司でしたらこのプランはすぐに却下されますよ。前例にないことを嫌いますから、保身に走る上司は特に」

 それを聞いた私は「そうかもしれませんね」と私は笑いました。

「ご契約ということでよろしいでしょうか」

「はい。お任せしてみます」

「分かりました。では、明日の午前中からさっそくこちらは準備に取りかかります。それで野澤さんには何もしないで頂くということをして頂きたいのですが、よろしいでしょうか」

「はい? 何もしないで……?」

 言われたことが理解できず口を半開きのままにしていると、さらに聞こえてきました。

「えーっと、ですね。営業に関する仕事を全てストップすると言いますか、その、差し支えが無ければ一日のおおまかなスケジュールをお教えして貰えないでしょうか」

「午前中は会社にいて、午後は外回りです。午前の業務は日によって変わるのですが、午後はいつも外回りでして、外回りの内容はほとんど書店巡りですけれど」

「分かりました。では外回りを全てストップで。その、書店には絶対に足を運ばないように。なんでしたら公園でぶらぶらと散歩でも。それでよろしくお願いします」

「それまたどうしてでしょうか」

 本当に大丈夫なのだろうかと不安になりました。

「それは後ほど分かります。実はこの仕事は私個人が行っている事業でして、つまり私の勤めている会社とは関係がないのです。ですから、あまり深く突っ込まれるとこちらとしても」

 語尾を濁して、少し間を開けてから矢萩さんは言ってきました。

「すみません。お望みの効果が現れない場合は一切お金を頂きませんので」

「本当に効果がなかったらお金は頂かないのですか」

「はい。さらに最初の一カ月も無料ですね」

 効果が現れなくとも売上が下がることはないのですし、お金の心配も無ければ失うものもない。そう考えてみると深く悩むことはないと決心しました。

「分かりました。お任せ致します」と私は強く言いました。

 矢萩さんが「ありがとうございます」と言われ、お互いに少し会話をした後に電話は切れました。

 電話の最後は何か靄の残る内容でしたが、それでも私は信じることにしました。何もしないよりはした方が良いと思うからでした。もしこれで駄目だとしても大して私の現状に変わりはないと思うと、任せたことに対する不安が少し晴れたように感じられました。

 むしろこれで明日から変化があるかもしれないと思うと、昨夜よりは心が軽やかな気分でした。今日も夜中は夏とは感じぬほど涼しいのでした。

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