第四話 椿の首
それでもあやの脳裏から、あの拝み屋の言った言葉と、彼女の去り際の憐れむようなまなざしが消えることはなかった。
その夜散々悩んだ挙句、やっと寝付いた――
けれども、夜中、枕元を走り回る足音に、眠りを何度も邪魔された。
そして朝――
目覚めた枕元に季節外れの椿の花がぽつんと置かれている。
――咎人女の首が落ちる。白雪にぽとり、椿みたいに……
誰かが耳元で囁いた気がした。
椿は、血のような赤い色だった。
あやはすっかり取り乱して、
「りよを呼びもどして」
と喚き散らして母にぶたれた。
母にぶたれたことなど、初めてだった。
けれど――
この家がおかしくなり始めた頃のことを思い返すと、
思い当たるのは、姉のりよがどこかへ嫁いだ、そのことだけだった。
その日のうちにあやは手紙をしたためた。
『お父様がおかしいです。お母様がおかしいです。家が怪異であふれています。
拝み屋が、あなたがいなくなったせいだと言いました。
一度、帰ってきて何とかしてください。』
手紙の書き方は習っていたが、姉に対してどういった立場で書いていいのかわからなかった。
姉の嫁ぎ先は知らなかった。
用件だけ書いて、事情通だと聞いていた下男に持たせた。
数日待ったが返事はなく、姉も帰省しない。
あやはそれから数日おきに、何度も手紙を書いた。
秋が深まると同時に、怪異もますます頻発し、母はとうとう拝み屋かイタコのような、白衣を纏ってぶつぶつと始終念仏を唱えるようになった。
父はそもそも自宅に寄り付かず、時折酔っぱらって帰って来ては、金目の物を持って出ていった。
あやはそのすべてを、姉への手紙にしたためたが、やはり返事はない。
一通ごとに、焦りと怒りが積み重なっていった。
「なんで、りよは、返事をくれないのっ!
こんなに困っているのに、こんなにひどいことになっているのにっ!」
母の目を盗んで、いつも世話をしてくれる女中に当たり散らした。
「――先日、りよさまが太田様のお屋敷から、
ご主人と連れ立って出てくるところを見た、と申している者がおりました。
なんでも上等な着物を着て、以前よりずいぶん血色も良かったとか……」
「何ですって? どうして太田様のお屋敷に寄って、うちに寄らないのよっ!」
女中の言葉に、あやはますます声を荒らげる。
「――太田様の所には……、ほら、あの方の、元許嫁の御母堂様が身を寄せてらっしゃるから……」
「許嫁って――中島さま?
もう亡くなって五年も経って、別の方に嫁いだのに? なぜ……。
……いいえ、それよりも、よ。
なんで、目と鼻の先の太田様の所まで来ておいて、
うちには、あいさつの一つもしないのよ。」
「……さぁ、わかりかねますが……」
歯切れの悪い女中に、あやの怒りは頂点に達した。
「何度手紙を出しても返事はないし、
うちの近くまで来たのに顔の一つも出さない。
自分だけ良い着物を着て、
美味しいものを食べて――、なんて薄情な人かしらっ!
いいわっ! 直接、会いに行きましょう。」
腹を決めると、あやの行動は早かった。
下男から、りよの婚家が中野の斎部家だと聞き出し、次の日の早朝には女中一人を供に連れて屋敷を出立した。
あやが誰にも言わずに屋敷から消えても、誰も気にも留めないほど、片岡家は荒廃していた。
中野であやを待っていたのは、姉の戸惑いと、その夫の拒絶だった。
手紙は一通も、姉へは届いていなかった。
姉は、実家の窮状は全く知らなかった。
下男からは陰陽師のような家業をしている家だと聞き、あわよくば怪異を祓ってもらおうと頼んでみたが、それも断られた。
そもそも姉に対して多額の支度金を払ったことが、
彼の中で手切れ金となっていた。
そしてあやは、
姉の嫁入りに、何も用意されなかったことを、知っていた。
姉は婚家で特別な役割を担っており、自分が代わることもかなわなかった。
彼女の夫は、
あやにとって、ただただ恐ろしい男だった。
「りよは――、片岡家を捨てたのよ……。
旦那様だって薄情だわ。嫁の実家を平気で切り捨てるなんて。」
中野からの帰り道、あやは嗚咽をかみ殺しながらつぶやいた。
「……お嬢様、本当は分っておいでなのでしょう?
りよさまを先に切り捨てたのは、旦那さまや奥さまだって……」
女中が珍しく、諭すような口調で言ったため、あやはギョッとしてその場に立ちすくんだ。
夕日に影が長く長く伸びて、逆光になった彼女の表情はよく見えなかった。
「……お嬢様は、聡いお方だから、分かっておいで、でしょう。
正直に申し上げて、もう、片岡家は、
取り返しのつかないところまで来てしまっている……
斎部さまのおっしゃる通りですよ。」
「おまえ、なんてことを――」
「――私も、明日にでも暇乞いをしたいと思っておりました。
お嬢様も、お覚悟なさった方がよろしいかと存じます。」
「覚悟って……何を……」
返事は帰ってこなかった。
それきり二人は黙ったまま、片岡の屋敷へと戻った。
帰り着くと、屋敷は騒然としていた。
「旦那様がっ! 奥さまをっ!」
「旦那様も奥の間で――」
玄関先に現れたあやに、奉公人たちが矢継ぎ早に言葉を放ち、彼女を奥の間へと連れて行く。
彼女を待ち受けていたのは、切り捨てられた母と、自らの刀で果てた父だった。
二人とも、おびただしい血の海の中で果てていた。
――咎人女の首が落ちる。白雪にぽとり、椿みたいに……
いつかの声が聞こえた気がした。




