第二十三話 名前を引き受ける
――肌は張りがあり、なめらかで、胸も腹も贅肉はなく、硬かった……
祝い事の全てが終わり、やっとぼんやりと考える時間を持てた午後、
あやは新しく充てられた自室の陽だまりの中、あの夜を思い出していた。
言葉は一言も発しなかったが、
時折耐えきれず洩らした吐息も、その肌の感触も、若い男のものだった。
――金はあるけれど、私の旦那にはなれないひと……
一体どんな人で、どんな事情があるのだろう……
四郎兵衛は、今後とも、自分を通じてあやを“かの君”の座敷や寝所に招くこともあるだろう、と言っていた。
また、あやが“かの君”に文をしたためることを望んでいた。
「……ご贔屓にしていただけるよう――、媚びの一つも売りましょうか……」
あやは、柄にもなくはすっぱなことを声に出してみてから、
やはり自分には似合わない、と苦笑して文机へと移動する。
文箱を引き寄せたその時に、襖が開いて望月が入って来た。
「こ――……いうた。」
「“小唄”って言いそうになったでしょう……」
うっかり“小唄”と言いそうになった望月に、あやは振り向いてじとりとねめつける。
「ごめん、だって、なかなか慣れないし、恋歌って、小唄に似ているし、何かあんたらしくないし……」
望月は悪びれもせず、あやのそばまでやってくると腰を下ろす。
「ねぇ、“恋歌”って、誰が命名したの? 何かあんたでも、三浦さまでもない気がするし、
まさか雁金姐さんが生前に――?」
「どれも外れだけれど、答えられないわ。」
「ふーん……、何か怪しいけど――まあいいわ。
そんなこと言いに来たんじゃないの。ちょっと相談に乗ってほしくって……」
望月は、懐をごそごそ探って、一通の文を出す。
「吉田さまがね、陸軍のお偉方を接待したいのだけど、若い方が多いんですって。
で、私に手配を一任したいと――」
「吉田さまって、大蔵省の方よね? なのに、陸軍を接待するの?」
逆ではないかと暗に匂わせたあやに、望月はもう一度文面に目を通して首を振る。
「ええ、何でも特殊な部隊で、陛下直属の組織だとか――。
大切な要件だから、丁重にって言われているの。」
「そう……、でも、軍関係なら、藤ケ瀬姐さんとかの方が詳しいんじゃない?
私の人脈には軍人さんはほとんどいないわよ?」
あやが首をかしげると、勝気な望月が、珍しく申し訳なさげにあやへと顔を近づける。
「……今度の吉田さまがお招きするの……異能特務局の上層部なのよ……。
あんた、ご親族がそちらにお勤めだって、風の噂で聞いて――、なにか知っていたらって思って……ね。」
あやは“異能特務局”の言葉に目を見開いたまま動きを止めた。
数年ぶりに脳裏には、腹違いの姉と、その冷徹な夫の顔が思い浮かんだ。
「私は……あんたがご親族と確執があるのは聞いているのだけれど――、
吉田さまには、恋歌も私と揃いで座敷に出てほしいって……。」
望月が遠慮がちに語尾を濁す。
あやは目を閉じて、深く息を吐く。
それから覚悟を決めて、望月へとまっすぐ向き直った。
「わかった。他ならぬ吉田さまのご依頼だもの。
それに、この件――あんたの未来の細君としての器量も、図ろうって魂胆じゃないかしら……
高級官僚の妻になるのなら、そういったこともできなきゃいけないって。」
「やっぱり、そう思う?」
自信なさげに眉根を下げた望月の手を、あやはそっとすくい上げる。
「ええ。でも、吉田さまはあんたならできるって、お任せになったはずよ。
ならば、私も振るって協力しなくっちゃ。」
「でも、恋歌。会いたくない人に会うかもしれないのよ?」
望月は心配そうに、あやの手を握り返す。
「何を言っているの、私はもうあの人の妹である前に、雁金姐さんの妹分、翠玉楼の“恋歌”だよ。
あの人たちは、まさか自分の血縁が、花街にいるなんて思いもしないんじゃないかしら。」
――だから、もう、絶対大丈夫。
あやはそう微笑んで、力強くうなづいた。




