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誰がために何をしたくて  作者: 朝比奈和咲
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 空想科学祭final、感想レベル5の作品です。


 追記

 七月三十一日に加筆修正致しました。

 八月十三日に加筆修正致しました。

 誤字脱字を指摘して下さった方、ありがとうございました。

「新刊が売れないからどうにかしろ」

 と言われてどうにか出来るのならば既にどうにかしているでしょう。

 しかし、

「どうにかしたいですよ!」

 と強く言い返せないのも営業部販売促進係の悩みでございます。ノルマとして与えられた新刊を出来るだけ書店や消費者に売ることが主な仕事なのですから、「売れないでしょう、こんなもの」と言って軽々と匙を投げてしまったら、無慈悲に自分の首も飛ばされてしまうのでしょう。そんなことは販売促進係の社員でなくても知っています。ですから、辛い。特に中小企業の出版社ならなおさらのことなのでしょう。

 販売促進部に所属して四年目になる私こと野澤恭子は本当に頭を悩ませていました。私に割り当てられた新刊は『酷暑対策と節電』というタイトルの本でございました。しかし今年は例年にないほどの冷夏であり、八月に入ってからもう六日も過ぎたのに、一度も最高気温が二十五度を超す日がないのです。しかし、六月に七十八歳を迎えた私にとって今年の夏は過ごしやすい気候であったとも言えます。ですからこの気候について全てが恨めしいわけではないのですが、お天道様にはもう少し頑張ってほしいところでありました。

 私は六月から七月までの二ヶ月間で体重が四キロも落ちました。最近になってまた食べ物が喉を通りません。それが何日も幾日も続いていまして、そろそろ骨と皮だけになるのではと思うほどです。年のせいでしょうか、脂っこい食べ物を見るだけで胸に油が溜まったように気持ち悪くなり、最近ではさらに吐き気まで感じますし、冷たい物を見ると胃が牙で噛みつかれたような痛みを感じるようになってしまいまして、若い人が食堂で食べている豚カツなんてものは見たくもありませんし、昨年だったら社員食堂で冷やし中華を食べていましたが、今年の夏は、私の体には一杯のかけうどんが良く合うようでして、笑える話、昼食代の節約になってよろしいなと、最近ではそう思い込んでおります。

 お昼時になり、今日も社員食堂のカウンターで私は三百五十円の温かいかけうどんを頼みました。別に食べたいとも思いませんが、午後は外回りに出ていかなければなりません。外でお腹が空いて仕事に支障をきたさないようにするためにも、私はこのうどんを腹に入れなければならないと一息入れ、私より歳上である食堂のおばあさんからかけうどんを貰いました。空いている席を探しますがなかなか見当たらず、総席数三十もないこの食堂には私のようなお年寄りがちらほらと見えます。食べる時に人が下を向くのは当たり前なのですが、みなさんの表情が悪く見えてしまうのは、やはり私に原因があるのかもしれません。どこか座れる場所がないか探していると、運良く一つのテーブル席に付いていた団体さんが一同に立ち去りましたので、私はそこでようやく腰を下ろすことが出来ました。

 テーブルに置いたかけうどんから湯気が見えましたが、さながら酷暑で蒸し返されたアスファルトの水蒸気を想像させました。空調設備は止められており食堂は人が多くいるせいもあって若干蒸し暑さを感じました。うどんの汁は昨日よりさらに濃い色で、一口すすってみましたが、私にはどうも味が濃いようで、それから私は箸を付けずにぼうっと眺めていました。蒸し暑くとも汗をだらだらと流すほどでもありません。そうやって汗を掻くほどの夏でしたら塩気を欲して食べられるかもしれません。暑い夏が恋しく懐かしく感じられましたが、夏の空は今日も陽射しを遮るぶ厚い雲が垂れこめています。外はここより涼しいのでしょう。

 箸を持たずに、揺らぐ汁に薄く映る私の顔を見ていると蝉の鳴き声がどこからか聞こえてきました。顔を上げると蝉はぱたりと止まり、そして蝉すらいなかったことが分かりました。誰も顔を上げずに黙々と食事をし続けていました。


―おばあちゃん、少しは会社を休んだらどうだい?―


 先週、自宅で孫の隆に言われた言葉をふと思い出しました。隆は今年で二十四歳になり、会社の夏休みを利用して先週から私のところへ遊びに来てくれています。本当は二三日で帰る予定だったそうですが、私のことを気にかけて下さり、今も私の住むマンションの一室に共に暮らしてくれています。良い孫をもつことができて本当に良かったと思っていますが、私のせいで会社での隆の成績に支障が出てしまうのではないかと思うと不安になります。一週間も休みを貰える会社など日本には滅多にないことは、私も働いていて本当に良く分かりました。しかし、隆がいなければ私は既に倒れていたかもしれないと思うと、自分の不甲斐なさに胸が苦しくなります。トイレで足腰に急に力を入れられなくなったとき、隆がいてくれて本当に良かったと思いました。


―よかった。またどこかで倒れたんじゃないかと思って……―


 昨日、残業をさせられて帰りが遅くなった時に言われた言葉、もう限界かもしれないと、私は心のどこかで感じているのですが、働かなければ収入がありません。残業の内容は会社の倉庫での荷物運びでした。売上が伸ばせない私に対して会社の業績に少しは貢献しろという至極まともな名目でした。しかし私だって言わせてもらえば努力はしています。広告として貼って貰おうと作ったPOPは全ての書店に古臭いと断られてしまいましたが、その努力を少しでも認めてはもらえないのでしょうか。

 そもそも私に与えられた新刊を売るにも、この涼しい気候ではどうしようもなく、さらに言えば今や家電製品の省エネ機能はもう発展のしようがないほどですので、正直に言ってこれ以上の節電など無理なのです。だから、私は、もし愚痴を言っていいのなら、こんな本は売れないし時代遅れだと言いたいのです。

 しかし、それでも売れるようにしなければならないのが販売促進係の仕事だと上司は言い張ります。私はもう無理だと言って匙を投げたい。しかしそれを行えばすぐにクビでしょう。こんな本を作って給料を貰う企画部が恨めしいです。企画部の言い分けを聞けば、全て気象庁が春先から適当な事しか言わなかったせいからだそうで、中身は至極まともなことを記載したのだから、売れない責任は私にもあるそうです。逆らうことも出来ず、私は頷いて仕事に取りかかるしかありませんでした。

 もしクビになり働く場所が見つからなければ、私は収入がなくなり生きていくことは出来なくなるのでしょう。七十五歳で年金の支給は止まり、八十歳で社会保険制度が全て打ち切られる高齢者の私にとって、無理をしてでも体が動くときにお金を稼がなければ、八十歳を超えた後、どうやって生きていくことが出来るでしょうか。

 身寄りのいない多くのお年寄りは国民老人ホームに連れて行かれ、息子のいるお年寄りは暮らせるのならば一緒に暮らすのが当たり前な時代です。そして、息子がいるにも関わらず理由あって一緒に暮らせないお年寄りは私のように働く人が多いようです。本当は息子と共に暮らすほうが幸せなのでしょうが、息子は十年ほど前に仕事で日本からカンボジアに飛び立って以来、私と一度も顔を合わせてはおりません。特にこちらへ連絡もよこさず、連絡先も分からない私にとってはもうどうしようもありません。

 一緒に暮らそうと言って下さるのは日本に帰国して勤めている孫の隆だけでした。隆は鹿児島にあるアンドロイド製造工場で働いているそうで、共にその近くで暮らそうと言ってくれました。しかし、孫に迷惑をかけてまで生きていきたいなど、私は意地をはりたいものですが……、後ろめたい思いを抱えて生きるぐらいなら、いっそのこと死んだほうが良いかもしれないと思うことさえあります。それに私は出来れば旦那と過ごしたこの場所で最期を迎えたいとも思っているのですが、もうそれこそ贅沢な夢なのかもしれません。私もいずれは老人ホームに行くか、それかひっそりと孤独死するか……。

 考えたくもないのですが自然と頭に浮かびます。

 最期は誰かに看取られて死にたいと思いますが、息子は私が危篤に陥ったとき、帰って来てくれるでしょうか。

 そんな重たい気分でうどんを眺めていると、誰かが私に声を掛けてきました。それは私の上司になる課長の幾次郎さんでした。顔を上げると禿げあがった頭に歪んだ口元の顔がありました。

「おいおいおいおい、元気のない顔だなあ、そんなんで売れると思ってんのかあ?」

 そう言って私の前に座り、幾次郎さんはベラベラと何やら喋り始めました。最初から私に対する非難や汚い言葉でして、だんだんと聞くのが辛くなってきました。

 幾次郎さんは私より二つ年上で八十歳になるお方ですが、私と違ってまだまだ元気なようで、禿げあがった頭でも白いYシャツに黒いズボンが似合うお方です。そして良く口が回るお方でして、私のことを見るとこうして話してくるのですが、いつも私はその言葉がほとんど耳に入ってきませんでした。私の集中力が足りないせいでしょうか、話の後ろになるにつれ言葉が雑音となってしまうのです。私はそれでもなんとか話の後ろを聞こうとして耳を傾けるのですが、さらに長話になると話の始めの部分を忘れてしまうためにもうどうしようもなく、結局は話の聞けない私が悪いのでしょうが、幾次郎さんは同じことは二度言わない人ですので、今も気が付くと話はいつの間にか終わっていたらしく、その方はもう私の前からさっさと立ち去ってしまいました。

 話終えた幾次郎さんの顔は険しくなっていました。これもいつものことでした。この顔を見ると私は縮こまってしまい、そして何も言えなくなってしまいます。

 ですが、話のほとんどが聞けなくとも、内容はなんとなく分かっています。なんとなくですが、昨日も一昨日も言われたことと同じでしょう。話しているときの顔が楽しそうでしたし、しかし、それを受け入れたら、私は食べていくことが出来なくなります。

 食べていかなければ、生きていくことも出来ないでしょう。

 深く息を吐いて、そして私はうどんに箸をつけました。伸びきった麺がネチネチとしまして、汁は塩辛く飲み込む度に咳き込みそうになりました。あの食堂のおばあさんは味見もせずに作ったに違いありません。

 それでも何とかして腹に入れねばと思うのですが、結局、一杯のかけうどんを全て食べきることも出来ずに、今日も半分以上残して私は重い腰を上げました。席から尻を浮かせたとき少し腰が痛みましたが、顔には出さないように努めました。そんなことが誰かに知られれば、幾次郎さんの耳にもきっと入ることでしょう。弱みを幾次郎さんに握られれば、すぐにクビを切るための材料として扱われるでしょう。あの人は少しでも人を減らしたいようで、そうすれば自分の給料が上がるとでも思っているようです。そんなことはないはずなのですが。

 ですが、人が減れば今すぐ潰れそうなこの会社にとってプラスになることは間違いないのでしょう。幾次郎さんはこのことを『猿でも分かる』と笑って私に言ったことがありました。



 オフィスに戻った私は、若い女性社員に応接室でお客様がお待ちになっていることを告げられ、自分の席には戻らずそのまま応接室に向かいました。あまり腰を下ろしたくありませんでした。腰は大事です、外回りが主な仕事なので腰を曲げられなくなったら、あとは辞めるしかないでしょう。首だけの挨拶なんて猿でも出来る、腰が曲げられないなら辞めちまえ、と幾次郎さんの口癖です。歳を重ねても腰は曲がらず、杖なしで歩けることが私の自慢でもあったのですが、会社でそんなことは当たり前です。

 応接室に入ると、そこには黒い背広を着た若い男の方が手前の椅子に座りテーブルについて待っていました。経費削減のために冷房が効いていないオフィスや社員食堂と違い、この部屋は肌寒く感じるほど冷房が効いていました。私は薄い上着のような物を持ってくれば良かったと思いました。ネクタイをきちんと胸元に絞めて汗一つも見せずに上品そうな背広を着ている若い男の方を見ると、やはり若いお方には敵わないと感じてしまいましたが、それではいけない、仕事に老いも若いもないと私は思い直し、気を引き締めてこの若い方とお話をしようと思いました。

「お忙しいところ申し訳ありません」

 男は立ち上がってそう言うと、深深と頭を下げました。

「いえ、こちらこそ。失礼ですが、アポなどは、取っておられたでしょうか?」

 マニュアルというものは大変便利で、私はこれを覚えるのに相当苦労しました。

「いえ、飛び込みでこちらに伺いました。御社の新商品が売れなくて困っているという情報を手に入れまして、それで急いでこちらに」

「はあ」とだけ私は言いました。何者なのだろうと、私は男の全体を眺めました。

「ああ、すみません。どうぞ、おかけになって下さい」

 眺めてばかりではいけません。最近の男の方は、みなさん同じような髪方をして眉毛を整えて凛々しい雰囲気を作るのに精を出しておられますが、そのおかげで私はいまの若い男を見ても、「またおんなじ」という考えしか出て来ないのです。孫の隆も同じような髪方に眉毛をしているように思えましたが、それとはまたどこか違うような気も致しました。ですから、この男もどこにでもいる若い男、ということしか感じられませんでした。

「いえ、その前に御挨拶を」と言って彼はポケットから名刺入れを取り出しました。そのとき、私は手元に名刺入れがないことに気が付き内心焦りました。

「私、永享商事、営業部に勤めております矢萩 隼と申します」

 両手で丁寧に差し出された名刺を私は腰から頭を下げながら両手で受け取りました。そのとき、腰が少し痛みました。引きつった顔を見られていないといいのですが、それよりも名刺がないことを詫びることに致しました。

「申し訳ありません。急いで来てしまったもので、名刺を忘れてしまいました。後でお渡しいたします。申し訳ございません」

「大丈夫ですよ。飛び込みでこちらに来た私も私ですので」

「本当にすみません。さ、席にお着きになられて下さい」

 私がそう言うと「では、失礼します」と言って男は席に着きました。私もゆっくりと、なるべく腰を痛めないように座ろうと努めたのですが、「ああ」という言葉を洩らして腰を抑えてしまいました。

 男はその瞬間を見逃さずに、「大丈夫ですか」という言葉をさっと返してきました。

「ええ、大丈夫です」と私は言いながら、息を洩らさぬように注意しながら私はゆっくりと腰を下ろしていきました。

 席に着いた私は「それで本日はどういったご用件で」と尋ねました。

 すると若い方は足元にあったカバンを胸元まで取りよせ、カバンを開けてその中からホチキスで右肩を綴じられた厚めの書類を取り出すと、それを机の上に静かに置きました。パソコンの取扱説明書とマニュアルを読んだときの記憶がふと頭に過りました。覚えなければ仕事になりませんので、また二日かけて読まねばいけないのだろうかと落胆してしまいました。思わず溜息が出そうになって口を閉じ飲み込みました。

「おばあさん。働くことが辛くはありませんか」

 いきなり彼はそう言いました。私はその言葉にムッとしてしまいました。

「いえ、仕事ですので」と私がフォーマルな返事をすると、男は自分の言葉で私の機嫌を損ねたことを悟ったようで、「すみません」とすぐに席を立って頭を下げました。席を立ってまで謝罪されるとは思ってもいなかったので、動揺して「いえいえ、こちらこそどうもすみません」とマニュアルにはないことを言ってしまい、すぐに失敗したと思いました。常に相手より優位にいろ、がマニュアルでしたので、今の言葉はたぶんマイナスになると考えると、相手のペースでこれから話を進められて私にとって不利な状況になるのではと怖くなりました。

 男は二言ぐらいお詫びの言葉を並べて、私はそれを黙って聞いていました。どうやら、まだ私の方が優位らしいので、私は胸を下ろしました。

「売上があまりよろしくないと聞きました」

「私のですか?」 私は男の言葉を聞いて驚き、すぐにそう返事をしてしまいました。

「え、いや、この会社全体ですね」

「あ、そうですよね。失礼致しました」 何をしているのだろうと思いました。この方もそうなのですが、若い方は私とお話に来ているのではなく、私を通して会社とお話をしているということを、どうも私はそのことを忘れてしまっていけません。

「あなた様の成績も伸び悩んでおられるのですか?」

「ええ、はい。お恥ずかしいお話ですが、私に与えられた新刊は未だに売上をあげられておりません」

「そうなのですか。どのような商品を担当されているのでしょうか」

「『酷暑対策と節電』という本です。冷夏のために全く売上は伸びませんが、しかしそのうち暑くなればすぐに売れると思いますし、気長に取り組んで参りたいと」

 そうは自分で言ったものの、暑くなったから売れるものでもないということも分かっていますし、口に出して何だか気分が落ち込んでいってしまいました。

「お互い、大変ですね」と矢萩さんは顔を曇らせて言いました。私は無言でそれに応じました。重たい沈黙が流れても、私には若い人にどう話しかければいいのか分かりません。マニュアルでは会話の基本はフィーリングと書かれていましたが、フィーリングと言われても……、というのが本音でした。

「もし、新刊が売れれば野澤さんもこの会社にとっても良い結果になりますよね」

 矢萩さんが私の顔色を伺うように聞いてきました。

「はい、そうですが」と私が言うと、矢萩さんは、

「とっておきのプランがあります。ちょっと待って下さい」

 と言い、するとカバンからテーブルの上に新たにA4サイズの書類を三枚、カタログ紹介のように私に向けて並べました。

「野澤さん。ここだけの話を進めてもよろしいでしょうか」

「それは、どういったこと、いや意味でしょうか」

「まだ私どもの会社でも世間一般に公にしていない新プランです。とりあえず、こちらの書類に目を通して貰えれば」

 私の疑問に答える代わりに、矢萩さんは真ん中に置かれた書類を私に進めてきました。それを手に取り目を細めると、書類はまるで広告チラシのようなもので、赤文字で大きく『アンドロイド』と書かれており、人間そっくりの姿をしたロボットの写真が中央に大きく写っていました。

「最新型のアンドロイドです。きっとお役に立てます」と矢萩さんが口を挟みました。「そうですか」とだけ返事をして私はまた書類に目を向けました。

 文字による説明が写真の横にちょこちょこ書かれているのですが、どうしても細かくて肉眼では見えず、私は老眼鏡を自分の机から持ってくればよかったと後悔しました。

「でも、人手は足りていますから、当社にはいらないですし、私個人として買う余裕もありませんし」

 私は率直に申しました。工場にも私のようなお年寄りが溢れています。確かに私の家に一体でもこのアンドロイドがいればもう少し楽に生活ができるかもしれませんが、まだまだ高価であって私にはとても買えるような代物ではありません。

「いえいえ、別に買って貰おうというわけではありませんよ」

「と、言いますと」

「このアンドロイドを使って、あなたの商品を消費者に売れるようにする、ということです。このアンドロイドは、人に好かれるように設計された単純行動型のアンドロイドなのです」

 私は矢萩さんの仰っていることが理解できませんでした。すると矢萩さんはそれを悟ってくれたようでさらに説明をして下さりました。

「これを社外で働かせるのです。社外で働くことで、そちらの商品が売れるように仕向ける、口コミを広げる、インターネットで宣伝させるといったことをですね、このアンドロイドにさせれば、今までよりは確実に本が売れるようになりますよ」

「本当にそのようなことが出来るのですか?」

 私はほとんど信じていませんでした。そんなことが出来るでしょうか。数少ない友人ですら買ってはくれないというのに。

 すると矢萩さんは自信を持って言いました。

「はい。まずは一カ月間、私に任せて下さい。効果が無ければ、代金も要りませんし、この一カ月間はお試し期間ということで。納得のいく効果が見られたら、そこで契約ということでどうでしょうか」

 まるで化粧品会社のような言い方でした。失礼なお話かもしれませんが、こういうお話には必ず裏があるものと私は信じていました。

 ですが、私はこの話に興味を惹かれました。というのは、もしこのまま新刊が売れずに夏が終われば、私の首は切られてしまうかもしれません。一時的でも効果がもし得られるのなら、そんな方法があるのなら私は喉から手が出るほど欲しい。

「どうしましょうか。まだお悩みですか」

「はい。嘘みたいな話ですので」

「そうかもしれませんね。しかし、別にあなたがアンドロイドを所有するわけでもないので、リスクは限りなく低いですよ」

 そうは言われてもすぐに答えは出ません。アンドロイドに商売が出来るでしょうか。数年前から介護現場でアンドロイドが使われ始めたと耳にはしましたが、それはまた違うタイプで最新型のアンドロイドだとも聞きました。最近の科学にはもうついていけません。

 返答できずにしばらく私が悩んでいますと矢萩さんが「どうしましょうか」と訪ねてきました。私は迷ったときのマニュアルをそのまま使いました。

「もう少しお時間を頂きたいのですが」

 少し黙った後、矢萩さんが「そうですか」と言いました。

「分かりました。では、今日はこれで失礼いたします。その書類は野澤さんに差し上げますので、後でごゆっくり精査して結論を出してもらえればと思います」

 私はその意見に頷きました。すると矢萩さんは握手を求めてきましたので、私は彼と握手をして別れることに致しました。がっちり握手した矢萩さんの手は冷たかったですが、その目には何か熱い物を感じられました。

「ぜひ、前向きなお返事をお待ちしております」

「はい」とだけ私は返事をしました。

「それでいまして、先ほどのこの分厚い書類なのですが、追田幾次郎さんがお戻りになり次第お渡しして貰えないでしょうか。本来の目的はこちらだったのですが、追田さんが留守中だと聞いていましたので」

 私はその言葉に驚き、思わず短く声を出してしまいました。

 すると矢萩さんは苦笑いをして、私に言ってきました。

「追田さんがいることは知っているのですけれど、受付の方にいないと言われてしまいまして。それで全てあなたにお伝えするようにと言われましたので。

 追田さんにこれを渡してもらえれば結構です。渡せなければゴミ箱にでも。ただし、私が来たことだけはどうかお伝え下さい。私に課された飛び込み営業のノルマを達成するためにも、ここは一つご協力をお願いしますね。後で電話を寄こしますので、中身を見ずとも拝見したということにしておいて貰えれば。仕事しているという証明だけが欲しいので」

 最後に笑顔を見せて「今の件と、あの件も含めて、どうぞよろしくお願いします」と言うと、私は「分かりました」ととりあえず返し、矢萩さんは椅子から立ち上がり、そうして、私は二つの書類を持ちながら矢萩さんと別れたのでした。

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