第六話 翠玉楼
あやが連れてこられたのは、新橋の置屋でも格式高いとされる『翠玉楼』だった。
元は天保年間にささやかな茶屋として開業したが、新橋が花街として発展を始めると、置屋として大々的に宗旨替えをしたという。
あやを出迎えた女将は、ふくよかで柔和な笑みを浮かべた女だった。
「それでは、約束通り、お願いいたします。」
男衆頭が険しい表情で頭を下げると、
「はい、たしかに。後日番頭を遣りますので、その際お願いします。」
と彼女も頭を下げた。
男衆頭は最後にあやに向かって軽く頭を下げると、背中を丸めていそいそと出て行った。
彼がすっかり見えなくなってから、女将はパッと表情を明るくした。
「ようこそ、『翠玉楼』へ。お家のことはいろいろと、難儀だったねぇ。
ここに来たら、もう今までのことは気にしなくていいから、今日はゆっくり休んで。
明日になったら、姐さん方へ紹介してあげよう。」
あやは、玄関の三和土へ落としていた視線を、ゆっくりと女将の足元から上げて行く。
派手ではないが品の良い、上等な小紋が目に入る。
あやと目が合うと、女将は一つ頷いて、踵を返した。
背負っていた少しの着がえや身の回りの物が入った風呂敷包みの結び目を持ち直すと、あやも彼女に従った。
薄暗い廊下を通り抜け、足を踏み出す度に、大きくきしむ階段を上がっていく。
案内された部屋は二十畳ほどの座敷で、下働きのうちはここで他の少女たちと共に寝起きすると説明された。
他の子たちは、今は外出していて部屋には誰もいない。
女将がいなくなると、あやはしばらくぼんやりとしていた。
窓から聞こえてくる往来の足音や声。
遠くで何かがぶつかる音や、内容の聴き取れない女の声。
部屋は北向きで直接陽は入ってこなかったが、のどかな午後だった。
――こんなに静かなのは、いつ以来だろう……
あやはぼんやりと、――今朝までいた、あの屋敷のことを思い出す。
昨日、女中の最後の一人が屋敷を去り、奉公人が男衆頭一人になって、最後の朝食は隣家から情けで分けてもらった。
――もう、女中の一人もいないあの家で暮らしていくのは限界だったのよ。
誰もいないはずの屋敷では、常にミシリとか、パシッとか、怪しげな家鳴りが絶えず、
時折女や子供の笑う声がどこからともなく響いていた。
昨夜などはズルズルと何かを引きずる物音が絶え間なく廊下を行き来して、あやはついに眠れなかった。
まだ何か、身体が重いような気がする。
だが、ここには、おかしな音や気配はない。
壁にもたれて、あやはうつらうつらとまぶたが舟をこぎ、いつの間にか眠りへと落ちて行った。




