下編 燃やすべきもの
一足踏み込んだ旧片岡邸は、
無人になって半年とは思えないほど荒れていた。
空き家でひと冬越えたせいもあるし、件の肝試しの若者の仕業もあるのだろう。
りよは、庭の物干しのそばにたち、いつぞや眺めた座敷を再び見る。
――あの部屋で、お義母さまと、女中が、あやに与えた着物を広げていて……
あれからまだ一年も経たないなんて……信じられないわ。
確かに経済的には陰りが見えていたものの、あの部屋は幸せで満たされていた。
それがどうだろう。
今は破れ障子が風になびいて、室内はがらんと荒れている。
一通り庭を見回った清孝が、りよの隣まで来ると、彼女の肩を抱いた。
「……あなたから縁談をいただいたと聞かされた日
……私、ここにいたんです。
たった一年で、こんなに様変わりしてしまうなんて、なんだか信じられなくて……」
りよが人の目がないことをいいことに、清孝に体重を預けると、
彼はいっそう強く彼女を抱きこんだ。
「……本来ならば、私が迎えに行くべきだった。
こんなになってしまってから、そなたの実家に来るとは……皮肉なものだ……」
「良いんですよ……、私だって、思う所がなかったわけではないのですから……」
それからりよは、清孝の腕の中から抜け出すと、玄関の方へと歩き出した。
玄関は開け放たれたままで、履き古されて薄汚れた下駄が一足、丁寧にそろえて置かれている。
元は使用人が使っていた物で、りよにも見覚えがあった。
「――なんだか、気持ちが悪いですね……。
悪戯でしょうか。」
「……そうだと、思いたいな。」
清孝も気味悪そうにその下駄へと視線を遣りながら、横を通り過ぎる。
廊下の床は、土足の足跡が無数についており、往時の艶やかさなど思い出せないほど。
りよも清孝も、ためらわず土足で上がり込む。
「ここが上の間で、こちらが居間――、あちらが台所です。
篠崎さまから頂いた情報だと……
父が義母を切って果てたのは、一番奥の、仏壇のあった部屋だと思います。」
りよは説明しながら進むが――
進みながら、だんだんと異変に気が付いていた。
何も起きないのだ。
資雅の話では、夜はもちろん昼間でも、怪異が跋扈し酷い有様だ、と。
そう聞いていた。
しかし、二人が訪れてから何一つ、あやかしも幽霊も、鬼も神も、
この世ならざるものは現れていないし、気配すらない。
どの部屋も荒れ果てていたが、がらんとした空虚が、沈黙を守っていた。
やがて辿り着いた、一番奥の座敷。
八畳ほどのその部屋には、他の部屋とは違って、土足の足跡がない。
畳の上には、うっすらと、
ぬぐってもぬぐい切れなかったらしい、どす黒い血の跡が残っており、
この部屋が惨劇の現場だったと、静かに伝えていた。
突き当りに据えられた、家紋が彫り込まれている漆塗りの小ぶりな仏壇は、
観音開きの扉が、ぴたりと閉じられたまま、ひっそりとそこにたたずんでいた。
「仏壇を――残して行ったのですね……」
りよは意外そうにつぶやいて、その部屋に一歩、足を踏み入れた。
ビシィッッッッ
途端に大きな家鳴りがして、りよはビクリと動きを止める。
清孝も慌ててあたりを見回し、
それからハッと思い当たったように、懐から櫛の箱を取り出した。
よく見れば、櫛が中でカタカタと音を立て、
箱そのものが、小刻みに震えている。
「……これは、出すべきなのか……」
清孝が困って手の中を見つめると、りよも少し考える。
「――今が出し時かと……
何かあっても、清孝さんが焼き尽くせる相手でしょう?」
「――簡単に言ってくれる……」
口調は苦言でも、まんざらでもない表情で、清孝は答えると、
箱を縛っていた紐を解き始めた。
やがて、そっと箱のふたを持ち上げる。
すると、怪し気な気配が、二人のそばを横切ってゆく。
櫛はいつの間にか震えるのをやめていた。
清孝は目を細めると、スッと横に指を引いた。
すると途端に、仏壇の前に、こちらに背を向けてたたずむ一人の女が見えてきた。
長い垂れ髪に、白装束。
その身には、おびただしい血の跡が残っていた。
その女は、お蝶の部屋の鏡の中にいた女だった。
りよも清孝も、固唾を呑んでその背を見つめる。
やがて彼女はゆっくりと振り返る。
顔立ちは若々しく、整っていたが――
その眼窩はぽっかりと穴が開き、吸い込まれそうな深淵の闇だった。
彼女は仏壇を指し示し、口を開く。
『燃ヤセ――、終ワラセロ。キサマノ手デ……』
その声は、地の底から響くような不気味な声だった。
再び、家鳴りが次々と鳴り始める。
ビシバシと鳴る音の中、りよは仏壇を開ける覚悟を決めた。
そろそろと進み出て、仏壇の戸に手をかけると、再び屋敷に静寂が戻り、
女も、いつの間にか見えなくなっていた。
りよは、思い切って一気に観音開きの扉を一気に開き切ったのだが――
まず気が付いたのは、微かな異臭だった。
どぶのような腐った匂いが鼻についたが、すぐにその正体は分かった。
中に収められていた仏像にも位牌にも、過去帳にまで――
べっとりと、黒ずんだ液体がかかっており、ぬらぬらと光を反射していた。
「ひいっ」
りよは思わず悲鳴を上げて後ずさる。
真新しい白木の位牌――父と義母のものだけが、ひしゃげ、へし折られている。
りよはそれでも気を取り直して、扉を一旦閉めると、清孝に振り返る。
「清孝さん、私も持ちますので、仏壇を庭へ出せますか?
そこで燃やしましょう。」
「ああ、でも――……いいのか?」
清孝は、片岡家を再興しなくていいのか、と尋ねていた。
しかし、りよはきっぱりと首を横に振る。
「良いです。たぶん、私が……
この家に――片岡家に、拒まれ、蔑まれ、追い出された私が、
引導を渡すことこそ、この家に憑いた怨霊たちの本懐なのでしょう……。」
それからまっすぐ清孝を見ると、りよは強い口調で言いきった。
「そして――私も、同じ気持ちにございます。」
それから二人は、さっそく仏壇の運び出しに取り掛かる。
仏壇は二重になっていて、三尺ほどの外壇の中に、厨子が納められている形だった。
が――あの臭い液体に触れたくなくて、
中がぐちゃぐちゃになるのも構わず、四苦八苦しながら、そのまま運んだ。
中に一緒に入っていた線香立てや花瓶が、
ガチャガチャとにぎやかな音を立て、時折、割れる音がした。
幸い、部屋の縁側のすぐ外は裏庭だった。
二人は、最後は投げ出すようにして、仏壇を放り出す。
仏壇は鈍い音を立て、
瀬戸物やお鈴は、いっそうにぎやかな音を響かせて、地面へと転がった。
りよはもう一度室内へ取って返すと、今度は仏壇下の引き戸を開け放った。
彼女はそこから、漆塗りの系図箱と文箱を二つ取り出し、ついてきた清孝に持たせた。
りよはさらに、風呂敷包みを二つばかり引きずり出し、中身を確かめると
それを抱えて庭に出た。
「火はつけられますか?」
りよが尋ねれば、清孝は異能で炎を出して見せる。
「お安い御用だ。」
地面も空気も乾いていて、程よい風も吹いている。
異能の炎は焚き付けを必要とせず、
仏壇は、パチパチとはぜながら、ゆっくりと燃えてゆく。
りよはまず文箱を開けて、先祖伝来の文書を火にくべ始める。
「これは、初代が中島さまに仕え始めた時の書状ですね。
これは、大坂の陣での報奨について――
こちらは、五代目が殿の名代で江戸城に上がった時の書状――」
りよはひとつひとつ読み上げながら、火の中へとくべてゆく。
――憎くて燃やすのではない。
先祖を敬う気持ちがないわけではない。
ただ――、この家は、終わってしまったのだ。
箱が空になると、今度は箱も火にくべてしまう。
それから今度は、系図箱へと取り掛かるのだった。
最後にりよが手を伸ばしたのは、自分が持ってきた風呂敷包みだった。
それを開くと、そこには無数の白木の位牌と、一冊の過去帳が、無造作に納められていた。
「……これは、何だ?」
清孝がいぶかし気に横からのぞき込む中、
りよはおもむろに過去帳に手を伸ばす。
「――これは……有縁無縁の、有縁の方……
それも、よろしくない、後ろめたい縁の方の。
いうなれば、裏帳簿ならぬ、裏過去帳……ですかね」
りよがその存在を知ったのは偶然だった。
静間からの引っ越しの際、持って行くように押し付けられたのがこの包みで、
旅の途中でこっそり開いて、中身に驚いたのを覚えていた。
過去帳は天正年間から始まっており、
先祖たちが殺め、あるいは死に追いやった相手の名と、簡単な来歴、命日が記されている。
りよは、ある頁でふと手を止め、一つの名をなぞる。
「片岡みつ……。私の、母さん……」
ぽつりとつぶやいてから、ぱたんと音を立てて閉じると、火の中へと放り込む。
位牌も風呂敷ごと火の中にくべ、
燃やすべきものは、すべてなくなった。
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火の始末までしていたら、すっかり陽は傾いてしまった。
特務局まで、ぶらぶらと夕日の中を歩きながら、今日の事をぽつりぽつりと話し合う。
「今回は、派手な立ち回りはなかったが――。」
清孝はずいぶん罰当たりなことをしたと言い淀む。
「たぶん、あの白木の位牌が――、怪異の中心だったと思いますよ。
先祖は、罪悪感から、供養にと始めたのかもしれないけれど、
結局ああやって、家の記憶に縛り付けて、自分の首を絞めていたんでしょうね……」
りよが遠くを見ながら言うと、清孝は首をかしげる。
「きちんと供養すれば、祟られなかったんじゃないのか?」
「……あれが、きちんと供養していたように見えましたか……?
――思い返せば静間では、屋敷がずっと広かったから、あれ専用の部屋があったのですよ……
だけど、東京の屋敷は間取りが足りなくて、実害もないとおもってあそこへ押し込めたんでしょうね。」
りよは、少し前を歩く、父子の背を見つめながら、言葉を繋ぐ。
「――押し込めたのは、父と義母――、恨みもひとしおだったでしょう。」
それからりよは何を思ったか、少し歩調を速めるとくるりと振り向き、清孝の前へと立つ。
「清孝さん、今回は、私のわがままに付き合ってくださってありがとうございました。
これで本当に、帰る家も無くなりましたので――、
改めまして、末永くよろしくお願いいたします。」
りよが少しおどけて言うと、
清孝はフッと笑って、
「何を今さら――、もちろんだ。」
と、彼女と共にまた歩き始める。
二人より沿った影は、長く長く、道に伸びていた。




