第三十話 桜を待つ文
九月の末には、戦は終わった。
だが、“かの君”からの文は、年が明けても届かなかった。
吉田は何も言わない。
四郎兵衛も。
――便りがないのは、無事な証拠。
あやはそう自分に言い聞かせながら、一層、芸に邁進した。
華やかに、華やかに――
喉を絞り、声を張り上げ、身を削るように唄う恋歌の姿は、
人々の胸を打ち、土産写真の時とはまた違った熱狂を、静かに巻き起こした。
“恋雲雀”
いつしか男たちは、彼女をそう名付け、
その声をぜひとも聴きたいと、座敷へ呼びよせた。
あやは、わからなくなっていた。
唄っている時間は、“かの君”の不在の不安を忘れられる。
けれども、その唄に込めた真心は、すべて“かの君”への恋歌……
唄えば唄うほど、気持ちは募り、心が縛られてゆく。
もう“かの君”への恋心なのか、恋に恋しているのか――
自分では区別がつかなかった。
評判は新しい縁も呼ぶ。
色好みで有名な内務卿の敏腕参議――河野俊輔が、あやに目を付けた。
「いきなり馴染みになれとは言わない。せめて一晩――」
もちろんあやは相手にしなかった。
「私は操を立てています。身体は売りませんが、芸ならいくらでも売りましょう。」
そう言ってあでやかに舞い、唄を披露すれば、評判はうなぎのぼり。
――今を時めく官僚も袖にした、恋歌の想い人は?
と、世間は騒ぎ、顛末は錦絵となって飛ぶように売れた。
「……四郎兵衛さまぁ……戦はとうに終わったのに、
私はいつまで待てばよいのでしょう……」
二月も末のある夜、珍しく四郎兵衛に呼び出された座敷で、
あやは、柄にもなく酔っていた。
この世で、“かの君”について話せるのは、実質四郎兵衛だけ。
酔いの勢いも借りて、あやは四郎兵衛に甘えた。
「次の桜の季節までと、そういう約束ではなかったかね?」
しなだれかかったあやの肩にそっと手を回しながら、
四郎兵衛は、駄々っ子をあやすように問いかける。
「……そうなんですけど、文の一つもよこさない――
不安になるのも当たり前でしょう?」
四郎兵衛を、絶対に安心な相手だと心を許し、
あやは子供のように頬を膨らまし、彼の膝に指で「の」の字を書く。
四郎兵衛は、好々爺の笑顔のまま「こらこら」と、その手首をつかんで止める。
「そうだねぇ……じゃあ、わしからも、彼に文を催促してみよう。
ただ、あまり期待はしないでおくれよ?」
「本当に?! ええ、ええ。どうか、よろしくお願いしますよ。」
酔っぱらいの大仰さで満面の笑みを浮かべるあやに、
四郎兵衛は、一杯食わされたと額を叩いた。
そして三月初め――
ついに“かの君”から文が届いた。
四郎兵衛から手渡された以上、彼からの文で間違いない。
『墨堤の桜が満開になったら、舟で花見と洒落込みましょう』
桜はまもなく咲くと、先ほど下働きのアヤと話したばかりだった。
陽気も良いので、さして待たずに満開となるだろう。
心はどうしようもなく浮かれるのに、一つだけ不安が残る。
その筆跡が、どうも“かの君”ではない気がしてならなかったのである。




