第五話 家を出る日
父母がいなくなって、あやは初めて多くの事を知った。
父は、生前あちこちで借金を重ねていたらしい。
更に旧藩士の仲間内で、怪しげな投資話や事業を持ちかけては失敗し、
そのたびに損を広げて、多くの恨みを買っていたという。
母はもともと、結婚の経緯からしてよくない噂の絶えない女だった。
不義密通の末、前妻を呪い殺したのだ、などという話まで囁かれていた。
藩士の妻仲間の間でも距離を置かれていたうえ、
今回のことで心を病み、周囲に当たり散らすようになってからは、
友人知人のみならず、親族からも次第に敬遠されていった。
葬式を出そうと、親戚や旧藩士の家へ、あやは男衆頭を伴って回った。
だが、その対応はひどいものだった。
「お宅の敷居は跨ぎたくない。香典だけ下男に持たせる。」
これでも、まだましな方だった。
黙って玄関を閉められることもあれば、
まずは金を返せと詰めてくる者もいた。
あやは不義の子同然だと罵られ、
塩をまかれて追い払われることさえあった。
一通り回った太田家では、
姉・りよを贔屓にしていた中島家の未亡人に、鼻で笑われた。
そして、
「おりよちゃんの耳に入れるな。もう彼女を煩わせるな。
縁は、あなたたちが切ったのでしょう。」
と、念を押された。
それでも何とか簡素な弔いを上げ、
荼毘に付した遺骨を、科野の静間にある菩提寺へと送り出した。
家の切り盛りなどまったく分からないあやに代わって、
男衆頭と女中頭が采配を揮い、
奉公人たちの次の奉公先も、ほどなく決まった。
あやは当初、分家筋の家へ身を寄せる話が持ち上がっていたが、
そこの奥方が最後に強く難色を示し、その話も立ち消えとなった。
やはり、母・さいの評判は恐ろしく悪く、
あや自身の評判もまた、どうしようもなく悪いものだった。
――私は何も悪くないのに……。私は何もしていないのに……。
目ぼしいものは売り払われ、あるいは持ち去られ……、
何もなくなった座敷で、あやは嘆いた。
「お嬢様――、屋敷は買い手が付きませんが、
お独りでここにいるわけにも参りますまい。」
最後に残った男衆頭があやの肩に手を置いた。
「――でも、私には行く場所がない……孫左衛門の片岡家も、奥方が私を拒否したと聞いた。
科野に残った金兵衛の片岡家は返事すらよこさない。母の実家も……」
目ぼしい分家筋を思い浮かべながら、あやは男衆頭を振り仰ぐ。
「実は、私の知り合いに新橋で置屋をやっている者がおりましてね。
なんでも芸妓を募っているとか――」
「……私に、遊郭へ行けと――
この身を売れと、そうおっしゃるのですか。」
あやは鋭く睨み上げる。
男衆頭は頭を掻きながら、苦笑いを浮かべた。
「お嬢様、女郎と芸妓は別物です。
身体を売るのは女郎です。芸妓は芸を売って身体は売らない。」
そう言うと、男衆頭はあやの隣へと腰を下ろした。
「どのみち、お嬢様はこれから、自分の力で生きていかねばならない。
あなたが女中としてやっていけるとも思えないし、雇ってくれる家もない。」
「……っ」
あやは、悔しさに表情を歪めるが、反論の言葉は持っていなかった。
蝶よ花よと育てられた彼女は、たしかに、女中仕事ができる自信はなかった。
「幸い、お嬢様は、武家の娘として教養がおありだ。唄も琴もなかなかの腕前――
芸妓の方が、お嬢様の才能を、十二分に発揮できる……と私は思うのです。」
「――その、置屋には……、話はついているの?」
探るように言ったあやに、男衆頭は一瞬だけ口端を釣り上げて、
それから優し気に笑みを浮かべながらうなづいた。
「はい。もしよろしければ、今からでも――」
結局あやは、その日のうちに新橋の置屋へと発った。
つい先日、娼妓解放令が出されたばかりだったが、
男衆頭が“紹介料”という形で置屋から多額の金を受け取り、
それがあやの借金として付けられていたことを知ったのは、ずっと後のことだった。




