第三話 そんなはずがない
「――私じゃありませんっ、私はきちんと……」
「お黙りなさいっ! あんた以外に誰がこんなことするって言うの?
もうっ、きちんと元通りに掃除するまでは、ご飯は抜きですからねっ!」
廊下を曲がろうとしたその先で、女中が入ったばかりの見習いをしかりつけている場面に出くわした。
あやはそっと陰から伺って廊下の先を見ると、
プリプリと怒りながら去ってゆく女中と、半べそで途方に暮れる見習い。
廊下には点々と、子どもの――そう、ちょうどその見習いくらいの子供の、泥の足跡が落ちていた。
足跡は庭から濡れ縁へと上がり、座敷の方へと消えている。
けれども、あやはすぐにその“おかしさ”に気が付いた。
――だって、庭はぬかるんでいないし、見習いの足も汚れていない。梅雨はとっくに開けたし、何日も雨は降っていない。
あやは背筋に寒いものを感じながら、廊下を引き返す。
先ほどの濡れ縁を避けて、座敷を通り抜けて行こうとすると、今度は別の場所から女中の悲鳴が上がった。
声の方へと慌てていくと、先ほどの女中が玄関の外でしりもちをついている。
見れば、七夕の笹飾りが無残に引き倒されて、七夕や千代紙の飾りが引きちぎられたり踏み躙られたりして地面に散らばっていた。
ことに、あやが手ずから書いた「無病息災 家内安全」に、べっとりと粘性のある黒ずんだ液体がこびりついているように見えるのが、目に飛び込んできた。
「まあ、なんてことなの? いったい誰がこんなこと……」
あやの後ろから、母・さいが声をかける。
「わかりません。先ほどまでは何ともなかったはずなのですが――」
女中はガタガタ震えながら、さいを見上げた。
その様子に、さいはため息をつくと、忌々し気に首を振る。
「野良犬か野良猫の仕業でしょうね。片づけて、元の通りにしておきなさい。」
「は……はい……」
女中は歯切れの悪い返事をして、さいはすぐに踵を返して屋敷の中へと帰ってゆく。
あやはしばらくその場から動けずに、女中が七夕飾りを片づけているのを眺めていた。
門の外はからりと晴れて底抜けに明るいのに、門からこちら、片岡家の地所は妙に淀んだように暗く感じる。
あやはその違和感から、その場から動けなかったのだった。
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盆を過ぎると、片岡家はますますおかしくなった。
ある女中は、夜中に血まみれの女を見たと言っておびえ、仕事にならないので暇を出した。
別の女中は、半透明の子供が座敷を走り回っている、とノイローゼを起こして逃げ出した。
半透明の子供が座敷を走り回っている、という話は、
あや自身も、廊下の端を何かが横切った気がした夜があったので、
まったくの嘘だとは思えなかった。
父・兵十郎は何かにとりつかれたように、投資話の事業にのめり込み、屋敷には明らかに胡散臭そうな人物や、ガラの悪い人物が出入りするようになった。
母・さいは、最初の内は気のせいでやり過ごしていたが、彼女が寝ていた部屋の天井に、朝起きたら無数の手形が現れてから慌て始めた。
様々な伝手を使って拝み屋や、霊媒師、陰陽師に除霊を依頼し始めた。
その頃からだっただろう。
夏の暑さが落ち着いて、秋の気配が感じられ始めた頃――
屋敷の中であやは放っておかれることが増えていた。
女中は一人減り、また一人減り。
家族で膳を並べることも珍しくなり、
膳に乗るおかずもわびしくなった。
盆を越えてから、あやに新しい着物が仕立てられることはなかった。
嘉七は一度だけ屋敷を訪れたが、兵十郎と口論になり蹴り出されたのを最後に、それきり姿を見ていなかった。
「古い怨霊です。もう何代もに渡って、貴家についている。
でもおかしいですね。ここまで強く多い怨霊ならば、幕末の動乱でとっくの昔に破綻してもおかしくなかったのに――最近、家を出られたご家族はおられませんか?もしかしたら、その方が抑えていたのかも……」
もう何人目かわからない拝み屋の一人がそう言ったのを、あやは偶然聞いてしまった。
「我が家が何ですって!? 出ていった家族なんて、いないわよ! あんな奴、家族じゃないっ!」
さいは激怒して、その拝み屋を追い出したが、
母が怒る様を見て、あやの脳裏に否応が無く一人の人物が思い浮かぶ。
――まさか、あの人が?
いつも諦めたみたいな目をして、陰気で、いるかいないのか、わからなかったあの人が?
いつも物陰から、うらやましそうに、家族を外側から見ていたあの人が?
あの人が、家を守っていたというの?
ありえないわよ……
さいの不興を買って、謝礼も渡されずに追い出されたその拝み屋が、
門扉の外で振り向きざまにため息をついたのを、物陰から見てしまったあやは、
必死で自分に言い聞かせた。
——そんなはずがない、と。




